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1巻
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1 拝啓、あしながおじさま
あしながおじさまへ
おじさま、こんにちは。
私は今、この文章をニューヨークの空港ラウンジで書いています。
早いもので、私がアメリカに来て四年、おじさまと知り合ってからは既に六年近くの月日が経ったのですね――
そこまで文章を打ち込んだところで、白石雛子はパソコン画面から顔を上げた。
今日は快晴だ。窓際の丸テーブルの席からは、飛び立つ飛行機の様子がよく見える。
キラリと光って真っ青な空に消えていく機体を見送りながら、雛子はその先にある日本を思った。
――おじさま、やっとお会いできるんですね。
二十二歳、夏。ニューヨーク州マンハッタンにある大学での留学生活を終え、これから日本に帰国する。
六年前、すべてを失い失意のどん底にいた雛子に希望を与え、支え続けてくれた大切な人、〝あしながおじさま〟の秘書となり、彼に恩返しをするために。
平日午前中のセネターラウンジは、人がまばらでとても静かだ。
雛子のようにパソコンに向かっているもの、アルコールを飲んで寛いでいるもの。皆それぞれの方法で搭乗までの待ち時間を過ごしている。
ゆるくウェーブのかかった背中までの長さのブラウンヘアーを、雛子は手で掻き上げた。
少女が好む着せ替え人形に似ているとよく言われるこの顔は、外国人の興味をひくのか、大学では男子学生からたびたび声をかけられていた。
いつも彼らとの壁になってくれていた親友が、『ヒナコはおっとりしてるから、日本に着くまでに誘拐されないようにね』と本気で心配していたけれど……
――ふふっ、そんな心配はないわよね。
なにしろ今いる場所は、ファーストクラス専用の高級ラウンジ。
不審人物は入れないので、搭乗までの待ち時間をゆったりと過ごしていられるはず……だった。
今のうちにおじさまへのメールを送ってしまおうと、パソコンに視線を戻したその時、カタンと向かい側の椅子に誰かが座った気配がする。
――えっ、混んでるわけでもないのに、どうして?
わざわざ相席をする必要もないのにと顔を上げた途端、雛子は目を見開き固まった。
「うそ……なんで?」
――どうしてこの人がここにいるの?
思わずワンピースの胸元をギュッと握り込む。その指先が震えているのが、自分でもわかった。
「ヒナ、久しぶり」
「朝哉……」
「まだ覚えてくれてたんだな。もしかしたら俺の顔なんて忘れられてるかもって思ってた」
くっきり二重に色素の薄い茶色い瞳、高い鼻梁と薄い唇。明るかった髪色は黒くなっているけれど、目の前にある怖いほど整った顔はあの頃のままで……
――忘れてなんかいない。忘れるはずがない。
だってこの人は……
黒瀬朝哉。六年前、婚約者だった自分をあっさりと捨てた男性。
かつて雛子が誰よりも愛し、今は誰よりも憎んでいる相手なのだから。
*
高校一年生だった十五歳の冬。雛子は医療機器メーカー『白石メディカ』社長であった父、宗介のパートナーとして地元の経済人と医療関係者が集うパーティーに出席した。
雛子の母親は彼女が小学校五年生の時に乳癌で亡くなっている。宗介はその後も再婚せず、家政婦の助けを借りて、雛子と父娘二人での暮らしを続けていた。
これまで大抵のパーティーには宗介だけで参加していて、どうしてもパートナーが必要な場合は秘書を伴っていたのだが、この年高校生になったことで、雛子は初めてパートナー役を仰せつかる。
そこで当時二十歳の大学生だった、クインパスグループ御曹司の黒瀬朝哉と出会ったのだ。
モデルみたいな高身長に、やや光沢のある黒い細身のスーツをまとっている。ダークブラウンのミディアムヘアーは毛先を無造作に跳ねさせているのがオシャレで、キラキラの笑顔が王子様みたいで。
そんな彼は、実は自分は雛子の見合い相手だと言った。親の会社同士で業務提携の話が出ていて、お見合い後に婚約する手筈になっている。だけど雛子を気に入ったからお見合いをとばして、すぐ付き合おう……と突然せまられたのだ。驚くに決まってる。
朝哉は強引で、そしてとても魅力的だった。
「確かに俺たちは今、知り合ったばかりだ。それでも俺はパーティーが始まってからずっと君を見ていて『いいな』って思ったし、話してみたらますます気に入った。これからもっと好きになると思う」
この美しい男性にそんなふうに言われて心が動かない女子がいるだろうか。
中高一貫の女子校育ちで父親以外の男性に免疫のない雛子が恋に落ちたのは、あっという間だった。
「朝哉さん……私もこれからあなたのことを好きになるような気がします。よろしくお願いします」
「ハハッ、これから……か。それじゃ、ちゃんと好きになってもらえるように頑張るよ」
こんなふうに始まった二人の恋は、とても順調だった。と、今でも雛子は思う。
朝哉は言葉や態度で惜しみなく愛情を伝えてくれたし、元々が親公認だから話が早い。
翌年三月三日の雛子の誕生日には、朝哉と両親が秘書を伴って白石家を訪れ、四月の朝哉の誕生パーティーで婚約発表すると決めていた。
