燃ゆるローマ  ――夜光花――

文月 沙織

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 男は嘆いたが、強い男で、泣きくずれはしなかった。ささやかな弔いを済ませると、故郷のトラキアに戻ると言って去っていった。
 哀しみに満ちてはいても、その大きな背中からは、たぎるような精神力が感じられた。身体の強さと心の強さはちがうものだとエウトュキスはすでに学んでいたが、彼はまれに見る、心身ともに強い男なのだろう。だからこそ、身体を汚された恋人を憎むこともなく、蔑むこともなく愛しつづけることができたのだ。そんな男は滅多にいない。まさに男のなかの男だ。
 それだからこそ、愚かにも死に急いだ朋輩が、エウトュキスには恨めしくてならない。なぜ男の強さを信じてともに生きなかったのか、と。彼女は強くはなれなかったので、それは彼女の罪ではないと百も承知なのだが……。
「ねぇ、エウトュキス、聞いた? 新しい皇帝の即位式の日が決まったそうだよ。七日後だってさ」
 娼婦の一人が布の扉を散ぎるように開けて入ってくるなり、そんなことを言う。
「ふうん」
 興味がわかず、エウトュキスは気の抜けた返事をこぼした。
「どうしたのさ、そんなしけた顔をして?」
「……つまらないこと思い出していたの」
 粗末な寝台の上に寝ころび、頬杖をついているエウトュキスを見下ろし、朋輩は呆れた顔になる。
「死んだあの娘のこと? 忘れなよ。そんなのいちいち気にしていたら、あたしらの仕事なんてやっていけないよ。……そりゃ、ミュラは可哀想だったけれど」
 そうだ。ミュラというのが本名だった。エウトュキスは、苦くぼんやり思い出した。自分はあの娘をその名で呼んだことがあったろうか。
「でも、あれほど想ってくれた男がいたんだから、ミュラは幸せだよ」
「それもそうだね……」
 エウトュキスはミュラの魂が光の世界へ行けることを願った。そして、去って行った彼女の恋人が、故郷トラキアで幸せに生きていることを切に願った。
 雨霞につつまれた粗末な売春宿の、薄暗い部屋で、何百人という男に金で抱かれてきた女が、誰かのために心から祈り、願うことができるローマの夕暮れどき。そこには、ささやかながらも、たしかにひとつの奇跡があった。
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