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夢幻のはざま 一
しおりを挟む笛と鼓の音が夏の夕暮れに妙なる調べとなって響きわたり、竜樹の耳を心地よく刺激する。竜樹だけではなく、観客たちも陶然となって舞台のうえの鈴希の動きに見とれている。
村人は勿論、遠方からわざわざ来た能好きも多く、神社の境内は人でいっぱいだ。
「いやぁ、やっぱり雛倉の舞は素晴らしい」
「年に二回しか見れないのが残念だなぁ」
という声もあちこちで聞かれる。
正式な宗家というわけではないので、鈴希は能の活動をほとんどせず、ただ年に二回だけこうして神社で村の安泰を祈って奉納舞をささげる。そのために雛倉家は存在しているようなものだ。
演目は『羽衣』。
竜樹は、歌舞伎は母親が好きだったので何度か見たことがあるが、能にはほとんど興味がなく無知だったのだが、隣の席に座っている須藤が事前に物語の筋を説明してくれていた。意外と彼は博識である。
白龍という猟師が偶然、松の木にかけられていた美しい衣を見つける。それは天女の羽衣だった。宝物にしようと持ち帰ろうとする白龍に、返してくれとせがむ天女。返さないと言いはる白龍。悲嘆にくれる天女に白龍は「天人の舞楽を見せてくれるのなら、この衣を返そう」という。やりとりの果てに、天女は素晴らしい舞を見せ、天に帰っていく。
日本各地に伝わる「羽衣伝説」では、天女は無理やり男の妻にされ、子どもまでもうけてしまい、のちに羽衣を見つけて天にかえるが、能の天女は男に触れられることもなく、下界に染まることもなく、汚れなきまま天にかえる。
天女を舞う鈴希。その顔は〝増〟と呼ばれる面でおおわれいるため表情は見えないが、どんな想いで舞っているのか――、竜樹はふと胸が痛くなる。
ちらりと目を向けた先には天幕をはった特別席があり、そこには川堀と房木が村長とともに賓客として座っており、そのそばには見知らぬ背広姿の男がいる。彼らと同席しているからには、やはり特別な客なのだろう。
(あの人も……そうなのかな)
今宵、鈴希はあの男たちに……。そう思うと、舞台のうえの天女がなにやら痛ましいものに竜樹には見えてくる。
鳳凰をあしらった金色に薄闇にかがやく天冠を頭につけ、さらに頭頂にかざしの花を挿した鈴希は、まとっている長絹の衣装の美しさとも相まって、いっそう男でも女でもない別の生き物に化したかのように幽玄の霞をまといつかせ、音色に合わせて扇を手に舞いつづける。その様子はまさに天人である。
舞台のうえには小島もおり、漁師白龍の役を演じている。
衣は舞ったあとでかえす、先にかえすと、そのまま帰ってしまうだろう、という白龍に、天女は、それは人間界のことで天界にはそうした偽りはない、という。白龍は己を恥じ入り、衣をわたすのだが、現実の二人の関係を知る竜樹にはなんとも見ていて皮肉な展開に思える。
(でも、今は……この舞だけ)
聞き慣れてくると、あまり竜樹には馴染みのなかった邦楽の音律に、地謡や独特のかけ声がまじり、それらが一体となって、じつに印象深く耳に染みこみ、別世界に引きずり込まれてしまいそうになる。
卑しい下界をはなれ、天女の舞につられて異世にいざなわれていく。そこがほんのひとときの幻の世界だとはわかってはいても、いや、わかっているからこそ、そこで過ごすつかのまの時間はひどく美しく尊いものに思える。
三百人ちかい観客は、すっかり夢幻の世界に魅入られ、ひととき我をうしなっていた。
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