その時、両親を居間に残して二階の雛子の部屋に入った朝哉は、「本番はパーティーでだけど、俺の中ではもうヒナは婚約者だから」とスーツのポケットから小箱を取り出し、二カラットの指輪を雛子の薬指にそっとはめる。
雛子が左手をかざすと、窓から差し込む光を反射してキラキラと輝いた。
そして朝哉が優しく抱きしめキスしてくれて――
「正式に婚約したら……俺、ヒナを抱くよ」
「初心者なので……よろしくお願いします」
「俺も初心者だし」
「えっ、嘘っ!」
「本当。本番までに予習しておくよ。ふはっ、めっちゃ楽しみ」
明るい未来に思いを馳せていたこの瞬間が、雛子にとって最高で、そして最後の幸福な時間となる。
そんな雛子に悲劇が突然訪れた。
四月の大安吉日、朝哉の二十一歳の誕生祝いと婚約者となる雛子のお披露目を兼ねたパーティー当日。その会場に、雛子は行かれなかった。
父、宗介が心筋梗塞で突然死したのだ。
まさしく天国から地獄。
そこから雛子を取り巻く環境が目まぐるしく変わる。悪いほうに。
まず、叔父の大介が宗介の跡を継いで白石メディカの社長となり、雛子が住む世田谷の邸宅に家族揃って引っ越してきた。
白石メディカの製造部門である白石工業を任されていた大介は、それまで工場のある埼玉県に住んでいたのだが、そちらの家は売りに出したという。
雛子の居場所は二階の自分の部屋だけで、他はすべて大介一家のものとなった。
宗介が使っていた主寝室を大介と妻の恭子が使い、書斎には大介の持ち込んだパソコンが置かれる。
半地下のオーディオルームが長男である大地の部屋で、一階のゲストルームが大地の妹の麗良の部屋だ。
麗良は雛子と同い年だったが、当時雛子が通っていた中高一貫の女子高には編入できなかったらしく、寄付金が高いことで有名な別の私立高校に通うこととなった。
彼女は幼い頃から雛子をライバル視して嫌っているふしがあったものの、それでも従姉だ。同じ家に住んでいれば、いずれ姉妹か親友のようになれるかも……と雛子は考えていた。だが、それは麗良の「あなたと朝哉様じゃつり合わない! 彼は白石メディカの令嬢と結婚したいんだから私のものなの!」という言葉で、早々に無理だと悟らされる。
長男の大地は通っていた大学を前年に中退したそうで、今は何をしているのかよくわからない。
食事の時には部屋から出てくるものの、それ以外は基本的に部屋にいるようだ。
時々オーディオルームから大音量で銃撃戦らしき音が聞こえてくるから、ゲームでもしているのかもしれない。
そんな彼は、「雛子ちゃんは可愛いね。ゲームをしたい時はいつでも言って。教えてあげるから」、「僕の部屋におやつが沢山あるよ。遊びにこない?」などと、誘ってくる。
雛子はゲームに興味がないし、朝哉以外の男性と二人きりになるのを避けて断っていたけれど、家の中で唯一好意的に話しかけてくれる彼のことは嫌いではなかった。
だが、それ以外は困ったことばかりだ。
彼らが引っ越してきた翌日からデパートの外商がひっきりなしに家を訪れ、派手な絵画や家具が次々と運び込まれてくる。
「私の下手くそな料理じゃ雛子さんのお口に合わないだろうから~」
そう言って以前から雛子がお世話になっていた通いの家政婦の木村さんに家事一切を丸投げしていた恭子は、目つきが気に入らないと彼女を辞めさせてしまったのだ。
「ううっ……雛子さんがこんな目に遭うなんて、宗介様もさぞかし無念でしょうに」
そう木村さんが泣いて悔しがってくれたけれど、どうしようもない。優しかった父はもういないのだ。
キッチンにはインスタント食品やスナック菓子が乱雑に置かれ、冷蔵庫には缶ビールが並ぶ。
徐々に荒れていく家の様子に心を痛めながらも、未成年の雛子にできることは「私にすべて任せておけばいいからね」と言う大介と弁護士が出す書類に、次々とサインすることだけだった。
――仕方ない……わよね。
そんな叔父一家が引っ越してきて一週間後。雛子は叔父と叔母からリビングに呼ばれる。
父が愛用していた大理石のセンターテーブルには、パンフレットと契約書らしきものが置かれていた。
「雛子、実はね……」
チラチラと顔色をうかがうようにして口ごもる大介に痺れを切らしたのか、恭子がズイッとパンフレットを押し出す。
「あのね、雛子さん、あなたには学校の寮に入ってもらおうと思うの」
「えっ……」
「ほら、私たちと一緒にいたら気詰まりだろうし、寮のほうが気楽でしょ」
「でも、この家は……」
――お父さんとお母さんと暮らした大切な場所なのに。
「寮に入るのだってタダじゃないんだし、手続きとか面倒なのよ。だけど、あなたのためを思ってお金と労力をかけるって言ってるの。何か不満がある?」
強い口調で迫られて、何も言い返すことができない。
「……いいえ」
やっとのことで言葉を絞り出すと、雛子は揃えた足の上でギュッとスカートの布地を握りしめる。
たった一週間で、どうしてこうなってしまったのか……
本当なら今頃、朝哉の婚約者として幸せを噛みしめているはずだった。
左手の薬指には指輪がきらめいているはずだった。
自分の向かい側には父親が座り、優しく微笑んでいるはずだった。
――お父さん、私、どうしたらいいの?
