観音通りにて・姉

美里

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 弟はいつも、貴子を当たり前みたいに名前で呼んだ。物心ついたときから施設でたくさんの子どもに囲まれて暮らし、その誰もが貴子を当然貴子と呼んだから、弟もそれに倣ったのだろう。さほど姉弟という意識もなかったのかもしれない。貴子にとっては、弟はたった一人の肉親だったけれど。
 貴子が15で施設を飛び出したとき、弟はまだ8歳だった。施設にやってきたときの貴子より幼かったということになる。それからもう、10年がたつ。弟は施設に暮らしながら高校に通い、施設を出てから大学にも通い始めた。一人暮らしの費用も、大学の学費も、貴子が負担している。弟は、奨学金で大学に行くし、生活費はバイトで賄う、と言った。でも、貴子がそれを許さなかった。奨学金はやがて返さなければならない借金みたいなものだと認識していたし、アルバイトをするよりもその時間で勉強をしてほしかった。貴子はそうしたくてもできなかったから、余計に。
 『でも、貴子の負担が……、』
 駅前のマクドナルドで、弟は目の前のハンバーガーに手も付けずに視線を落とした。
 『平気。それくらいは稼いでるわ。』
 貴子は笑いながらポテトをつまみ、そう言った。
 それくらいは稼いでる。事実ではあったけれど、その稼ぎがいつまで続くのか、保証はない。
 弟とはそれから何度も話し合った。そして最終的には貴子の言い分が通った。弟は志望校に合格し、今大学一年生だ。アルバイトはさせていない。その時間があったら勉強しなさい、と睨んだ貴子に、弟はなにも言い返さなかった。子どもの頃の貴子の夢は学者だった。学者という職業がなにをするものなのかはよく分かっていなかったけれど、とにかく勉強をたくさんするのだと思っていた。そのことは、弟も知っているはずだ。
 「……姉ちゃん、もう寝た?」
 細い声が、貴子を呼んだ。天井から隣室との境に視線を移した貴子は、そこに真央が枕を抱えて立っているのを認めた。
 「どうしたの、真央。」
 「なんか、眠れなくて。」
 「ソファで寝たら? 眠れるまで話を。」
 「うん。」
 大きく頷いた真央は、小走りで部屋に入って来て、ソファの上に枕を置いて、身を横たえた。実の弟に、こんなふうに甘えられたことはなかったな、と貴子はぼんやり思う。
 「姉ちゃん。」
 「なに?」
 「観音通りには、やっぱり運命って転がってないと思う?」
 「まだ未練があるのね。」
 「……そういうわけじゃないけどさ。」
 「観音通りじゃなくても、どこでも、運命のひとってなかなか転がってはないんだと思うわよ。」
 「寂しいこと言うね。」
 「真央みたいに若くはないもの。」
 「俺って、そんな若い?」
 「生まれたての小鳥みたいに若いわ。」
 くすくすと、女の子みたいに真央が笑う。それから真央と貴子はしばらく、観音通りと運命のひとについての話をしたけれど、真央が先に眠ってしまった。貴子はじっと天井を見つめながら、運命のひと、と、口の中で呟いてみた。それはひどく、空虚な響きをした。
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