サファヴィア秘話 ー闇に咲く花ー

文月 沙織

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儀式 二

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「おお、ラオシン」
 ラオシンが従者をつれて自分の居住する宮殿にもどろうとしていると、大柄な戦士が石の渡り廊下を歩いてきた。
「やあ、サルドバ」
 ラオシンより頭ひとつ分たかい男は、あたりを照らすような笑顔を向けてきた。白いマントが夕闇にも神々しいほどに輝いている。
「今日の訓練はすんだのか?」
 サルドバは宮廷守護兵の隊長であり、ラオシンの幼なじみでもあれば、武芸の競争相手でもある。剣では勝てないが、弓ではラオシンの方が勝っていた。
「ああ。今、陛下にご挨拶に行ってきた。今からおまえも挨拶に行くのだろう?」
 本来なら王子殿下であるラオシンにむかってこんな口のききかたはゆるされないが、他の重臣が見ていないときはくだけた言葉づかいで話す二人だ。サルドバはラオシンにとって身分の差をこえて対等な友人関係をたもてる唯一の友である。
「今夜はいよいよおまえにとって〝初めての夜〟だな」
 サルドバは異国人だった母親の血をひく青い瞳を悪戯いたずらそうにきらめかせる。昨年崩御ほうぎょされた英明な前王イブラヒルは異国の血をひく人間でも優秀なものを重宝したので、彼は武芸の才をかわれて宮廷守護という栄えある役職につけたのだ。イブラヒルの革新政策がなければ、いくら父親が貴族でも蛮夷ばんいの血をひくサルドバが宮殿内の要職につくことは不可能だったろう。
 五歳のとき流行病はやりやまいで父を亡くしたラオシンに、「今日よりは余がそちの父だ」と優しく言ってくれた慈悲深くも聡明な伯父を、ラオシンはなつかしく想った。
 伯父への追慕をふりきるように、そらしたラオシンの目は、昇りはじめた月に照らされたサルドバの白銀はくぎんの髪にひかれる。ラオシンはまぶしいものでも見るように年長の友を眺めた。彼の逞しい身体はラオシンにとって憧れだった。ラオシンも決してひ弱ではないし、むしろ同年代の若者とくらべて優れていると自負しているが、サルドバの黒革の鎧におおわれた筋骨隆々とした体躯たいくを見るにつけて、羨望をかくせない。
(私もこれぐらい鍛えたいのだが……)
 羨ましそうにサルドバの太い腕を眺めながらラオシンは軽口をたたいた。
「ああ、やっとこれで私も大人の仲間入りだ」
「遅かったなぁ……もう貴様、十八だろう?」
「十九だ」
 ラオシンは憮然とした顔になっていた。
 サルドバが成人の義をむかえたのは十二だ。もう十年もまえのことである。そのとき九歳だったラオシンは大好きな年上の友が遠くに行ってしまった気がして心細く思ったものだった。そんな寂しさをさとったサルドバは「おまえもすぐその日を迎えるさ」と笑ったものだが、それから十年も待たされることになったのだ。その間に武芸所や学問所の朋輩たちはみな成人の義をむかえ、どんどんラオシンを置いて別の世界へ行ってしまった。この歳でまだ儀式を終えていないことはラオシンにとって実はかなり負担になっていたのだ。
(だが、それももう終わりだ)
 胸にわく焦燥の火をおさえつつ、ラオシンはなんでもないという顔をしてみせる。
「そういうわけだから、私は三日間は都の西の離宮で過ごすことになる。その間、宮殿の守護をたのむ」
「ああ、まかせておけ。戻ってきたら一緒に酒でも飲んで祝おう」
 サルドバは大きな手でラオシンの肩をたたきながら、意味深な笑みを見せ、低く囁いた。
「がんばれよ」
 ラオシンは頬が熱くなるのを自覚せずにいられない。まるで宮殿じゅうの人間が自分が今宵童貞を失うことを興味津々で見ているような気がするのだ。
「では、三日後に」
 そう言って赤くなった顔を見られないようにラオシンは友に手をふった。

 闇が深まるころ、ラオシンは守備兵に前後をまもられ馬で離宮へと向かっていた。側には忠実なアラムが同行している。
 大事な儀式のまえだが、胸がもやもやするのは王太后とアイジャル国王に挨拶に行ったせいだ。
 二人に祝福を受け、送りだされた白亜のサファヴィア宮殿をふりかえると、なにやら奇妙な感慨がおそってくる。
 青白い細い顔にこわばった笑みを浮かべて自分を寿ことほいでくれた従弟アイジャルの気弱な黒目とはぎゃくに、隣国から嫁いできた王太后の闇を秘めたような漆黒の目に、なにか不吉なものを感じて仕方ない。
(取り越し苦労だ……。なんといっても今宵の相手は王太后が選んでくださったのだから……邪推してはいけない)
 その王太后はどぎついほど紅く塗った唇で笑みをつくり、甲高い声で笑っていた。
(今宵の相手は、妾が可愛い甥のそなたのために念入りに選んだ者じゃ。きっとそなたも気に入るであろう。帰ってきたときは、さぞ立派な男になっておるじゃろのう)
 控えていた侍女たちがその言葉に笑う。意味を深く考えてラオシンは赤面した。
(いやいや、冗談で言うておるのではない。帰ってきたら、成人王族として陛下の補佐につとめておくれ)
 かしこまって返事をかえしたラオシンだが、奇妙な視線が首に突き刺さるのを察した。
 訝しんで向けた目線のさきには、エメリス王太后につかえる忠実な臣下、ジャハンがいた。勿論、去勢された宦官である。背がひどく低く見えるのは彼がせむしのせいだ。齢は四十ぐらいだろうが、五十過ぎに見える。土気つちけ色の醜い顔に笑みをはりつかせ、奇妙な目つきでラオシンを見ていた。その視線が、宮殿を出てからもずっとくっついてきているようでラオシンは妙に落ち着かない。
「ラオシン様、ご覧ください。月が綺麗です」
「うむ」
 アラムに言われて夜空を見上げると、黄金の満月が天にかがやき、群星ぐんせいが燦然ときらめいている。素晴らしい夜だ。
「天もラオシン様を祝福しているようでございますね」
 月光に照らされたアラムの顔は、だが口とは裏腹にどこか夜目にも青ざめているようだ。額飾りターバンの下に見える黒玻璃くろはりのような瞳もいつになく暗いことに、このとき迂闊なことにラオシンは気づかなかった。
「着きましてございます」
 おなじ都のなかにあっても今まで一度も足をはこんだことのない離宮の前にラオシンは立っていた。
「ラオシン=シャーディー殿下、おなりー」
 従者が声をあげ、扉がひらいていく。
 観音開きの巨大な扉が開ききったとき、月夜に別世界がひろがっていた。ラオシンは、別の世界への入り口に足を踏みいれていたのだ。 
 彼はこのとき当然知ることはなかった。
 この扉の内へはいったが最後、彼の今までの人生が終わることを。

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