その問いに答えてくれる人は、もうここにはいない。
自分で決めるしかないのだ。
いや、もう答えは決まっている。十六歳の自分に逆らうすべはないのだから。
「……わかりました。寮に入ります」
雛子は目の前の契約書にサインをして恭子に渡す。
部屋に戻ろうと背を向けると、「部屋の荷物は綺麗に整理していってね。あの部屋は麗良が使うから」と言われ、言葉も出なかった。
スーツケースと段ボール箱に荷物を詰め込みながら、沢山の思い出がつまった部屋に別れを告げる。
その後、雛子から入寮の件を知らされた朝哉は自分のことのように怒りをあらわにし、彼がその当時住んでいたマンションに一緒に住もうと言ってくれた。
だけど二人はまだ正式な婚約者ではなく、朝哉のマンションがある横浜から高校に通うのも難しい。
それに今の雛子の保護者は大介夫妻だ。彼らに行き先を告げないわけにはいかないだろう。そうなると、麗良の耳に入り、恋する朝哉と雛子が一緒に住むなど、反対するに決まっている。
『――そうか、ヒナが高校を卒業するまでのしんぼうだな。寮に行く日が決まったら教えて。俺が手伝うから』
電話口でそう言ってくれた朝哉だったが、実際に引っ越しを手伝ってもらうことはできなかった。予定よりも早く雛子が寮に入ってしまったから。
忌引きが明けて学校に行った雛子は、授業が終わると同時に寮長に呼び止められ、そのまま寮に案内されてしまう。
部屋には既に自宅の部屋から運びだされた段ボール箱とスーツケースが置かれていた。
悲しいとか悔しいとかよりも驚きのほうが大きくて、雛子は泣くことさえ忘れて立ち尽くす。
愕然としたものの、しばらくして、あのままあの家にいるよりはこうなってよかったのかも……と考え直し、前向きに頑張ろうと決めた。
――大丈夫。高校を卒業すれば、朝哉がここから連れ出してくれるんだから……
そうして、週末の短い自由時間に外出し朝哉と束の間のデートを重ねる。それだけが雛子の唯一の楽しみとなった。
朝哉も忙しい合間をぬい、ほんの数時間会うためだけに横浜から車を走らせてくれる。
そんな形で交際が続いていたある日。
『ヒナ、話があるんだ、明日会えないか?』
そう電話で呼び出された。
「もちろん! 会いたい」
八月最初の土曜日。朝哉の言葉に雛子は顔を輝かせる。
暑さのピークが近づくにつれて、朝哉と会えない日が増えていたのだ。
『ごめん、大学の勉強が忙しくてさ』
『悪いんだけど、父さんと約束があるんだ』
『来週も無理っぽい。ごめんな』
そんな台詞ばかり聞いていた。
たまに会いに来ても一時間ほど近所でお茶をするだけだったり、スーツ姿で現れて雛子の顔を見るだけで二分で帰っていったり。
それでも会えば強く抱きしめてくれるし、別れ際には熱いキスをして離れがたそうに門の向こう側からずっと手を振ってくれる。
忙しいのに会いにきてくれるだけでも嬉しいと思わなきゃ……そう思いながらも寂しさを感じていたのだ。
だから予想外に恋人に会えることになって、雛子は胸をワクワクさせながら朝を迎えた。
車で迎えにきた朝哉は、ネイビーのサマースーツに白いVネックシャツを合わせたセミフォーマル。
一方、雛子が着たのはウエストをリボンで絞った濃紺のシフォンドレスだった。そう、初めて朝哉と出会ったパーティーで着ていたものだ。
あのパーティー以来着る機会がなかったが、今日は朝哉にリクエストされたため、クローゼットから引っ張り出した。
――わざわざ色を合わせたセミフォーマルってことは、それなりにお洒落なお店に行くのかな?
