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<< 妹と親友への遺言 >> side 大志

53、ボストンにて (8) / キス

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「タイシは本当にサクラを大切に思っているんだね」
「はい。何よりも、誰よりも一番大切な俺の宝物です」

 躊躇なく即答した俺に苦笑しながら、ジョンは俺の左腕から点滴の針をスッと抜いてアルコール綿を充てる。

「ちょっと押さえててくれるかな?」
「はい」

 針を抜いた部位をグッと押さえていると、彼がテープでとめて固定してくれた。

 渡米2日目のレストランで病気のことがバレて以来、俺は毎日ジョンのオフィスで点滴をしてもらうようになっていた。

 朝、桜子と一緒に学校までついて行って、彼女が建物に入って行くのを見届けてから地下鉄でジョンのオフィスに向かう。そこで30分くらいかけて栄養剤に痛み止めや吐き気止めの入った点滴をしてもらい、調子が良ければケンブリッジの街を散策したり、時にはアパートで寝て過ごしたりしてから桜子のお迎えに行く。

 日本から痛み止めの錠剤を持って来てはいたけれど、点滴の方が断然効きがいいので正直とても助かっている。

「明日は何時の便で発つんだい?」
「午後12時20分です」

「そうか……こんな状態でアメリカまで来て、1週間も平静を装って……良く頑張ったね。君の精神力には感心するよ。日本人は皆こんなに我慢強いのかい?」

「そうですね……アメリカ人よりは忍耐強い気がします。それを美徳としているというか……出産の時も今だに麻酔なしが主流ですよ」

「何だって?!それはクレイジーだ!俺の奥さんはアメリカ人で良かったよ。麻酔なしの出産なんてあり得ない!」

 ハハハッと笑い合ってから、ベッドから足を下ろし立ち上がった。

「明日の朝、もう一度ここに寄れるかい? 長時間のフライトはキツいだろう。出発前にもう一度点滴をしておいた方がいい」

「お心遣いに感謝します。本当に良くしていただいて……」

「君の強い想いに心を動かされただけだよ。私が勝手に押し付けた親切だ。全く気に病む必要はない」
「ありがとうございます……」

 もう一度感謝の言葉を述べると握手を交わしてからオフィスを出た。
 痛み止めのせいか頭がぼんやりする。今日はアパートに戻ってメールのチェックをしてからソファーで横になっていよう。
 桜子との時間を無駄にしたくないから、昼間のうちに体力を温存させておきたい。


「はぁ……あっという間だったな」

 とうとう明日、桜子と離れて日本に帰る。
 連日あちこち歩き回ったせいで疲れてはいるけれど、これは胃の方と違って心地よい疲労感だ。
 仕事も何もかも忘れて桜子とじっくり向き合えた時間は至福としか言いようが無い。

ーーこれで胃の調子が良くて、もう少しいろんなものを食べられれば良かったんだけど……。

 贅沢を言い出したらきりがない。桜子に病気を悟られることなく1週間を終えられそうなことに感謝しよう。そしてジョンとの出会いにも。


 アパートでぐっすり眠ってから桜子を迎えに行き、日系スーパーに寄って食材を買って帰ってきた。
 俺がうどんを食べたいとリクエストしたからだ。

 桜子には、そんな簡単なものでいいのかと何度も聞き返されたけれど、手の込んだものを作ってもらっても食べられないから素うどんで十分だ。

 夕食を食べてから交代でお風呂に入ると、ソファーに並んで座っていろんな話をした。
 幼い頃のこと、父さんや母さんのこと、事務所のこと……。

「私、パラリーガルの勉強もした方がいいのかな?」

「まあ、出来るに越したことはないけど、まずは秘書としての仕事を確実に覚えて、それから徐々にだな。アレもコレも手を出すと、全部が中途半端になる」

「そうか……私が日本に帰ったら、法律の事とかも教えてね」
「ああ、もちろん」

 それまで生きていられるのかな……生きていたいな……と、強く思った。

 桜子が日本に戻ったとき、もしもまだ俺が生きていたとしても、病気のことを隠し通すのは無理だろう。
 真実を知って打ちひしがれる桜子を見たくなんか無いけれど……全てを知った上で、『最期のその時』に向けて徐々に心の準備をしていって欲しいと思う。
 その期間を少しでも長く設けてやるのが兄としての俺の役目だ。
 そう、1分1秒でも長く……。


 明日には離ればなれになるのだと思うと、お互いに『もう寝るか』の言葉が口に出せなくて、深夜を過ぎても肩を寄せ合い話し続けていた。
 それでも、俺が昼間に買っておいたワインをちびちび口にしていた桜子は先にウトウトし始め、午前2時頃になると俺に頭を預けて眠ってしまった。

 昼間に学校で頭を使って疲れているだろうに、俺のために頑張って起きていてくれたんだな……。
 起こさないようゆっくり身体の位置をズラすと、お姫様抱っこで寝室へと連れて行く。
 明かりのついていない薄暗い部屋のベッドに軽い身体を下ろすと、上からまじまじと見下ろす。

 俺が買ったシルクのパジャマが暗闇で浮いたようにキラキラ輝いて見える。
 スッと肩を撫でたら、柔らかく滑らかな肌触りが心地よかった。この下の肌も滑らかなんだろうな……と思うと、直接触れてみたい衝動に駆られた。

 パジャマのボタンに手をかけたところで、桜子が「ん……」と顔を少し動かしたから、ビクッと手を止めた。
 しばらくそのままジッと様子を伺ってから、顔にかかっていた髪を掻き上げ横に流してやる。
 額にそっと唇をあてる。触れたそこから『愛しい』が込み上げてくる。

ーー桜子……好きだ、大好きだ……。

 お前とずっとこうしていたいよ。
 お前を今ここで俺のものにしてしまいたいよ。
 恨まれてもいいから、憎まれてもいいから……たった一度でいい、お前の全てを感じたいんだ。

 だけど……。

 それをしてしまったら、お前との出会いのあのクリスマスツリーの煌めきも、その後の兄妹の楽しくて幸せな思い出も、全てが桜子にとって辛くて悲しい思い出に変わってしまうんだろうな。

 お前にはずっと笑っていて欲しいから、俺を思い出すときには幸せな笑顔を浮かべて欲しいから……俺は『お兄ちゃん』でい続けるべきなんだろうな。

「だけどな……桜子……」

 そっと名前を呼んでみる。反応は無かった。
 胸が規則的に上下しているのを確認すると、顔を至近距離まで近づけてみる。
 長い睫毛、スッと通った鼻筋、薄くて整った形の唇。
 その唇を人差し指でなぞったら、柔らかく、フニフニしていた。
 更に顔を近づけて、一瞬止まる。

ーーだけどな、桜子、俺はお前を……愛してるんだ……。

 瞼を閉じて、薄い唇に口づけた。
 途端にそこから蕩けるような幸福感がブワッと広がり、全身を痺れさせた。少し遅れて甘くて苦い苦しみがジワジワと追いかけて来て、漸く俺はゆっくりと唇を離した。

「………愛してる」
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