美里

文字の大きさ
16 / 29

16

しおりを挟む
 「……奥さん、ですか?」
 勇気を振り絞って尋ねた。慎一郎さんは、軽く俯くと、はい、と答えた。俺は、それ以上問いを重ねることができなかった。半分くらい残っていた珈琲を飲み干し、カウンター席から立ちあがる。
 俺の感情を受け止めてもらおうなんて思わない。
 心に決めていたのに、揺らぎそうな自分が怖かった。受け止めてもらえるとも、気持ちが通じるとも思わない。でも、それでも気持ちをぶちまけてしまいそうな自分が、とても怖かった。
 いきなり立ちあがったからだろう、慎一郎さんは、ちょっと驚いたような目で俺を見た。俺は、慎一郎さんの目の中に俺が映っているという幸福感を感じて、そしてそう感じる自分に絶望した。
 「亮輔さん?」
 「帰ります。お会計、お願いします。」
 「なにか、あったんですか?」
 なにかは、あった。けれどそれを、慎一郎さんの前で言えるはずもない。
 「私がなにか、気に障るようなことを?」
 「いいえ。」
 違う。全然違う。悪いのは、全部俺だ。
 「でしたら、もう少しここに。なにか飲み物を出しますから。」
 慎一郎さんの柔らかな声が、胸を締め付ける。このひとは、俺が不埒な欲望を持っているだなんて、わずかばかりも疑ってはいないのだ。俺がゲイだと分かっていても、なお。
 「ほら、座ってください。」
 慎一郎さんの大きな手が、俺の肩に一瞬触れた。俺は、その手に従った。従いたかったのだ。どうしても。
 慎一郎さんは微笑んで、俺の前に大きめのマグカップに入ったホットミルクを出してくれた。
 「店のメニューにはないんですけど、珈琲を飲みすぎると、眠れなくなりますしね。」
 「……ありがとうございます。」
 多分、このひとにとって、俺は心配な子どもなのだ。この寒い夜に、一人で放っておくには心配すぎる、幼い子。だからこうやって、無限にやさしさをくれる。もしも俺がここで、自分の欲を吐き出したとしたら、慎一郎さんは、これまで通りでいてはくれないだろう。
 それから俺と慎一郎さんは、何気ない会話を交わした。俺の新しい家の間取りについてだったり、俺の職場の話だったり、俺の休日の過ごし方だったり。慎一郎さんについての話は、しなかった。彼は自分のことについて話したい素振りを見せなかったし、俺も、今日これ以上傷つく余裕は残っていなかった。
 一時間くらい経って、俺が会計を済ませて帰ろうとすると、慎一郎さんは、また来てください、と言ってくれた。はっきりと、俺の目を見て。俺は、言葉がとっさに出なくて、ただ頷いた。自分でも自分のことを、まるっきり子どもみたいだと思った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

僕の幸せは

春夏
BL
【完結しました】 【エールいただきました。ありがとうございます】 【たくさんの“いいね”ありがとうございます】 【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】 恋人に捨てられた悠の心情。 話は別れから始まります。全編が悠の視点です。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない

すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。 実の親子による禁断の関係です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...