そんな予想をしている雛子を乗せた車が停まったのは、高級ホテルの地下駐車場だ。朝哉に聞くまでもなく、どこなのかすぐに気づく。
「ここってあのホテル!?」
「うん、そう……行こう」
そこは二人が出会ったパーティー会場がある思い出のホテル、その最上階のラウンジでアフタヌーンティーをしようと誘われる。
――だからこのドレスを指定したのね。
雛子が三段スタンドに載ったサンドイッチやスコーン、デザートを充分堪能すると、朝哉が真剣な表情で、テーブルの上にカードキーを置いた。
「ヒナ、これはこのホテルのゲストルームのカードキー」
「えっ?」
「このホテルにクインパスが年間契約でおさえてる接待用の部屋があって、そこを今すぐ使える状態にしてもらっている」
――それって……
テーブルの上でギュッと手を握られて理解する。これから二人でその部屋に行きたいと誘われているのだと。
心臓が大きな音を立て、全身がカッと熱くなる。
だけど、まったく悩まなかった。
「うん……いいよ」
照れながらうなずくと、「行こう」と手を引かれ、雛子はラウンジをあとにする。
そして二人は無言で足を進めた。
エレベーターを降りた後は、足元がフワフワしているようで、雛子はこの状況に現実味を感じない。それでも自分の手を引く朝哉の手の熱と力強さは確かにここにあって……
夢ではないんだと確かめるように汗ばんだ手のひらを握り返すと、こちらを見下ろす朝哉と目が合う。その瞳は心なしか潤んでいる。
――きっと朝哉も緊張しているんだわ……
連れていかれた高層階にある二間続きの部屋は、奥が寝室になっていた。朝哉は景色を見ることもなくすぐにカーテンを閉め、雛子を抱き寄せる。
「ヒナ……」
息ができないほどの力強さ。容赦ない締め付けに腕の骨が折れるんじゃないかと心配になる。すると、「ごめん」と力を抜いて、朝哉はバスルームに入っていった。
――ビックリした……でも、余裕がないのは私だけじゃなくて朝哉も同じなのね……
『正式に婚約したら……俺、ヒナを抱くよ』
朝哉にそう言われた十六歳の誕生日、あの日から覚悟はできていた。
本来なら四月には婚約者になっていたはずなのだ。ううん、朝哉はもう婚約者だと言ってくれている。
「だから怖くない、嬉しいだけ……」
カーテンの隙間から外を覗くと、眼下には太陽の光でキラキラ輝くビルの群れと、ありんこみたいな車の列。
――この日の景色を目に焼きつけておこう。今日は大好きな人と結ばれる大切な記念日になるのだから……
バスローブを身にまとった朝哉と入れかわりでそそくさとバスルームに入った雛子は、いつもより入念に身体を洗う。
不安と期待と緊張と……さまざまな感情が胸に渦巻いていても、確かなものがある。『嫌だ』という気持ちが、ほんのひとかけらもないということ。
あらためて自分の気持ちを確認したところで、雛子は「うん」とうなずきシャワーを止める。何を着ればよいのか迷い、朝哉を真似てバスローブ一枚だけを身につけた。
「ヒナ、おいで」
ベッドサイドに腰掛けている朝哉に近づくと、彼が立ち上がり抱き上げてくれる。そのままベッドに横たえられた。
彼は雛子に覆いかぶさり茶色い瞳で見下ろしながら、その長い指で雛子の髪を、頬を、顔のパーツすべてを丁寧になぞる。まるで雛子の顔の輪郭を覚え込もうとするかのようにその行為を繰り返した後、ゆっくりと顔を近づけてきた。
すぐに唇が重なり、生温かい舌が口内を蹂躙する。
今までにキスは何度もしてきた。けれどこの先は未知の世界で……
チュッとリップ音がして唇が離れたかと思うと、そのまま耳たぶを甘噛みされ、舌が耳に入ってくる。粘着質な音と生温かい吐息が鼓膜を伝い、全身を震わせた。
朝哉の右手が雛子のバスローブをはだけさせ、肩を通過して胸のふくらみに触れる。
「あっ……」
思わず鼻にかかったような声を出してしまった。恥ずかしさに、雛子が閉じていた目をうっすらと開けると……朝哉が固まっている。
「朝哉? ごめんなさい、ちょっと恥ずかしかっただけ。大丈夫だから……」
「……ごめん」
「えっ?」
彼はゆっくりと身体を起こし、眉間に皺を寄せて自分の前髪を掻き上げた。
「ごめん……血迷った」
――えっ、血迷った!?
意味がわからないまま、雛子も身体を起こして向かい合う。
「朝哉、どうしたの?」
朝哉はそれに答えず、無言で雛子を抱きしめた。
「朝哉?」
「ヒナ……好きだよ」
「うん、私も朝哉が好き、大好き」
その後、彼は何度もキスをしてきつく抱きしめてくれたものの、結局その先に進むことはない。
――朝哉は私のために我慢してくれたんだわ。婚約したら、その時はきっと……
気づけばもう帰寮時間が迫っている。
離れがたくて、雛子がなかなかベッドから下りずにいると、朝哉がドレスを持ってきて着替えさせてくれた。
その手がとても優しくて、それだけでもう満足だと思える。
だが、帰りの運転中、朝哉はいつになく無言だった。思いつめたようなその横顔を眺めながら、雛子は彼も寂しいと思ってくれているのかな……と考える。
「朝哉、来週は会えそう?」
「……ヒナ、着いたよ。バッグを忘れないようにね」
「……うん」
先に車を降りた朝哉がいつものようにドアを開け、手を引いて降ろしてくれる。なぜか彼の指先は冷たくなっていた。
雛子同様、外出時間ギリギリで帰ってきた生徒が寮の門の内側に駆け込んでいく。
「ほら、ヒナも行かなきゃ」
「うん、でも……」
何がどうとはハッキリわからない。だけど目の前の朝哉に違和感を覚えた雛子は、このまま行ってはいけないと思った。
「もう時間だ。早く行って」
残り三分。早く建物の中に入り、寮母さんに帰寮の報告をしなくては。
後ろ髪を引かれる思いで門の内側に入り、振り返ったその時――
「ヒナ……」
門の向こう側から名前を呼んだ彼が、信じられない一言を発する。
「ごめん、婚約を解消させてほしい」
――えっ?
