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<< 妹と親友への遺言 >> side 大志
67、あと少し
しおりを挟む術後3日目の昼に漸く絶食が解かれた。まずは重湯からスタートだ。
長らく口から物を食べられていなかったから、喜びよりも怖さの方が大きい。
スプーンで掬ってチュッと少量だけ啜ってみた。
ーー飲み込めた……。
暖かい食べ物が体の奥に流れて行く感覚。すごく久々な気がする。
もう一口……大丈夫だ。舌で感じる熱とお米の甘み。そうか、お米って甘かったんだな。感動だ。まあ、お米と言いつつ米粒は見えない重湯だけど。
吐き気を感じずに食事が出来る喜びを噛みしめながら、俺はゆっくりゆっくりとスプーンを口に運び続けた。
さすがに全部は無理だったけれど、お椀に半分近く残しただけ。これまでの事を考えたら大きな進歩だ。
『ちゃんと口から食べ、生きるためのエネルギーを身体に取り入れる事が大事』
医師の言葉の意味がやっと分かったような気がする。
食べて寝て起きる。その当たり前の行為を繰り返すことが、『生きている』という事なんだ。
術後の経過は良好で、手術から2週間後に退院した俺は、アパートでの一人暮らしを再開した。
術後の経過が良好だとは言っても癌が治ったわけではなく、抗がん剤の内服と週に1回の通院を続けながら治療を継続していくのだ。
退院の日は水口さんが車で迎えに来てくれた。冬馬は事務所でクライアントと裁判の打ち合わせ中だという。
「悪いね、業務以外のことまでさせちゃって」
助手席でシートベルトを締めながらそう言うと、水口さんはバッとこちらに顔を向けた。
「八神先生、これは仕事とは関係ないですよ。私が仕事仲間としてあなたのお手伝いをしたいと望んで動いてるんです。そんな他人行儀な事を言わないで下さいよ。寂しいじゃないですか」
怒ったような口調で言われたけど、最後の『寂しいじゃないですか』だけは声が震えていた。
ああ、俺はいい仲間を持ったな。彼女なら事務所をしっかり支えてくれる。桜子のいい教育係にもなってくれるだろう。
水口さんは荷物を持って一緒にアパートに入ると、大きな紙袋の中からタッパーをいくつも取り出して冷蔵庫に詰め込み始めた。それぞれに内容や日付けの付箋紙が貼られている。
「賞味期限が書いてありますから、それを1日でも過ぎたら捨ててくださいね。タッパーは日野先生が回収に来ますから洗わなくて結構です」
そして俺からお米の場所を聞き出すと、手早く炊飯器をセットして振り返った。
「すぐにお粥が出来ますから、ちゃんとお昼から食べて下さいね。私はまた八神先生と働けると思っていますよ。たまに事務所に喝を入れに来て下さいね。それではお大事にして下さい」
泣いてはいけないと思ったんだろう。口をギュッと引き結んで、空になった紙袋を畳むと小脇に抱えて帰って行った。
ーーうん、これなら事務所も安泰だな。
水口さんはいずれ辞めていく人だけど、出来ればあと1年くらい残ってくれるといいかな。
その間に桜子が業務を覚えて、事務所が落ち着いたらもう1人弁護士に入ってもらって……。
「いや、それは俺が口出しする事じゃないか」
今はまだ冬馬が気を遣って俺の名前を残してくれているけれど、事務所は実質冬馬のものだ。
後のことはアイツが考えていくさ。俺以上に優秀で健康で仕事が出来るヤツなんだから。
3月に入り、アパートには大きな段ボールが続々と届き出した。
桜子の荷物だ。
「桜子か、荷物が届いたよ。そのまま置いておけばいいんだろ?」
『うん、今回のは洋服や雑貨ばかりだから。次に送るのはお土産やお菓子とかだから、いくつかは冷蔵庫に入れてもらった方がいいかな』
「そうか、分かった」
電話を切ってから深い溜息をつく。
ーーそうか、冷蔵庫か……。そっちは冬馬に頼まなきゃだな……。
あと2週間ほどで桜子が帰って来る。
だけどその頃には俺はアパートにいない。
俺は来週、再入院をすることになった。
内服ではなく点滴での抗がん剤治療を再開する。
セカンドラインの抗がん剤があまり効果を発揮せず、早々にサードラインに移行することになったのだ。
ーー崖っぷちだな……。
だけどもうすぐ桜子が帰って来る……。
本当はアパートで出迎えてやりたかったけど、仕方ないよな。
だけど俺はまだ生きている。
生きて桜子と再会するんだ……あと少し、もう少し……。
俺の身体、頑張ってくれよ……。
「頑張れ俺……頑張れ、俺の身体……」
桜子の送って来た段ボール箱をゆっくり撫でながら、俺は何度も何度も同じ言葉を繰り返していた。
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