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最終章 2人の未来編

31、縋り付かせてくれないか?

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 ずっと恐れていた事が起こった。
 たっくんが医師から穂華さんの余命宣告を受けたのだ。

肝腎かんじん症候群です。もってあと2~3週間、たぶん年は越せないでしょう』

 機能が十分に果たせなくなった肝臓の代わりに、腎臓に負荷が掛かりすぎたのだ。
 酷使された腎臓は腎不全を起こし、血液の濾過ろかが出来なくなった。



 その日は金曜日で、私は午後5時からバイトがあったのだけど、たっくんの電話を切ってすぐに同じ大学の同僚に連絡を取り、急遽シフトを引き受けてもらった。

 そしてボストンバッグに乱暴に着替えを突っ込むと、普段着の上に茶色いダウンジャケットを羽織って外へ飛び出した。
 途端に身を切るような寒さにブルッと震え上がったけれど、全速力で駅へと走っている間にそんなものは吹き飛んだ。


 私が施設に着いたのは午後6時半頃で、ノックをしてゆっくりとドアを開けると、たっくんはベッドサイドの椅子に静かに座っていた。

 暗くなった部屋で電気もつけず黙って項垂うなだれているのを見たら、何て声を掛ければいいのか分からなかった。
 だから私は無言で後ろからたっくんの身体を抱きしめた。

「小夏……」

 たっくんが前に回した私の手をギュッと握り締める。

「小夏……母さんがもうすぐ死ぬんだってさ」
「……うん」

「俺……覚悟してたんだけど……」
「……うん」

 そこからたっくんは、せきを切ったように一気に語り始めた。

「俺はずっと母さんに振り回されっぱなしでさ、19年の人生の半分以上は、辛かったり悔しかったり憎かったり……そんなクソみたいな思い出で溢れ返ってんだよ……」

 私は途中一言も口を挟まず、その言葉をひたすら受け止めていた。

 
 自分の母親がこんなんじゃなかったら、ほんの少しでいいから早苗さんや普通の母親みたいに節操せっそうのある生き方をしてくれていたら……俺の人生はもうちょっとマシだったのに。

 そんな事を何度考えたか分からない。

 大好きな子と引き裂かれた挙句、思春期に差し掛かった難しい時期に、住む場所も環境もフラフラ変わって、次から次へといろんな問題が起こって…… 。

 自分で言うのも変だけど、普通だったらもっと早い時期に反抗期に突入してグレまくってもおかしくなかったと思う。

 だけど俺には反抗する父親はいなかったし、 母親はしょっちゅう男と遊びまくってたから、 エディプスコンプレックスなんていうのになる事さえも出来なかった。

 親に対する憧れとか期待を持つ機会を与えられなかった俺は、自分でどうにかするすべを身に付けるしかなくて……1人で内側に抱え込み、ヘラヘラと笑う事だけがどんどん上手うまくなっていったんだ。


 母さんが失踪した時が、ドン底もドン底の、俺の最悪な人生のピークで、あの時は本当に、今すぐ死んでしまいたいって思っていた。そして母さんが何処かで野垂れ死んでいても知ったことじゃないとも、本気で思ってたんだ。


 小夏、お前は俺のことを『優しい』だとか『強い人』だとか言うけどさ、俺はそんなに立派なヤツじゃないよ。

 ただ、クソみたいな俺の人生に更に泥を塗るようなことをしたくないだけ。俺が大っ嫌いで憎んだ酷い大人達みたいには、あんな風に俺は絶対にならない……そう誓ってるだけなんだ。


 正直言えば、母さんをウザいとか面倒だとか思ったことなんて数え切れないくらいあるし、このまま放って小夏の元に行ってしまいたいって今もしょっちゅう思ってる。

『どうせもう俺のことなんて分からないんだ、ここにいたって意味は無いだろう?』っていう投げやりな気持ちと、『それじゃ駄目だ、後で後悔するぞ』っていう気持ちの葛藤で、心が振り子のように揺れてるんだ。

 だけど、幼い頃に向けられた柔らかい笑顔や、俺の顔を愛おしげに見つめる瞳、そして仕事帰りに幼い俺をおぶってくれた背中の温かさが……人生の半分にも満たないほんの少しの幸福な思い出が……俺が母さんを見放す事を許さないんだ。



「……それだけの事だよ。俺は、俺へのケジメのためにここにいる……ただ、それだけなんだ。……そう思ってたんだけどな……」

 たっくんは更に背中を丸めて、握った手に額を押し付ける。

「なんなんだろうな……俺、今、相当ショックを受けてるわ。こんな状態になっても……それでも生きていて欲しいって思ってんだよ……」

「たっくん……」


「小夏……俺……小夏がいてくれて良かった。1人になったら、俺……」
「うん……私はここにいるよ。ずっと一緒にいるから……」

「ごめん……俺、ダサいだろ? だけど……みっともなくてもいいから、俺は今、お前に縋り付きたいんだ。縋り付かせてくれないか? 小夏……今夜はここにいてくれよ……俺を置いて行かないで……」

「うん……ここにいる」

 
 たっくん、人はそれを、『愛』と呼ぶんだよ。
 あんなに辛い目に遭ってきても、それでも母親の側に寄り添って、最期までとことん面倒を見て、見捨てない覚悟……それはたっくんの『優しさ』で『強さ』なんだよ。


 たっくん、あなたはあなたを傷つけてきた多くの無責任な大人達とは全然違う。
 彼らを反面教師として、自分の信じる道をひたむきに進んでいるあなたは……やっぱり強くて優しく、そして愛情深い人なんだと思う。

 あなたはお母さんをちゃんと愛しているんだよ……。


 そう言葉で伝える代わりに、私はたっくんの震える背中にギュウっと抱きついて、一緒に涙を流すことを選んだ。

 クリスマスまであと12日と迫った、底冷えのする寒い夜だった。
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