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第3話 仮面の妻、真実に迫る
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「……実年齢より10歳上の貫禄、ね……。ま、やってやれないことはないわ」
鏡の前でため息をひとつついたサナリア——もといアリスティアは、艶のある栗色の髪を丁寧に結い上げた。
落ち着いた仕草、柔らかい微笑み、低めの声。目指すは、物静かで上品な“年上の女性”。
貴族の男を安心させ、懐に入り込むには、それが最も効果的と判断された。
「旦那様、あまり根を詰めるとお身体に障りますわ。一息入れませんか?」
執務室にそっと現れ、銀の盆に乗せた紅茶と焼き菓子を差し出す。
あくまで自然に、あくまで優しく。
ガニエルの視線がこちらに向けられた瞬間、アリスティアはとびきりの笑みを浮かべた。
「おお、サナリアか。せっかくのお茶だ、ちょっと休憩でもするかのう」
立ち上がる拍子に、一枚の紙がふわりと床に舞い落ちた。
アリスティアは素早く拾い上げ、無造作に置くように見せかけて内容を一瞥。
その瞬間、文章の内容は脳裏に焼き付けていた。
「さぁ、旦那様。今日は身体をほぐすハーブティーですのよ。それに合わせて、軽い焼き菓子を」
無味無臭の睡眠薬が、紅茶の中で穏やかに香りを殺している。
まず自ら口をつけ、安心感を与えてから、カップを差し出した。
「お疲れの旦那様に、ぜひ飲んでいただきたくて」
ガニエルは満足そうに一口飲み、「あ~……サナリアが言う通り、何だか体がふわっとしてくるな……眠くなる……」ととろけたような顔を浮かべた。
「まぁ……本当にお疲れだったのね。どうぞ、少しお休みくださいませ。わたくし、傍におりますから」
優しく手を握り、ソファに導き、ブランケットを掛けてやる。
まるで慈愛の化身を演じるかのように。
「サナリア……眠い……一刻経ったら……起こしてくれ……」
「ええ、もちろんですわ。旦那様」
眠気に負けて、彼の大きな体が沈み込む。
鼻息が安定し、瞬きが止まったのを確認して、アリスティアはすっと顔から笑みを消した。
(……完全に寝た)
静かに立ち上がり、机の上の書類に目を通す。
だが、目的の情報は見当たらない。引き出しもざっと調べたが、収穫はなかった。
(やはり、金庫か……。でも今は、まだ動くべきじゃないわね)
一歩踏み出すごとに警戒心が蘇る。
任務とはいえ、発覚すれば命はない。それが“潜入”の現実だった。
ため息を一つつき、再び献身的な“妻”へと表情を切り替えた。
「旦那様……旦那様、起きてくださいませ。もう一刻経ちましたわ」
ガニエルは脂に艶めく額をぬぐいながら、寝起きの目を細める。
「……もうそんな時間か。早いな」
「ええ。お身体もすっきりなさったようで、良かったですわ」
にこりと笑いながら、部屋を後にする。
芝居は順調だった。少なくとも、今のところは。
* * *
初夜の晩。
あれほどまでに緊張した夜はなかった。
「旦那様……わたくし……閨が、怖くて……前の夫に……暴力を……それが、トラウマになっていて……」
震える肩、涙ぐむ瞳、途切れがちな声。
この世で最もか弱い女性を演じる覚悟で臨んだ。
「……サナリア。そうだったのか。大丈夫だ、無理にとは言わない。君が落ち着くまで、待とう」
そう言って、ガニエルは手すら握ってこなかった。
——唇へのキスすらも、未だにない。
もちろん、それは義父カイザルとカインの命令があったからだ。
『キスすら許すな、絶対に。』
(過保護すぎない!?)
と、何度思ったことか。
だが、時間はあまりにも短い。
そろそろ限界だった。情報を掴むには、何か突破口が必要だった。
そんなある夜——
寝静まった屋敷に、そっと扉の開く音がした。
アリスティアは息を潜めて寝台を抜け出し、物音の方へ足音を殺して進む。
(……ガニエル?)