最初は聞き間違いだと思った。
そう思いながらも、さっきから感じていた違和感の正体が判明した気がして、雛子の心臓が嫌な音を立て始める。
「朝哉、何を言って……」
あしながおじさまへ
おじさま、こんにちは。
私は今、この文章をニューヨークの空港ラウンジで書いています。
早いもので、私がアメリカに来て四年、おじさまと知り合ってからは既に六年近くの月日が経ったのですね――
そこまで文章を打ち込んだところで、白石雛子はパソコン画面から顔を上げた。
今日は快晴だ。窓際の丸テーブルの席からは、飛び立つ飛行機の様子がよく見える。
キラリと光って真っ青な空に消えていく機体を見送りながら、雛子はその先にある日本を思った。
――おじさま、やっとお会いできるんですね。
二十二歳、夏。ニューヨーク州マンハッタンにある大学での留学生活を終え、これから日本に帰国する。
六年前、すべてを失い失意のどん底にいた雛子に希望を与え、支え続けてくれた大切な人、〝あしながおじさま〟の秘書となり、彼に恩返しをするために。
平日午前中のセネターラウンジは、人がまばらでとても静かだ。
雛子のようにパソコンに向かっているもの、アルコールを飲んで寛いでいるもの。皆それぞれの方法で搭乗までの待ち時間を過ごしている。
ゆるくウェーブのかかった背中までの長さのブラウンヘアーを、雛子は手で掻き上げた。
少女が好む着せ替え人形に似ているとよく言われるこの顔は、外国人の興味をひくのか、大学では男子学生からたびたび声をかけられていた。
いつも彼らとの壁になってくれていた親友が、『ヒナコはおっとりしてるから、日本に着くまでに誘拐されないようにね』と本気で心配していたけれど……
――ふふっ、そんな心配はないわよね。
なにしろ今いる場所は、ファーストクラス専用の高級ラウンジ。
不審人物は入れないので、搭乗までの待ち時間をゆったりと過ごしていられるはず……だった。
今のうちにおじさまへのメールを送ってしまおうと、パソコンに視線を戻したその時、カタンと向かい側の椅子に誰かが座った気配がする。
――えっ、混んでるわけでもないのに、どうして?
わざわざ相席をする必要もないのにと顔を上げた途端、雛子は目を見開き固まった。
「うそ……なんで?」
――どうしてこの人がここにいるの?
思わずワンピースの胸元をギュッと握り込む。その指先が震えているのが、自分でもわかった。
「ヒナ、久しぶり」
「朝哉……」
「まだ覚えてくれてたんだな。もしかしたら俺の顔なんて忘れられてるかもって思ってた」
くっきり二重に色素の薄い茶色い瞳、高い鼻梁と薄い唇。明るかった髪色は黒くなっているけれど、目の前にある怖いほど整った顔はあの頃のままで……
――忘れてなんかいない。忘れるはずがない。
だってこの人は……
黒瀬朝哉。六年前、婚約者だった自分をあっさりと捨てた男性。
かつて雛子が誰よりも愛し、今は誰よりも憎んでいる相手なのだから。
*
高校一年生だった十五歳の冬。雛子は医療機器メーカー『白石メディカ』社長であった父、宗介のパートナーとして地元の経済人と医療関係者が集うパーティーに出席した。
雛子の母親は彼女が小学校五年生の時に乳癌で亡くなっている。宗介はその後も再婚せず、家政婦の助けを借りて、雛子と父娘二人での暮らしを続けていた。
これまで大抵のパーティーには宗介だけで参加していて、どうしてもパートナーが必要な場合は秘書を伴っていたのだが、この年高校生になったことで、雛子は初めてパートナー役を仰せつかる。
そこで当時二十歳の大学生だった、クインパスグループ御曹司の黒瀬朝哉と出会ったのだ。
モデルみたいな高身長に、やや光沢のある黒い細身のスーツをまとっている。ダークブラウンのミディアムヘアーは毛先を無造作に跳ねさせているのがオシャレで、キラキラの笑顔が王子様みたいで。
そんな彼は、実は自分は雛子の見合い相手だと言った。親の会社同士で業務提携の話が出ていて、お見合い後に婚約する手筈になっている。だけど雛子を気に入ったからお見合いをとばして、すぐ付き合おう……と突然せまられたのだ。驚くに決まってる。
朝哉は強引で、そしてとても魅力的だった。
「確かに俺たちは今、知り合ったばかりだ。それでも俺はパーティーが始まってからずっと君を見ていて『いいな』って思ったし、話してみたらますます気に入った。これからもっと好きになると思う」
この美しい男性にそんなふうに言われて心が動かない女子がいるだろうか。
中高一貫の女子校育ちで父親以外の男性に免疫のない雛子が恋に落ちたのは、あっという間だった。
「朝哉さん……私もこれからあなたのことを好きになるような気がします。よろしくお願いします」
「ハハッ、これから……か。それじゃ、ちゃんと好きになってもらえるように頑張るよ」
こんなふうに始まった二人の恋は、とても順調だった。と、今でも雛子は思う。
朝哉は言葉や態度で惜しみなく愛情を伝えてくれたし、元々が親公認だから話が早い。
翌年三月三日の雛子の誕生日には、朝哉と両親が秘書を伴って白石家を訪れ、四月の朝哉の誕生パーティーで婚約発表すると決めていた。
