今度は、私の番です。

宵森みなと

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第九十一話 記憶を失って

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深い夢の底へと落ちてから、どれほどの時が経ったのだろう――。
セレスティアが再び意識を取り戻したのは、それから一週間後のことだった。

瞼の裏に差し込む光がゆっくりと現実を照らし、彼女は小さくまばたきをした。見慣れない天井、整然とした室内、香の焚かれた空気がほんのりと香る。

「……ここは……?」

まだ霞のかかった声で呟いたその瞬間、部屋の隅で待機していた侍女が素早く立ち上がった。

「目を覚まされて良うございました。すぐにレオンハルト様をお呼びしてまいります」

ぺこりと頭を下げると、彼女は素早く部屋を後にした。扉が閉まる音だけが、妙に静かな空間に残響のように響いた。

「……レオンハルト様?……マーレン国、だったかしら……。ううん、それより、私……誰だったっけ……?」

ふいに、足音が駆け寄る音が聞こえ、扉が開いた。

「気が付いたか!」

勢いよく現れたのは、見覚えのある青年。だが、記憶の中には彼の名も顔もない。

「……ど、どちら様……?」

その一言に、青年は肩を落とし、小さくため息をついた。

「……また、最初からか……」

すると、セレスティアはニヤリと笑いながら答えた。

「うそよ。マーレン国の第二王子――レオンハルト=ヴァルゼン様でしょ?」

「なんだ、思い出したのか」

「名前はね。でも、自分の名前が思い出せないの」

「……仕方ない。仮に名前をつけてやろうか」

「えっ、いいよ自分で決めるから。えーと、可愛い名前……モモ?いや、それはないわね。エリザベス……?ああ、でもちょっと違うかな」

「じゃあ、“エリー”はどうだ?」

「エリー……エリー……うん、悪くないわ。じゃあ、しばらくそれで」

「決まりだな。じゃあ、エリーはまだ安静なんだから、無理するなよ」

「でもね、お腹減っちゃった」

「……わかった、少し待て。すぐに用意させる」

そう言って再びバタバタと出ていった後ろ姿を見て、セレスティア――いや、今は“エリー”と呼ばれる少女は、苦笑いを浮かべた。
厳つい軍人風で、目も鋭く悪人顔だけど。

(忙しい人ね……でも、ちょっと優しい人かも)

間もなくして、レオンハルトが戻ってきた。手には湯気の立つ食器が乗った盆。

「まだ起きたばかりだからな。消化に良いように、粥を用意させた。冷ましてやるから、口を開けろ」

「赤ちゃん扱い……?」

「いいから早く」

しぶしぶ口を開けると、ふわりとミルクとチーズの香りが広がった。

「んっ……おいしい!」

目を輝かせながら、スプーンをもう一口と催促する。

「赤ちゃんみたいで嫌なんじゃなかったのか?」

「それはさておき、早く、あ~ん! もぐもぐ、うまっ!」

「まったく、騒がしいやつだな」

そう言いながらも、レオンハルトは手際よくスプーンを運び続けた。
やがて食器は空になり、エリーは名残惜しそうに口元を拭った。

「ああ、もう終わり? ……もっと食べたい」

「次も同じものを用意させる。今はこれでおしまい。まだ本調子じゃないんだからな。少し横になれ」

「うん……まだ身体がだるいかも。ねえ、レオって呼ぶとなんだか頭が痛くなるの。だから……ハルトって呼んでもいい?」

「……ああ、好きにしろ。じゃあエリー、しっかり休め」

「うん。ねぇ、ハルト。手を握ってくれる?……なんだか、眠ったらもう目が覚めない気がして、ちょっと怖いの」

「分かった。……安心しろ」

レオンハルトはそっと彼女の手を取り、そのぬくもりを伝えるように、掌を包み込んだ。エリーはようやく静かに目を閉じ、深い眠りへと沈んでいった。

その様子を見ていたレオンハルトは、空いている方の手で彼女の頭を優しく撫でた。金糸のように柔らかく、指先に心地よい感触が残る。

(まるで子猫みたいだな……)

思い返せば、彼女と初めて出会ったのは、まさに偶然の中の奇跡だった。
あの日、気分転換に馬を走らせていたレオンハルトの目の前に、ふいに湖の上へと転移して現れた少女。次の瞬間、氷が砕け、彼女の身体は冷たい水の中へと沈んでいった。

まるで光をまとっているかのように静かに、幻想的に落ちていく姿は、現実離れしていて、息を呑んだ。急いで助け出し、冷え切った身体を温めるために、そのまま湯船に入れ、意識のないまま服をしっかりと握る彼女の姿に、妙な庇護欲を掻き立てられた。

以来、彼は彼女の側を離れずにいた。記憶を失い、時折不安げな表情を浮かべながらも、エリーは毎日少しずつ、自分の存在をこの場所に馴染ませていった。

彼自身もまた、ギラン帝国での失恋という過去を引きずっていた。エミリアという女性に見事に振られ、何をしても心が浮かばなかった。だが、目の前の少女は違った。小さな言葉一つ一つに反応し、あどけない表情で笑い、泣き、怒る。どこか放っておけない存在だった。

彼女がまた目を覚まし、笑って「おかわり」と言う日が来るなら――その時は、自分が傍にいたい。
そんな想いが、確かに芽生え始めていた。
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