廊下の突き当たり。
彼は壁の一角を押すと、そこが静かに回転し、奥へと姿を消した。
——隠し扉。なるほど、そう来たか。
その夜は、確認だけして引き返した。
無理に追うにはリスクが高すぎた。
翌朝。
ガニエルが外出した隙に、アリスティアは再びあの壁の前に立った。
扉を開け、足音を殺して中へ入る。
細い螺旋階段を登った先には、小さな隠し部屋。
そこには、金の流れを示す帳簿、密輸の記録、裏帳簿。
揃いも揃って、“詰んでる”証拠品たちだった。
(……決まりね)
証拠は持ち出さず、必要な情報を頭に叩き込む。
その場で暗号に変換し、小さな紙にしたためた。
紙は小さな筒に収め、胸元の隙間にしまい込む。
——あとは、仲間に託すだけ。
* * *
「今日は何かおすすめ、あるかしら?」
厨房に現れた“仕入れ業者”に、それとなく問いかける。
「奥様、こちらのオレンジは採れたてで、美味しいですよ」
その手渡されたオレンジに、あらかじめ開けておいた穴へ筒を差し込む。
「……そうね。このオレンジはいいわ。あちらの苺を頂こうかしら」
「かしこまりました。では、苺はこちらに」
自然なやり取りの中で、情報は“果物”に偽装されて運び出された。
庭に出て薔薇を数本切り、玄関に飾るように庭師へ指示。
一連の流れは、すべて“脱出の段取り”だった。
そして、夕暮れ。
「ガニエル=ランベルク。貴殿に武器密輸の容疑がかかっている。屋敷を改めさせていただく」
軍部の調査隊が屋敷を包囲した。
「なっ、何のことだ!? 私は……私は無関係だ!」
ガニエルが声を荒げた瞬間、アリスティア——いや、サナリアは震える声を上げた。
「だ、旦那様……う、嘘ですわよね……?そんな……そんなことって……」
涙を滲ませ、身体を震わせる。
完璧な“驚きと絶望”の演技。
手は後ろで拘束され、目には光が宿っていない。
「妻は何も知らない!頼む、彼女を巻き込まないでくれ!」
ガニエルの叫びが響いたが、サナリアは意識を失ったふりをして崩れ落ちた。
「サナリア!? くそっ……妻に触るな!!」
軍人の腕に抱き上げられるサナリア。
ガニエルの怒声が、空しく響く。
——アリスティアの任務は、これで終わった。
目を閉じたまま、胸の奥で、静かに呟く。
(……あとは、処理班に任せるだけ)
長い、長い仮面の舞台。
ようやく、幕が下りようとしていた。
鏡の前でため息をひとつついたサナリア——もといアリスティアは、艶のある栗色の髪を丁寧に結い上げた。
落ち着いた仕草、柔らかい微笑み、低めの声。目指すは、物静かで上品な“年上の女性”。
貴族の男を安心させ、懐に入り込むには、それが最も効果的と判断された。
「旦那様、あまり根を詰めるとお身体に障りますわ。一息入れませんか?」
執務室にそっと現れ、銀の盆に乗せた紅茶と焼き菓子を差し出す。
あくまで自然に、あくまで優しく。
ガニエルの視線がこちらに向けられた瞬間、アリスティアはとびきりの笑みを浮かべた。
「おお、サナリアか。せっかくのお茶だ、ちょっと休憩でもするかのう」
立ち上がる拍子に、一枚の紙がふわりと床に舞い落ちた。
アリスティアは素早く拾い上げ、無造作に置くように見せかけて内容を一瞥。
その瞬間、文章の内容は脳裏に焼き付けていた。
「さぁ、旦那様。今日は身体をほぐすハーブティーですのよ。それに合わせて、軽い焼き菓子を」
無味無臭の睡眠薬が、紅茶の中で穏やかに香りを殺している。
まず自ら口をつけ、安心感を与えてから、カップを差し出した。
「お疲れの旦那様に、ぜひ飲んでいただきたくて」
ガニエルは満足そうに一口飲み、「あ~……サナリアが言う通り、何だか体がふわっとしてくるな……眠くなる……」ととろけたような顔を浮かべた。
「まぁ……本当にお疲れだったのね。どうぞ、少しお休みくださいませ。わたくし、傍におりますから」
優しく手を握り、ソファに導き、ブランケットを掛けてやる。
まるで慈愛の化身を演じるかのように。
「サナリア……眠い……一刻経ったら……起こしてくれ……」
「ええ、もちろんですわ。旦那様」
眠気に負けて、彼の大きな体が沈み込む。
鼻息が安定し、瞬きが止まったのを確認して、アリスティアはすっと顔から笑みを消した。
