観音通りにて・姉

美里

文字の大きさ
27 / 32

しおりを挟む
 「……ごめん、姉ちゃん。」
 ぽつん、と、真央が言った。
 なにが、と、貴子は問い返した。真央の目は暗くて底がないようで、恐ろしくなるくらいだった。いつかこんな目をした誰かを見たことがある、と思って、それが実の弟だと気が付く。弟はいつも、こんな真っ黒い目をしていた。貴子は急になにもかもが怖くなって、それは半年以上一緒に暮らした真央のことさえも怖くなって、悲鳴を上げないので精いっぱいだった。そんなふうに全身を強張らせる貴子を見て、真央は悲しい白い頬で、少しだけ笑った。
 「……ごめん、貴子さん。」
 待って、と、真央に手を伸ばしたかったのに、できなかった。拒絶が怖かったし、それ以上のなにかがもっと怖かった。今、真央が暗い目のまま首を絞めてきても、貴子は驚かないだろう。
 けれど真央はそんな蛮行には及ばず、静かに膝を伸ばし、立ちあがった。
 待って。
 声が出なかった。喉がぴたりと貼り合わせられてしまったようで、ぴりぴりと痛みすら走った。
 そんな貴子を見て、真央は暗い目のまま、なんとも言えない顔をした。笑みというには頬が硬すぎ、涙というには目の下がやわらかすぎる。怒りには程遠いし、だからといって、いつくしみも感じられない。
 そしてその表情のまま、真央は貴子の横をすり抜けて、玄関で白いスニーカーを引っかけた。商売用に整えられた、不実で誠実な手が玄関のドアを開け、彼はまだ暗い野外へ足を踏み出す。貴子を振り返ることもしないで。
 貴子は、そんな真央のまだ骨が細い後ろ姿を、じっと見ていた。目に焼き付けるみたいに。本当は引き留めたかった。でも、自分の失言が招いたのであろうこの状況をひっくり返すような言葉が、一つも浮かばなかった。まお、まお、と、いつものように呼びかけても、もう真央は無邪気に、なに、姉ちゃん、とは返してくれないだろう。
 がちゃん、と、穏やかで残酷な音を立てて玄関のドアが閉まる。貴子はひとり、暗闇に取り残された。腰から這い上がってくる冷気が、あまりにも惨めだった。
 いつまでもここに座っていてはいけない。
 そう思って、貴子はその場に立ちあがる。ここでじっと待っていれば真央が戻ってくるのであれば、いつまでだってこうしているけれど、真央は決して帰ってはこない。彼はもう、決めたのだ。貴子とは暮らさない、と、はっきり決断したのだ。
 貴子は冷え切った身体を引きずるようにして、廊下から奥の部屋に入った。エアコンをつけ、電気をつけ、ソファに腰掛ける。
 真央の使っていた四畳半を片付けなければ、と思う。真央はきっと、明日の晩にでも、何事もなかったみたいな顔をして、観音通りで貴子の隣に立つだろう。そのときに、彼が残していった着替えやらなにやらを手渡してやればいい。笑顔で。
 けれど全身から空気が抜けてしまったみたいに、なにをする気も起きなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

灰かぶりの少年

うどん
BL
大きなお屋敷に仕える一人の少年。 とても美しい美貌の持ち主だが忌み嫌われ毎日被虐的な扱いをされるのであった・・・。

オメガなパパとぼくの話

キサラギムツキ
BL
タイトルのままオメガなパパと息子の日常話。

創作BL短編集

さるやま
BL
短編まとめました。 美形×平凡、ヤンデレ、執着・溺愛攻め多め

  【完結】 男達の性宴

蔵屋
BL
  僕が通う高校の学校医望月先生に  今夜8時に来るよう、青山のホテルに  誘われた。  ホテルに来れば会場に案内すると  言われ、会場案内図を渡された。  高三最後の夏休み。家業を継ぐ僕を  早くも社会人扱いする両親。  僕は嬉しくて夕食後、バイクに乗り、  東京へ飛ばして行った。

僕の幸せは

春夏
BL
【完結しました】 【エールいただきました。ありがとうございます】 【たくさんの“いいね”ありがとうございます】 【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】 恋人に捨てられた悠の心情。 話は別れから始まります。全編が悠の視点です。

処理中です...