その時、両親を居間に残して二階の雛子の部屋に入った朝哉は、「本番はパーティーでだけど、俺の中ではもうヒナは婚約者だから」とスーツのポケットから小箱を取り出し、二カラットの指輪を雛子の薬指にそっとはめる。
雛子が左手をかざすと、窓から差し込む光を反射してキラキラと輝いた。
そして朝哉が優しく抱きしめキスしてくれて――
「正式に婚約したら……俺、ヒナを抱くよ」
「初心者なので……よろしくお願いします」
「俺も初心者だし」
「えっ、嘘っ!」
「本当。本番までに予習しておくよ。ふはっ、めっちゃ楽しみ」
明るい未来に思いを馳せていたこの瞬間が、雛子にとって最高で、そして最後の幸福な時間となる。
そんな雛子に悲劇が突然訪れた。
四月の大安吉日、朝哉の二十一歳の誕生祝いと婚約者となる雛子のお披露目を兼ねたパーティー当日。その会場に、雛子は行かれなかった。
父、宗介が心筋梗塞で突然死したのだ。
まさしく天国から地獄。
そこから雛子を取り巻く環境が目まぐるしく変わる。悪いほうに。
まず、叔父の大介が宗介の跡を継いで白石メディカの社長となり、雛子が住む世田谷の邸宅に家族揃って引っ越してきた。
白石メディカの製造部門である白石工業を任されていた大介は、それまで工場のある埼玉県に住んでいたのだが、そちらの家は売りに出したという。
雛子の居場所は二階の自分の部屋だけで、他はすべて大介一家のものとなった。
宗介が使っていた主寝室を大介と妻の恭子が使い、書斎には大介の持ち込んだパソコンが置かれる。
半地下のオーディオルームが長男である大地の部屋で、一階のゲストルームが大地の妹の麗良の部屋だ。
麗良は雛子と同い年だったが、当時雛子が通っていた中高一貫の女子高には編入できなかったらしく、寄付金が高いことで有名な別の私立高校に通うこととなった。
彼女は幼い頃から雛子をライバル視して嫌っているふしがあったものの、それでも従姉だ。同じ家に住んでいれば、いずれ姉妹か親友のようになれるかも……と雛子は考えていた。だが、それは麗良の「あなたと朝哉様じゃつり合わない! 彼は白石メディカの令嬢と結婚したいんだから私のものなの!」という言葉で、早々に無理だと悟らされる。
長男の大地は通っていた大学を前年に中退したそうで、今は何をしているのかよくわからない。
食事の時には部屋から出てくるものの、それ以外は基本的に部屋にいるようだ。
時々オーディオルームから大音量で銃撃戦らしき音が聞こえてくるから、ゲームでもしているのかもしれない。
そんな彼は、「雛子ちゃんは可愛いね。ゲームをしたい時はいつでも言って。教えてあげるから」、「僕の部屋におやつが沢山あるよ。遊びにこない?」などと、誘ってくる。
雛子はゲームに興味がないし、朝哉以外の男性と二人きりになるのを避けて断っていたけれど、家の中で唯一好意的に話しかけてくれる彼のことは嫌いではなかった。
だが、それ以外は困ったことばかりだ。
彼らが引っ越してきた翌日からデパートの外商がひっきりなしに家を訪れ、派手な絵画や家具が次々と運び込まれてくる。
「私の下手くそな料理じゃ雛子さんのお口に合わないだろうから~」
そう言って以前から雛子がお世話になっていた通いの家政婦の木村さんに家事一切を丸投げしていた恭子は、目つきが気に入らないと彼女を辞めさせてしまったのだ。
「ううっ……雛子さんがこんな目に遭うなんて、宗介様もさぞかし無念でしょうに」
そう木村さんが泣いて悔しがってくれたけれど、どうしようもない。優しかった父はもういないのだ。
キッチンにはインスタント食品やスナック菓子が乱雑に置かれ、冷蔵庫には缶ビールが並ぶ。
徐々に荒れていく家の様子に心を痛めながらも、未成年の雛子にできることは「私にすべて任せておけばいいからね」と言う大介と弁護士が出す書類に、次々とサインすることだけだった。
――仕方ない……わよね。
そんな叔父一家が引っ越してきて一週間後。雛子は叔父と叔母からリビングに呼ばれる。
父が愛用していた大理石のセンターテーブルには、パンフレットと契約書らしきものが置かれていた。
「雛子、実はね……」
チラチラと顔色をうかがうようにして口ごもる大介に痺れを切らしたのか、恭子がズイッとパンフレットを押し出す。
「あのね、雛子さん、あなたには学校の寮に入ってもらおうと思うの」
「えっ……」
「ほら、私たちと一緒にいたら気詰まりだろうし、寮のほうが気楽でしょ」
「でも、この家は……」
――お父さんとお母さんと暮らした大切な場所なのに。
「寮に入るのだってタダじゃないんだし、手続きとか面倒なのよ。だけど、あなたのためを思ってお金と労力をかけるって言ってるの。何か不満がある?」
強い口調で迫られて、何も言い返すことができない。
「……いいえ」
やっとのことで言葉を絞り出すと、雛子は揃えた足の上でギュッとスカートの布地を握りしめる。
たった一週間で、どうしてこうなってしまったのか……
本当なら今頃、朝哉の婚約者として幸せを噛みしめているはずだった。
左手の薬指には指輪がきらめいているはずだった。
自分の向かい側には父親が座り、優しく微笑んでいるはずだった。
――お父さん、私、どうしたらいいの?
