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<< ボストン旅行記 >>
10、桜子
しおりを挟む兄がリスとの写真撮影に満足するのを待ってから、駅前のスーパーまで歩いた。
今夜は兄が好きそうなステーキハウスにでも……と思っていたけれど、時差ぼけで食欲が無いみたいだからアパートで食べることにした。
それに明日はシーフードレストランでの会食が待っている。少しでも胃を休めておいた方がいいだろう。
「桜子、このお店って豆腐は売ってる?」
「あるよ。大きめのスーパーなら大抵のお店には置いてある。わさびとか乾麺のお蕎麦なんかも買えるし」
「日本食人気スゲェな。もしかして納豆とかも買えるの?」
「それは流石に日系スーパーじゃないと……臭いが独特だからアメリカ人には無理じゃないかな」
「そうだよな、日本人でも結構苦手なヤツいるもんな」
兄が赤いショッピングカートを押し、そこに私が食材を入れていく。
誰かと一緒に買い物に来るのは久し振りでウキウキしてしまう。しかもそれが大好きな兄となのだから、喜びも10倍増しだ。
「お兄ちゃん、あっさりしたものがいいなら今夜は雑炊にしておく? お野菜を柔らかく煮込んで」
「おっ、いいかも……ってか桜子、恋人なんだから、ちゃんと名前で呼んでくれよ」
「えっ、もう始まってるの?」
「何言ってんだよ。散歩が終わった時点でとっくにスタートしてるよ。ほら、彼女っぽく甘えてみろよ」
私が渡米する前のデートで恋人ごっこをして以来、兄の中ではこの設定がお気に入りらしい。
しかも今回はボストンにいる間中ずっとだと言う。
元々思いっきり甘えさせてもらっているし、恋人設定なんて無くても同じだと思うのだけど……。
ーーでも、せっかくボストンまで来てくれたんだものね。
忙しい中わざわざ時間を作って来てくれたのだから、兄のここでの1週間が最高に素晴らしいものであって欲しい。
だから、楽しい思い出作りのために、出来る限りのことをしたい……と思う。
カートを押している腕にしがみつき、横から見上げてみる。
「じゃあ大志、愛妻料理……じゃなくて、彼女?の手料理を振るまうから、リクエストがあったら言ってね」
「ふっ……愛妻料理でいいんだけど。今夜はさっき言ってた雑炊で頼む。楽しみだ」
目が柔らかく細められ、唇が弧を描く。
兄のこの蕩けるような優しい微笑みが好きだな……と改めて思う。
兄は昔からとにかくモテた。モテて当然だと思う。見映えが良いだけでなく、優しくてスマートで社交的だ。
こんなに素敵な人が私の兄でいてくれて、こんなにも大事にしてくれている。奇跡だと思う。
ーー兄になったのがこの人で良かった……。
その大好きな人と異国の地でこうして一緒に過ごせていることに、改めて感動して胸がいっぱいになる。
しがみつく腕にギュッと力を込めた。
「お兄ちゃん……じゃなくて、大志、本当の本当に大好きだよ。来てくれてありがとうね」
もう一度見上げたらクシャッと微笑んで、
「俺もだよ、桜子。愛してる」
横から頭をコツンとぶつけて来た。声音が甘くて本当の恋人みたい。
こんなのを見たら、周囲のお客さんは本当に恋人だって思ってそう……。
「俺たちって他のお客さんからは本当の恋人に見えてるんだろうな」
まさかの兄も同じことを考えていた。
「なんかいいな、こういうの」と言葉が続いて、それから兄は遠くを見るような目をした。
きっと忙し過ぎて恋人を作る暇も無いんだろうな……と思う。
「うん。いいね、こういうの。大志に彼女が出来るまでは私がちゃんとお世話をしてあげるからね。日本に帰ったら毎日お料理を作ってあげられるし、ネクタイも選んであげるよ」
「マジか。選ぶまでやるならせっかくだから結んで欲しいな」
「ええっ、いつも自分で結んでるじゃない。私は結び方を知らないし」
「教えてやるから覚えてよ」
「……分かった、頑張ってみるから日本に帰ったら教えてね。毎朝私がネクタイを結んであげて、一緒に出勤するの。半年後が楽しみだね」
兄はますます目を細めて私の頬をスルリと撫でた。
「うん、いいな、それ。本当に楽しみだ……」
*
今思えば、あのとき既に兄は末期癌だと宣告を受けていたのだ。
戯れの恋人ごっこに戯れの会話。半年後の未来を疑いもしなかった私を、兄はどんな気持ちで見つめ、語りかけていたのだろう。
考えてみれば、いくら時差ぼけだったとは言え、あの兄があそこまで食欲を失くしていたのが普通の状態じゃなかったのだ。
突然のボストン訪問とあの痩せ具合。そこから推察出来たはずなのに……私は兄の言葉を鵜呑みにして、ただただ浮かれてはしゃいでいた。
大好きだったのに、大切だったのに……一番辛い時に会いに来てくれた人に、励ましも労りの言葉もかけられなかった。
あの時兄は、二度と会えない覚悟でボストンまでお別れを言いに来たのだろうか。
それとも私に会って生きる気力を養いに来てくれたのだろうか。
後者であって欲しい。そして私と約束した半年後を楽しみに待っていてくれたのだと、諦めずにいてくれたのだと……そう思いたい。
その答えは、もう決して知ることはないけれど……あの時私に見せてくれた笑顔が無理に作られたものではなく、心からのものであったら嬉しいな……と思う。
目の前でカサリと音がして、リスが追い掛けっこをしながら走り去って行くのが見えた。
『おい桜子、見てみろよ、リスがいるぞ』
ーーお兄ちゃん……。
不意に大きな感情の波が押し寄せて来て、私はその場にしゃがみ込んで顔を覆った。
「あなた大丈夫? 具合が悪いの?」
肩を震わせている私に散歩中の老夫婦が話し掛けて来た。
「ありがとうございます、大丈夫です」
心配そうにしながら去って行く2人を見送りながら、兄にもあんな未来があったはずなのだと思い、また泣いた。
しばらくしてからゆっくり立ち上がり、頬を拭う。振り返ると煉瓦造りのアパートが、キラキラ眩しい太陽の光の中で輝いていた。
4階建てのアパートの4階角部屋。兄が選んでくれたあの場所で、私たちは確かに楽しい時間を過ごしていたんだ。
私にとってかけがえのない幸せな1週間であったように、兄にとってもそうであったに違いない。
ーーそうだよね、お兄ちゃん。
私が兄との1週間を思い浮かべる時、脳裏に浮かぶのは、太陽のような明るい笑顔と優しい手のぬくもりばかりだ。
10
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