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「……ごめん、姉ちゃん。」
ぽつん、と、真央が言った。
なにが、と、貴子は問い返した。真央の目は暗くて底がないようで、恐ろしくなるくらいだった。いつかこんな目をした誰かを見たことがある、と思って、それが実の弟だと気が付く。弟はいつも、こんな真っ黒い目をしていた。貴子は急になにもかもが怖くなって、それは半年以上一緒に暮らした真央のことさえも怖くなって、悲鳴を上げないので精いっぱいだった。そんなふうに全身を強張らせる貴子を見て、真央は悲しい白い頬で、少しだけ笑った。
「……ごめん、貴子さん。」
待って、と、真央に手を伸ばしたかったのに、できなかった。拒絶が怖かったし、それ以上のなにかがもっと怖かった。今、真央が暗い目のまま首を絞めてきても、貴子は驚かないだろう。
けれど真央はそんな蛮行には及ばず、静かに膝を伸ばし、立ちあがった。
待って。
声が出なかった。喉がぴたりと貼り合わせられてしまったようで、ぴりぴりと痛みすら走った。
そんな貴子を見て、真央は暗い目のまま、なんとも言えない顔をした。笑みというには頬が硬すぎ、涙というには目の下がやわらかすぎる。怒りには程遠いし、だからといって、いつくしみも感じられない。
そしてその表情のまま、真央は貴子の横をすり抜けて、玄関で白いスニーカーを引っかけた。商売用に整えられた、不実で誠実な手が玄関のドアを開け、彼はまだ暗い野外へ足を踏み出す。貴子を振り返ることもしないで。
貴子は、そんな真央のまだ骨が細い後ろ姿を、じっと見ていた。目に焼き付けるみたいに。本当は引き留めたかった。でも、自分の失言が招いたのであろうこの状況をひっくり返すような言葉が、一つも浮かばなかった。まお、まお、と、いつものように呼びかけても、もう真央は無邪気に、なに、姉ちゃん、とは返してくれないだろう。
がちゃん、と、穏やかで残酷な音を立てて玄関のドアが閉まる。貴子はひとり、暗闇に取り残された。腰から這い上がってくる冷気が、あまりにも惨めだった。
いつまでもここに座っていてはいけない。
そう思って、貴子はその場に立ちあがる。ここでじっと待っていれば真央が戻ってくるのであれば、いつまでだってこうしているけれど、真央は決して帰ってはこない。彼はもう、決めたのだ。貴子とは暮らさない、と、はっきり決断したのだ。
貴子は冷え切った身体を引きずるようにして、廊下から奥の部屋に入った。エアコンをつけ、電気をつけ、ソファに腰掛ける。
真央の使っていた四畳半を片付けなければ、と思う。真央はきっと、明日の晩にでも、何事もなかったみたいな顔をして、観音通りで貴子の隣に立つだろう。そのときに、彼が残していった着替えやらなにやらを手渡してやればいい。笑顔で。
けれど全身から空気が抜けてしまったみたいに、なにをする気も起きなかった。
ぽつん、と、真央が言った。
なにが、と、貴子は問い返した。真央の目は暗くて底がないようで、恐ろしくなるくらいだった。いつかこんな目をした誰かを見たことがある、と思って、それが実の弟だと気が付く。弟はいつも、こんな真っ黒い目をしていた。貴子は急になにもかもが怖くなって、それは半年以上一緒に暮らした真央のことさえも怖くなって、悲鳴を上げないので精いっぱいだった。そんなふうに全身を強張らせる貴子を見て、真央は悲しい白い頬で、少しだけ笑った。
「……ごめん、貴子さん。」
待って、と、真央に手を伸ばしたかったのに、できなかった。拒絶が怖かったし、それ以上のなにかがもっと怖かった。今、真央が暗い目のまま首を絞めてきても、貴子は驚かないだろう。
けれど真央はそんな蛮行には及ばず、静かに膝を伸ばし、立ちあがった。
待って。
声が出なかった。喉がぴたりと貼り合わせられてしまったようで、ぴりぴりと痛みすら走った。
そんな貴子を見て、真央は暗い目のまま、なんとも言えない顔をした。笑みというには頬が硬すぎ、涙というには目の下がやわらかすぎる。怒りには程遠いし、だからといって、いつくしみも感じられない。
そしてその表情のまま、真央は貴子の横をすり抜けて、玄関で白いスニーカーを引っかけた。商売用に整えられた、不実で誠実な手が玄関のドアを開け、彼はまだ暗い野外へ足を踏み出す。貴子を振り返ることもしないで。
貴子は、そんな真央のまだ骨が細い後ろ姿を、じっと見ていた。目に焼き付けるみたいに。本当は引き留めたかった。でも、自分の失言が招いたのであろうこの状況をひっくり返すような言葉が、一つも浮かばなかった。まお、まお、と、いつものように呼びかけても、もう真央は無邪気に、なに、姉ちゃん、とは返してくれないだろう。
がちゃん、と、穏やかで残酷な音を立てて玄関のドアが閉まる。貴子はひとり、暗闇に取り残された。腰から這い上がってくる冷気が、あまりにも惨めだった。
いつまでもここに座っていてはいけない。
そう思って、貴子はその場に立ちあがる。ここでじっと待っていれば真央が戻ってくるのであれば、いつまでだってこうしているけれど、真央は決して帰ってはこない。彼はもう、決めたのだ。貴子とは暮らさない、と、はっきり決断したのだ。
貴子は冷え切った身体を引きずるようにして、廊下から奥の部屋に入った。エアコンをつけ、電気をつけ、ソファに腰掛ける。
真央の使っていた四畳半を片付けなければ、と思う。真央はきっと、明日の晩にでも、何事もなかったみたいな顔をして、観音通りで貴子の隣に立つだろう。そのときに、彼が残していった着替えやらなにやらを手渡してやればいい。笑顔で。
けれど全身から空気が抜けてしまったみたいに、なにをする気も起きなかった。
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