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仕事中は、努めてなにも考えないようにしていた。帰ったら凌がいるかいないか。そんなことは、考えないように。そういうのは得意な方だと思っていたのに、あまり上手くいかなくて、普段ならしないようなミスをいくつもした。そんな自分にうんざりしながら仕事を終え、家に向かう電車に乗った。ずっと考えていたのはひとつのことで、それは、今夜の飯を、ひとり分買うか、ふたり分買うかだった。どうでもいいようなことだ。弁当じゃなくてカップ麺とか保存がきくものをふたり分買うとか、ひとりでも食えるくらいの少なめのふたり分を買うとか、手はいくつか考えられる。それでも俺は、そのどの手段をとったとしても、もしも凌が家にいたとしたら、なにもかもを見透かしているみたいなあの目をするのではないかと、そんなふうに思ったのだ。曲がりなりにも一緒に暮らした数か月で、なんとなくわかったこととして、あの目をするときの凌は、内心で、多分自分でも気が付いていないけれど、傷ついている。
いつも晩飯を買う最寄りのコンビニの前を、俺は素通りした。考えすぎて、なにをどうしたらいいのか全然分からなくなっていたし、いっそなにも買わないで、凌がいるかいないか確かめてからもう一度買いに出ればいいと思ったのだ。
玄関のドアを開けると、部屋の中は冷え切っていて、電気もついていない。沓脱からは、凌の白いスニーカーが消えている。
俺は、そこでコンビニまで引き返し、ひとり分の弁当を買ってきた。そして、火曜からは毎日、ひとり分の弁当を帰りがけに買うようになった。凌がいなかったときと同じ習慣だ。
弁当を食って、観るともなくテレビを観て、母親からかかってきた電話に出た。母親は、ここにきたあの日のことがなかったみたいに、以前と同じペースで電話をかけてくる。俺も、それに応じた。
凌が、いないから。
母親の言葉にぽつぽつと答えながら、そんなふうに思った。思っただけで、それがなにを意味するのか自分でもよく分からなかった。凌がいないから、なんだと言うのだ。
『お友達は、まだ泊まっているの?』
そろそろ電話を切るだろう、というタイミングで、ふと思い出したみたいに母親が言った。
「……出てった。」
俺がそう答えると、母親は、そう、とだけ言った。安心したみたいな響きがその言葉の中には感じられた気がした。多分、凌といた頃の俺はまともじゃなかったし、それは母親にも伝わっていたのだろう。
「……ごめん。」
俺が詫びると、一瞬の沈黙の後、母親は笑った。
『なにが? また電話するわね。じゃあ、風邪ひかないように。』
電話を切った俺は、ひとりで歯を磨き、ひとりでベッドに入り、電気を消し、眠った。部屋の中は当たり前に俺一人の気配で、あんなに身体すら交えた相手が、こんなにあっさりその気配を消すことは、信じられないような気がした。凌がいた確かなしるしは、ぺちゃんこのボストンバッグと使いかけのコンドームの箱だけになった。それだけ残して、凌はあっさり消えてしまった。
身体すら交えたからと言うよりは、身体しか交えなかったから、凌の気配はこの部屋にまるで残されていないのだと、ようやく俺はその事実に気が付き、封が開いた煙草の箱を、握りつぶしてゴミ箱に放り込んだ。
いつも晩飯を買う最寄りのコンビニの前を、俺は素通りした。考えすぎて、なにをどうしたらいいのか全然分からなくなっていたし、いっそなにも買わないで、凌がいるかいないか確かめてからもう一度買いに出ればいいと思ったのだ。
玄関のドアを開けると、部屋の中は冷え切っていて、電気もついていない。沓脱からは、凌の白いスニーカーが消えている。
俺は、そこでコンビニまで引き返し、ひとり分の弁当を買ってきた。そして、火曜からは毎日、ひとり分の弁当を帰りがけに買うようになった。凌がいなかったときと同じ習慣だ。
弁当を食って、観るともなくテレビを観て、母親からかかってきた電話に出た。母親は、ここにきたあの日のことがなかったみたいに、以前と同じペースで電話をかけてくる。俺も、それに応じた。
凌が、いないから。
母親の言葉にぽつぽつと答えながら、そんなふうに思った。思っただけで、それがなにを意味するのか自分でもよく分からなかった。凌がいないから、なんだと言うのだ。
『お友達は、まだ泊まっているの?』
そろそろ電話を切るだろう、というタイミングで、ふと思い出したみたいに母親が言った。
「……出てった。」
俺がそう答えると、母親は、そう、とだけ言った。安心したみたいな響きがその言葉の中には感じられた気がした。多分、凌といた頃の俺はまともじゃなかったし、それは母親にも伝わっていたのだろう。
「……ごめん。」
俺が詫びると、一瞬の沈黙の後、母親は笑った。
『なにが? また電話するわね。じゃあ、風邪ひかないように。』
電話を切った俺は、ひとりで歯を磨き、ひとりでベッドに入り、電気を消し、眠った。部屋の中は当たり前に俺一人の気配で、あんなに身体すら交えた相手が、こんなにあっさりその気配を消すことは、信じられないような気がした。凌がいた確かなしるしは、ぺちゃんこのボストンバッグと使いかけのコンドームの箱だけになった。それだけ残して、凌はあっさり消えてしまった。
身体すら交えたからと言うよりは、身体しか交えなかったから、凌の気配はこの部屋にまるで残されていないのだと、ようやく俺はその事実に気が付き、封が開いた煙草の箱を、握りつぶしてゴミ箱に放り込んだ。
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読みはじめる前に完結タグに気づいてたので、読みながら
「完結……完結……これで完結なの?
