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竹沢の支配者
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夜中の二時。
裏音羽の生徒にとってはたいして遅くもない時間。
竹沢は一人、境界線に立っていた。
表音羽との境界線。
高い塀で仕切られ、上には鉄条網まで張られている。
表音羽の生徒と裏音羽の生徒が接触しないようにとの配慮ではあるが、もとより裏の生徒は表の生徒になど興味はない。
ここまでしなくても表音羽の領域にまで入って、トラブルを引き起こそうと考える者はいなかった。
教師が表音羽の保護者向きとして作ったに過ぎない。
塀に沿って、竹沢は歩いていく。
塀の向こうに表音羽の校舎が見えていた。
校舎の後ろには体育館。
もちろん今日、竹沢が訪れた裏音羽の体育館とは比較にならないほど大きくてきれいだ。
裏音羽にはない部活用の更衣室やシャワールームまで完備されている。
そのことを竹沢は知っていた。
知りたくもなかったそのことを、知らざるをえなくなったのは一週間前。
数人の下級生を叩きのめし、意気揚々と寮に戻る途中。
気まぐれで遠回りをした。
月があまりにもきれいだったので、見上げながら歩いていて、気がついたら、境界線の近くまで来ていたのだ。
気分の良さに鼻歌まじりで方向転換した瞬間だった。
背後に人の気配を感じた。
と、同時になにもかもがわからなくなっていた。
痛みだとか恐怖だとか。
感じる暇さえなかったのだ。
そして、気がついた時。
今、竹沢が向かおうとしている表音羽の体育館裏にある更衣室の中にいた。
どのようにして連れて来られたのかもわからなかった。
やたらに眩しくてゆっくり目を開けると。
「遅刻だ」
あの時と変わらない無表情。
境界線のこちら側に表音羽の制服を着た生徒が立っていた。
短く黒い髪。
奥二重の細い瞳。
小柄な竹沢より確実に一回りは大きな体。
この体に組み敷かれたのだ、と思うと、相手をじっと見ていられず視線をそらせた。
「いろいろとあんだよ、俺にだって」
言い訳じみた言葉に、竹沢は顔をしかめる。
言い訳は嫌いだ。
だが、目の前の相手から放たれている雰囲気にのまれてしまっていた。
足がすくむほどの恐怖を感じる。
「来い」
短く言って、そいつが体を返す。
この先に小さな扉があり、そこから表音羽の領域に入れるのだ。
ついて行きたくない。
もし後ろから自分が襲ったら、逃げられるだろうか。
思ったが、実行はしなかった。
できないことを知っていた。
前をゆく相手について、扉を抜ける。
体育館裏の更衣室。
あの日と同じく、小さな窓から月明かりが漏れ入ってきて、竹沢と相手の顔を照らしていた。
ぱちん。
いきなり室内が明るくなり、竹沢は目を細めた。
壁際をぐるりと縦長のロッカーが並んでいる。
中央には木製の細長いベンチが間を空けて三つ置かれていた。
思わず目をそむける。
相手はなにも言わず、真ん中のベンチに腰をおろした。
「来い」
体が震える。
竹沢の頭の中に嫌な記憶が次々と蘇った。
が、逃げることはできない。
ゆっくり歩いて相手の前に立つ。
「座れよ」
どこに、とは聞かなくてもわかる。
竹沢は相手の膝の上にまたがって座った。
回された手で頭の後ろを撫でられた。
「聞き分けが良くて助かる」
耳元に囁かれる低い声。
背中に電気が走ったように、また体が震える。
これは相手に対する恐怖ではなく、自分に対してのものだ。
竹沢は、自分の中にある欲望や快楽を否応なく引きずり出された日から、ずっと恐怖していた。
自分が自分のものではなくなっていくような感覚。
この相手の前では、したいこととしたくないことの判別もつかなくなる。
嫌だと思っているはずなのに拒絶できない。
両手で頬を包まれ、上を向かされた。
相手の目を見つめる勇気はなく、目を閉じる。
重ねられた唇。
どうしてこんなことに……という問いの答えはどこにもない。
あの日まで名前どころか存在すらも知らなかった相手に抱かれる。
思いに、体が自然に反応を返していた。
「今日は優しくしてやるよ」
この間は強引だったからな。
いつもなら出てくるような皮肉も口にはできなかった。
恐怖と期待とがないまぜになったような感情の波に竹沢はついていけない。
どうすればいいのかわからなかった。
言われるがままに体を開くなどおよそ自分らしくもない。
心のどこかではそう思っているのに、どうしても抗えないのだ。
「ちゃんと俺を見ろ」
言葉に従い、ゆっくり目を開ける。
どこまでも無表情な相手に、なぜか少しだけ安心する。
嘲るでもなく、蔑むでもなく、ただただ感情を欠いたような瞳に竹沢を映している男。
溺れてしまいそうな自分がひどく怖かった。
「佐安治……」