(……完全に寝た)
静かに立ち上がり、机の上の書類に目を通す。
だが、目的の情報は見当たらない。引き出しもざっと調べたが、収穫はなかった。
(やはり、金庫か……。でも今は、まだ動くべきじゃないわね)
一歩踏み出すごとに警戒心が蘇る。
任務とはいえ、発覚すれば命はない。それが“潜入”の現実だった。
ため息を一つつき、再び献身的な“妻”へと表情を切り替えた。
「旦那様……旦那様、起きてくださいませ。もう一刻経ちましたわ」
ガニエルは脂に艶めく額をぬぐいながら、寝起きの目を細める。
「……もうそんな時間か。早いな」
「ええ。お身体もすっきりなさったようで、良かったですわ」
にこりと笑いながら、部屋を後にする。
芝居は順調だった。少なくとも、今のところは。
* * *
初夜の晩。
あれほどまでに緊張した夜はなかった。
「旦那様……わたくし……閨が、怖くて……前の夫に……暴力を……それが、トラウマになっていて……」
震える肩、涙ぐむ瞳、途切れがちな声。
この世で最もか弱い女性を演じる覚悟で臨んだ。
「……サナリア。そうだったのか。大丈夫だ、無理にとは言わない。君が落ち着くまで、待とう」
そう言って、ガニエルは手すら握ってこなかった。
——唇へのキスすらも、未だにない。
もちろん、それは義父カイザルとカインの命令があったからだ。
『キスすら許すな、絶対に。』
(過保護すぎない!?)
と、何度思ったことか。
だが、時間はあまりにも短い。
そろそろ限界だった。情報を掴むには、何か突破口が必要だった。
そんなある夜——
寝静まった屋敷に、そっと扉の開く音がした。
アリスティアは息を潜めて寝台を抜け出し、物音の方へ足音を殺して進む。
(……ガニエル?)
廊下の突き当たり。
彼は壁の一角を押すと、そこが静かに回転し、奥へと姿を消した。
——隠し扉。なるほど、そう来たか。
その夜は、確認だけして引き返した。
無理に追うにはリスクが高すぎた。
翌朝。
ガニエルが外出した隙に、アリスティアは再びあの壁の前に立った。
扉を開け、足音を殺して中へ入る。
細い螺旋階段を登った先には、小さな隠し部屋。
そこには、金の流れを示す帳簿、密輸の記録、裏帳簿。
揃いも揃って、“詰んでる”証拠品たちだった。
(……決まりね)
証拠は持ち出さず、必要な情報を頭に叩き込む。
その場で暗号に変換し、小さな紙にしたためた。
紙は小さな筒に収め、胸元の隙間にしまい込む。
——あとは、仲間に託すだけ。
* * *
「今日は何かおすすめ、あるかしら?」
厨房に現れた“仕入れ業者”に、それとなく問いかける。
「奥様、こちらのオレンジは採れたてで、美味しいですよ」
その手渡されたオレンジに、あらかじめ開けておいた穴へ筒を差し込む。
「……そうね。このオレンジはいいわ。あちらの苺を頂こうかしら」
「かしこまりました。では、苺はこちらに」
自然なやり取りの中で、情報は“果物”に偽装されて運び出された。
庭に出て薔薇を数本切り、玄関に飾るように庭師へ指示。
一連の流れは、すべて“脱出の段取り”だった。
そして、夕暮れ。
「ガニエル=ランベルク。貴殿に武器密輸の容疑がかかっている。屋敷を改めさせていただく」
軍部の調査隊が屋敷を包囲した。
「なっ、何のことだ!? 私は……私は無関係だ!」
ガニエルが声を荒げた瞬間、アリスティア——いや、サナリアは震える声を上げた。
「だ、旦那様……う、嘘ですわよね……?そんな……そんなことって……」
涙を滲ませ、身体を震わせる。
完璧な“驚きと絶望”の演技。
手は後ろで拘束され、目には光が宿っていない。
「妻は何も知らない!頼む、彼女を巻き込まないでくれ!」
ガニエルの叫びが響いたが、サナリアは意識を失ったふりをして崩れ落ちた。
「サナリア!? くそっ……妻に触るな!!」
軍人の腕に抱き上げられるサナリア。
ガニエルの怒声が、空しく響く。
——アリスティアの任務は、これで終わった。
目を閉じたまま、胸の奥で、静かに呟く。
(……あとは、処理班に任せるだけ)
長い、長い仮面の舞台。
ようやく、幕が下りようとしていた。
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