健人はこれが自分と凌の関係性の終わりだと思って生きていくの?」と思いながら読んでました。←せめて、読み終わってから思えw。
でもこれで終わりですよね。健人と凌の中にどんな思いがあったとしても、それを見つめることも進めることも、違う名前をつけてごまかすこともできないのが健人という人間だし、健人の物語としては、必然の帰結だと思います。
年末頃たまたまアルファポリスを見つけて、いくつめかで見つけたのがこのおはなしでした。この手のおはなしは完結までいかないことも多いので、なんとか健人くんの物語の結末は見たい、と祈るような思いで読んでました。
健人と凌のはなしは終わったけれど、ふたりともどこかでもう少し幸せに生きてくれてたら良いな、と思います。
どうもありがとうございました。
quon様
感想をありがとうございます。とても嬉しいです。
私も書いていて、結局健人はどこにも進めないままなのか、と、悲しいような気持ちになったりもしたのですが、quon様に、健人の物語としては必然の帰結とおっしゃっていただけて、肩の荷が下りたような気がしました。どうしても、健人と凌が二人で幸せにやっていく話にはなりませんでした。そんな話なのに、quon様が、二人の幸せを祈ってくださったことが、なにより嬉しいです。
どんな結末になるにしても、1話目をアップした時点で、どんなに下手くそでも最後まで更新し続けることだけは決めていますので、これからも読んでくださるとありがたいです。ありがとうございました。
美里
朝になって更新されていると私は幸せだけど、健人くんはどっちに向かっているだろうとドキドキしますw。
気持ちって変わるし深まるし、誰のせいでもなく変質するし、そもそもその場の気分でしゃべるのなんか普通のことなんだから、健人くんも昨日の行動を振り返るより、今日の気分で動けば良いのに。
どんな結末が待っているのか分かりませんが、更新楽しみにしています。
quon様
感想をありがとうございます。更新があると幸せとまで言ってくださって、とても嬉しいです。
健人のことは、quon様のおっしゃるとおりだと思います。気持ちは変わるし、人も不変のものではないのだから、その日の気分で動けばいいのに、健人にはそれができない。もどかしいなー、と思います。
更新がんばりますので、この先も読んでくださると幸いです。
美里
健人くんは正直過ぎて可哀想だなあと思います。凌くんにもおかあさんにも、もっとてきとーに向き合えば優しくできるのに。
そんなに上手くできなくても誰も責めないし、なんならそれを上手くできない人間なのは、おかあさんだったら知ってるよって。
こうやって自己嫌悪を積み上げていく健人くんを馬鹿だなあ、と思うのは、健人くんに幸せになって欲しいからなんですけどね。心配です(w。
quon様
感想をありがとうございます。とても嬉しいです。
健人の幸せを願ってくれて、心配もしてくれて、ありがとうございます。健人に愛着を持っていただけたことがとても嬉しいです。健人は、本当に不器用で馬鹿だなぁと私も思います。誰に対しても適当にできない性格って、損ですよね。優しくできないことにもどかしさだってあるだろうに、と思います。
感想、とても励みになります。少しでも楽しんでいただけるように更新していきますので、またお読みいただければ幸いです。
美里