呼ぶと、再び唇が重ねられる。
表音羽の佐安治亮輔は、竹沢の支配者だった。
裏音羽の生徒にとってはたいして遅くもない時間。
竹沢は一人、境界線に立っていた。
表音羽との境界線。
高い塀で仕切られ、上には鉄条網まで張られている。
表音羽の生徒と裏音羽の生徒が接触しないようにとの配慮ではあるが、もとより裏の生徒は表の生徒になど興味はない。
ここまでしなくても表音羽の領域にまで入って、トラブルを引き起こそうと考える者はいなかった。
教師が表音羽の保護者向きとして作ったに過ぎない。
塀に沿って、竹沢は歩いていく。
塀の向こうに表音羽の校舎が見えていた。
校舎の後ろには体育館。
もちろん今日、竹沢が訪れた裏音羽の体育館とは比較にならないほど大きくてきれいだ。
裏音羽にはない部活用の更衣室やシャワールームまで完備されている。
そのことを竹沢は知っていた。
知りたくもなかったそのことを、知らざるをえなくなったのは一週間前。
数人の下級生を叩きのめし、意気揚々と寮に戻る途中。
気まぐれで遠回りをした。
月があまりにもきれいだったので、見上げながら歩いていて、気がついたら、境界線の近くまで来ていたのだ。
気分の良さに鼻歌まじりで方向転換した瞬間だった。
背後に人の気配を感じた。
と、同時になにもかもがわからなくなっていた。
痛みだとか恐怖だとか。
感じる暇さえなかったのだ。
そして、気がついた時。
今、竹沢が向かおうとしている表音羽の体育館裏にある更衣室の中にいた。
どのようにして連れて来られたのかもわからなかった。
やたらに眩しくてゆっくり目を開けると。
「遅刻だ」
あの時と変わらない無表情。
境界線のこちら側に表音羽の制服を着た生徒が立っていた。
短く黒い髪。
奥二重の細い瞳。
小柄な竹沢より確実に一回りは大きな体。
この体に組み敷かれたのだ、と思うと、相手をじっと見ていられず視線をそらせた。
「いろいろとあんだよ、俺にだって」
言い訳じみた言葉に、竹沢は顔をしかめる。
言い訳は嫌いだ。
だが、目の前の相手から放たれている雰囲気にのまれてしまっていた。
足がすくむほどの恐怖を感じる。
「来い」
短く言って、そいつが体を返す。
この先に小さな扉があり、そこから表音羽の領域に入れるのだ。
ついて行きたくない。
もし後ろから自分が襲ったら、逃げられるだろうか。
思ったが、実行はしなかった。
できないことを知っていた。
前をゆく相手について、扉を抜ける。
体育館裏の更衣室。
あの日と同じく、小さな窓から月明かりが漏れ入ってきて、竹沢と相手の顔を照らしていた。
ぱちん。
いきなり室内が明るくなり、竹沢は目を細めた。
壁際をぐるりと縦長のロッカーが並んでいる。
中央には木製の細長いベンチが間を空けて三つ置かれていた。
思わず目をそむける。
相手はなにも言わず、真ん中のベンチに腰をおろした。
「来い」
体が震える。
竹沢の頭の中に嫌な記憶が次々と蘇った。
が、逃げることはできない。
ゆっくり歩いて相手の前に立つ。
「座れよ」
どこに、とは聞かなくてもわかる。
竹沢は相手の膝の上にまたがって座った。
回された手で頭の後ろを撫でられた。
「聞き分けが良くて助かる」
耳元に囁かれる低い声。
背中に電気が走ったように、また体が震える。
これは相手に対する恐怖ではなく、自分に対してのものだ。
竹沢は、自分の中にある欲望や快楽を否応なく引きずり出された日から、ずっと恐怖していた。
自分が自分のものではなくなっていくような感覚。
この相手の前では、したいこととしたくないことの判別もつかなくなる。
嫌だと思っているはずなのに拒絶できない。
両手で頬を包まれ、上を向かされた。
相手の目を見つめる勇気はなく、目を閉じる。
重ねられた唇。
どうしてこんなことに……という問いの答えはどこにもない。
あの日まで名前どころか存在すらも知らなかった相手に抱かれる。
思いに、体が自然に反応を返していた。
「今日は優しくしてやるよ」
この間は強引だったからな。
いつもなら出てくるような皮肉も口にはできなかった。
恐怖と期待とがないまぜになったような感情の波に竹沢はついていけない。
どうすればいいのかわからなかった。
言われるがままに体を開くなどおよそ自分らしくもない。
心のどこかではそう思っているのに、どうしても抗えないのだ。
「ちゃんと俺を見ろ」
言葉に従い、ゆっくり目を開ける。
どこまでも無表情な相手に、なぜか少しだけ安心する。
嘲るでもなく、蔑むでもなく、ただただ感情を欠いたような瞳に竹沢を映している男。
溺れてしまいそうな自分がひどく怖かった。
「佐安治……」
呼ぶと、再び唇が重ねられる。
表音羽の佐安治亮輔は、竹沢の支配者だった。
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