美里

文字の大きさ
5 / 29

しおりを挟む
 翌日、目を覚ますともう昼近くだった。仕事、とぎょっとして飛び起きかけてから、今日は土曜日だと気が付く。そして、ここはどこだ、と再びぎょっとしてから、慎一郎さんの喫茶店に泊めてもらったのだと思い出す。そうすると瞬時に恋人の顔が頭を過ぎって、どうしようもなく悲しくて情けない気分にはなったけれど、極力彼のことは思い出すまいと自分に言い聞かせ、椅子の背に引っ掛けていたジャケットを取って、階下に降りた。とにかく、一度恋人の住む家に行って最低限の荷物を回収し、どこかに住むところも確保しなければならない。
 階段を下り、喫茶店に続く扉を開けると、珈琲のいい香りが漂ってきた。半ばうっとりしながら中に入ると、カウンターの奥で慎一郎さんが珈琲を淹れていた。
 「おはようございます。」
 慎一郎さんの低い声は、よく通り、耳にはやさしかった。俺はぺこりと頭を下げて挨拶を返した。
 「ありがとうございました。これから荷物取りに行って、部屋も探してきます。」
 「そんなに慌てなくても。」
 「え?」
 「朝食を用意したのですが。」
 「え?」
 「どうぞ。」
 にっこり微笑んだ慎一郎さんは、穏やかなのに有無を言わせない動作で、カウンターにトーストとサラダ、ベーコンエッグの皿を並べた。どれも彩りや焼き加減が完璧で、俺はその眩さに一瞬目がくらみそうになってしまった。恋人と暮らしていた間、俺たちは朝食など摂らなかったし、さらにさかのぼって親元にいた間も、目が覚めて朝食が用意されていたことなどなかった。父親は事情があって別居後離婚していたし、母親は忙しく働いていたので、寒い台所のテーブルの上に用意されたシリアルを、自分で皿に注いで食っては登校していた。
 「……ありがとうございます。」
 「いいえ。」
 俺がカウンターに座り、珈琲を啜りだすと、慎一郎さんもカウンターから出てきて俺の隣の席に座り、自分の分の朝食を食べだした。姿勢のいいひとだ、と思った。背もたれを必要としないくらい、その背中はすっと伸びていた。
 「荷物を取りに行くとおっしゃっていましたね。」
 「……はい。」
 「おひとりで、大丈夫ですか?」
 「え?」
 俺は、なにを言われているのか把握できず、ぽかんとして隣の席に座る背の高いひとの横顔を見上げた。慎一郎さんはこちらに向き直ると、私もついていきましょうか、と言った。
 「昨晩聞いた話を鑑みると、おひとりで行かれるのは、随分つらそうな気がしたので。」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

僕の幸せは

春夏
BL
【完結しました】 【エールいただきました。ありがとうございます】 【たくさんの“いいね”ありがとうございます】 【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】 恋人に捨てられた悠の心情。 話は別れから始まります。全編が悠の視点です。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない

すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。 実の親子による禁断の関係です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...