その問いに答えてくれる人は、もうここにはいない。
自分で決めるしかないのだ。
いや、もう答えは決まっている。十六歳の自分に逆らうすべはないのだから。
「……わかりました。寮に入ります」
雛子は目の前の契約書にサインをして恭子に渡す。
部屋に戻ろうと背を向けると、「部屋の荷物は綺麗に整理していってね。あの部屋は麗良が使うから」と言われ、言葉も出なかった。
スーツケースと段ボール箱に荷物を詰め込みながら、沢山の思い出がつまった部屋に別れを告げる。
その後、雛子から入寮の件を知らされた朝哉は自分のことのように怒りをあらわにし、彼がその当時住んでいたマンションに一緒に住もうと言ってくれた。
だけど二人はまだ正式な婚約者ではなく、朝哉のマンションがある横浜から高校に通うのも難しい。
それに今の雛子の保護者は大介夫妻だ。彼らに行き先を告げないわけにはいかないだろう。そうなると、麗良の耳に入り、恋する朝哉と雛子が一緒に住むなど、反対するに決まっている。
『――そうか、ヒナが高校を卒業するまでのしんぼうだな。寮に行く日が決まったら教えて。俺が手伝うから』
電話口でそう言ってくれた朝哉だったが、実際に引っ越しを手伝ってもらうことはできなかった。予定よりも早く雛子が寮に入ってしまったから。
忌引きが明けて学校に行った雛子は、授業が終わると同時に寮長に呼び止められ、そのまま寮に案内されてしまう。
部屋には既に自宅の部屋から運びだされた段ボール箱とスーツケースが置かれていた。
悲しいとか悔しいとかよりも驚きのほうが大きくて、雛子は泣くことさえ忘れて立ち尽くす。
愕然としたものの、しばらくして、あのままあの家にいるよりはこうなってよかったのかも……と考え直し、前向きに頑張ろうと決めた。
――大丈夫。高校を卒業すれば、朝哉がここから連れ出してくれるんだから……
そうして、週末の短い自由時間に外出し朝哉と束の間のデートを重ねる。それだけが雛子の唯一の楽しみとなった。
朝哉も忙しい合間をぬい、ほんの数時間会うためだけに横浜から車を走らせてくれる。
そんな形で交際が続いていたある日。
『ヒナ、話があるんだ、明日会えないか?』
そう電話で呼び出された。
「もちろん! 会いたい」
八月最初の土曜日。朝哉の言葉に雛子は顔を輝かせる。
暑さのピークが近づくにつれて、朝哉と会えない日が増えていたのだ。
『ごめん、大学の勉強が忙しくてさ』
『悪いんだけど、父さんと約束があるんだ』
『来週も無理っぽい。ごめんな』
そんな台詞ばかり聞いていた。
たまに会いに来ても一時間ほど近所でお茶をするだけだったり、スーツ姿で現れて雛子の顔を見るだけで二分で帰っていったり。
それでも会えば強く抱きしめてくれるし、別れ際には熱いキスをして離れがたそうに門の向こう側からずっと手を振ってくれる。
忙しいのに会いにきてくれるだけでも嬉しいと思わなきゃ……そう思いながらも寂しさを感じていたのだ。
だから予想外に恋人に会えることになって、雛子は胸をワクワクさせながら朝を迎えた。
車で迎えにきた朝哉は、ネイビーのサマースーツに白いVネックシャツを合わせたセミフォーマル。
一方、雛子が着たのはウエストをリボンで絞った濃紺のシフォンドレスだった。そう、初めて朝哉と出会ったパーティーで着ていたものだ。
あのパーティー以来着る機会がなかったが、今日は朝哉にリクエストされたため、クローゼットから引っ張り出した。
――わざわざ色を合わせたセミフォーマルってことは、それなりにお洒落なお店に行くのかな?
