観音通りにて・姉

美里

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 昔々、貴子は両親と弟の四人で暮らしていた。10歳までの話だ。状況は最悪と言っていいものだったと思う。父は外に女を作ってめったに帰ってこなかったし、母は酒びたりだった。時々帰ってきた父親は家の中で暴れ回り、その度に母の酒量は増えた。そして、母が血を吐いて倒れ、貴子が救急車を呼んだことをきっかけに、二人の子どもは児童養護施設に預けられることになった。弟はまだ3歳かそこいらだったから、親の記憶はないはずだ。だからなのか、彼は幼い心の内で貴子を恨むようになった。施設での暮らしが不自由で孤独であればあるほど、両親を奪った元凶を貴子に見たのだろう。それに耐えられなくなった貴子は、中学卒業とともに施設を飛び出した。そこからはずっと、ひとりで観音通りだ。
 弟。
 その単語で思い浮かぶのは、実の弟よりも真央の方が先だった。真央は屈託なく彼女を姉ちゃんと呼んだ。話によると兄弟はいないというから、余計になんのわだかまりもなくそう呼べるのかもしれない。
 はじめに真央にそう呼ばれたとき、貴子は珍しく酔っていた。酒は好んで飲まないし、飲んでもそうそう酔いはしないタイプなのだけれど、その日は真央が男と別れてちょうど半年にあたる日だったのだ。半年祝いをしよう、と、仕事帰りの真央が大量の酒とつまみを買い込んできた。半分やけくそみたいな明るさで、真央は飲んだ。まだ、未練があるのだ、と、はっきり分かってしまうような、痛々しい明るさだった。貴子はそれを見ていられなくて、自分も飲んだ。白ワインをがぶ飲みし、赤ワインをがぶ飲みし、梅酒にも手を出した頃、何リットルかのビールを消費していた真央が、貴子さんって、面倒見いいよな、お姉ちゃんみたい。と言い出したのだ。貴子には、自分が面倒見がいい自覚なんかなかった。なんなら他人にはあまり興味がない方だと自認していた。だから真央のその言い分に苦笑し、梅酒の瓶に直に口をつけようとした。そこで真央が、ふざけた感じで貴子を、姉ちゃん、と呼んだのだ。貴子は、飲んでいた酒が急に酢に変わったみたいにむせた。そして胸を押さえ、真央を凝視した。実の弟にさえ、そんなふうに呼ばれたことはなかった。耳の奥に、弟の声がよみがえる。貴子、と。声変わりをする前の可憐な声や、声変わり中のひび割れてがさついていた声、そして、貴子より大きく成長した後の低く沈んだ声でも。
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