そんな予想をしている雛子を乗せた車が停まったのは、高級ホテルの地下駐車場だ。朝哉に聞くまでもなく、どこなのかすぐに気づく。
「ここってあのホテル!?」
「うん、そう……行こう」
そこは二人が出会ったパーティー会場がある思い出のホテル、その最上階のラウンジでアフタヌーンティーをしようと誘われる。
――だからこのドレスを指定したのね。
雛子が三段スタンドに載ったサンドイッチやスコーン、デザートを充分堪能すると、朝哉が真剣な表情で、テーブルの上にカードキーを置いた。
「ヒナ、これはこのホテルのゲストルームのカードキー」
「えっ?」
「このホテルにクインパスが年間契約でおさえてる接待用の部屋があって、そこを今すぐ使える状態にしてもらっている」
――それって……
テーブルの上でギュッと手を握られて理解する。これから二人でその部屋に行きたいと誘われているのだと。
心臓が大きな音を立て、全身がカッと熱くなる。
だけど、まったく悩まなかった。
「うん……いいよ」
照れながらうなずくと、「行こう」と手を引かれ、雛子はラウンジをあとにする。
そして二人は無言で足を進めた。
エレベーターを降りた後は、足元がフワフワしているようで、雛子はこの状況に現実味を感じない。それでも自分の手を引く朝哉の手の熱と力強さは確かにここにあって……
夢ではないんだと確かめるように汗ばんだ手のひらを握り返すと、こちらを見下ろす朝哉と目が合う。その瞳は心なしか潤んでいる。
――きっと朝哉も緊張しているんだわ……
連れていかれた高層階にある二間続きの部屋は、奥が寝室になっていた。朝哉は景色を見ることもなくすぐにカーテンを閉め、雛子を抱き寄せる。
「ヒナ……」
息ができないほどの力強さ。容赦ない締め付けに腕の骨が折れるんじゃないかと心配になる。すると、「ごめん」と力を抜いて、朝哉はバスルームに入っていった。
――ビックリした……でも、余裕がないのは私だけじゃなくて朝哉も同じなのね……
『正式に婚約したら……俺、ヒナを抱くよ』
朝哉にそう言われた十六歳の誕生日、あの日から覚悟はできていた。
本来なら四月には婚約者になっていたはずなのだ。ううん、朝哉はもう婚約者だと言ってくれている。
「だから怖くない、嬉しいだけ……」
カーテンの隙間から外を覗くと、眼下には太陽の光でキラキラ輝くビルの群れと、ありんこみたいな車の列。
――この日の景色を目に焼きつけておこう。今日は大好きな人と結ばれる大切な記念日になるのだから……
バスローブを身にまとった朝哉と入れかわりでそそくさとバスルームに入った雛子は、いつもより入念に身体を洗う。
不安と期待と緊張と……さまざまな感情が胸に渦巻いていても、確かなものがある。『嫌だ』という気持ちが、ほんのひとかけらもないということ。
あらためて自分の気持ちを確認したところで、雛子は「うん」とうなずきシャワーを止める。何を着ればよいのか迷い、朝哉を真似てバスローブ一枚だけを身につけた。
「ヒナ、おいで」
ベッドサイドに腰掛けている朝哉に近づくと、彼が立ち上がり抱き上げてくれる。そのままベッドに横たえられた。
彼は雛子に覆いかぶさり茶色い瞳で見下ろしながら、その長い指で雛子の髪を、頬を、顔のパーツすべてを丁寧になぞる。まるで雛子の顔の輪郭を覚え込もうとするかのようにその行為を繰り返した後、ゆっくりと顔を近づけてきた。
すぐに唇が重なり、生温かい舌が口内を蹂躙する。
今までにキスは何度もしてきた。けれどこの先は未知の世界で……
チュッとリップ音がして唇が離れたかと思うと、そのまま耳たぶを甘噛みされ、舌が耳に入ってくる。粘着質な音と生温かい吐息が鼓膜を伝い、全身を震わせた。
朝哉の右手が雛子のバスローブをはだけさせ、肩を通過して胸のふくらみに触れる。
「あっ……」
思わず鼻にかかったような声を出してしまった。恥ずかしさに、雛子が閉じていた目をうっすらと開けると……朝哉が固まっている。
「朝哉? ごめんなさい、ちょっと恥ずかしかっただけ。大丈夫だから……」
「……ごめん」
「えっ?」
彼はゆっくりと身体を起こし、眉間に皺を寄せて自分の前髪を掻き上げた。
「ごめん……血迷った」
――えっ、血迷った!?
意味がわからないまま、雛子も身体を起こして向かい合う。
「朝哉、どうしたの?」
朝哉はそれに答えず、無言で雛子を抱きしめた。
「朝哉?」
「ヒナ……好きだよ」
「うん、私も朝哉が好き、大好き」
その後、彼は何度もキスをしてきつく抱きしめてくれたものの、結局その先に進むことはない。
――朝哉は私のために我慢してくれたんだわ。婚約したら、その時はきっと……
気づけばもう帰寮時間が迫っている。
離れがたくて、雛子がなかなかベッドから下りずにいると、朝哉がドレスを持ってきて着替えさせてくれた。
その手がとても優しくて、それだけでもう満足だと思える。
だが、帰りの運転中、朝哉はいつになく無言だった。思いつめたようなその横顔を眺めながら、雛子は彼も寂しいと思ってくれているのかな……と考える。
「朝哉、来週は会えそう?」
「……ヒナ、着いたよ。バッグを忘れないようにね」
「……うん」
先に車を降りた朝哉がいつものようにドアを開け、手を引いて降ろしてくれる。なぜか彼の指先は冷たくなっていた。
雛子同様、外出時間ギリギリで帰ってきた生徒が寮の門の内側に駆け込んでいく。
「ほら、ヒナも行かなきゃ」
「うん、でも……」
何がどうとはハッキリわからない。だけど目の前の朝哉に違和感を覚えた雛子は、このまま行ってはいけないと思った。
「もう時間だ。早く行って」
残り三分。早く建物の中に入り、寮母さんに帰寮の報告をしなくては。
後ろ髪を引かれる思いで門の内側に入り、振り返ったその時――
「ヒナ……」
門の向こう側から名前を呼んだ彼が、信じられない一言を発する。
「ごめん、婚約を解消させてほしい」
――えっ?
最初は聞き間違いだと思った。
そう思いながらも、さっきから感じていた違和感の正体が判明した気がして、雛子の心臓が嫌な音を立て始める。
「朝哉、何を言って……」
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