28 / 29
28
しおりを挟む
こんなに弱弱しい慎一郎さんの声を聞いたのは、はじめてだった。俺は慌てて椅子から滑り降り、カウンターの内側に回った。そこに、慎一郎さんが膝を折ってしゃがみ込んでいる。その広い背中が、今日はやけに小さく見えた。
なにか、言わなくてはと思った。でも、言葉が見つからなくて、とにかく慎一郎さんの正面に俺も膝を折り、その肩を両腕で抱きしめた。慎一郎さんは細かく震えていた。それは、俺自身も。
「俺が、悪かったんです。」
わずかにかすれた声で、慎一郎さんが言った。
「翔真さんから聞きました。ご両親のこと。……俺があなたに、つらい思いをさせた。」
違う、と、咄嗟に発した俺の声は、自分でも分かるくらい取り乱していた。
違う、違う、と、何度も繰り返す。
悪いのは、慎一郎さんではない。悪いのは、俺だ。きちんと向き合ってくれようとしたひとに背を向けて逃げ出した、俺。
「指輪を、外せなかった。外したら、自分が変わってしまうのではないかと、妻を忘れてしまうのではないかと、怖かったんです。」
目の前の慎一郎さんが、いつも毅然と穏やかだった彼が、今に限ってはひどく儚げにすら見えて、俺は慎重に言葉をさがした。
「……奥様は、もう……、」
「はい。もう、亡くなっています。8年前になります。」
慎一郎さんの声は、やはり細い。奥さんの死は、このひとにこんなに深い傷を残しているのだ。8年。長い年月だと一瞬思った。そしてそれから、慎一郎さんにとってはほんの一瞬にすぎないのだろうとも。
「病気、でした。妻には病名も余命も伝えていなかったのに、頻りに自分の死後の話をしていました。……新しいひとを見つけて、幸せになってね、と。」
俺には、震えている目の前の人にかける言葉さえ見つからず、ただ黙って肩を抱いていることしかできなかった。
慎一郎さんは顔を上げ、俺を見て、細く長い息を吐いた。そして微かに唇を笑わせ、小さく首を横に振る。
「もう、ひとを好きになることはないと思っていたので、指輪を外すことはしませんでした。8年間。」
俺は、黙って頷いた。ただ、聞いています、と示すための動作だった。俺にはどうやったって、慎一郎さんの辛さを理解することなんてできようもない。
なにか、言わなくてはと思った。でも、言葉が見つからなくて、とにかく慎一郎さんの正面に俺も膝を折り、その肩を両腕で抱きしめた。慎一郎さんは細かく震えていた。それは、俺自身も。
「俺が、悪かったんです。」
わずかにかすれた声で、慎一郎さんが言った。
「翔真さんから聞きました。ご両親のこと。……俺があなたに、つらい思いをさせた。」
違う、と、咄嗟に発した俺の声は、自分でも分かるくらい取り乱していた。
違う、違う、と、何度も繰り返す。
悪いのは、慎一郎さんではない。悪いのは、俺だ。きちんと向き合ってくれようとしたひとに背を向けて逃げ出した、俺。
「指輪を、外せなかった。外したら、自分が変わってしまうのではないかと、妻を忘れてしまうのではないかと、怖かったんです。」
目の前の慎一郎さんが、いつも毅然と穏やかだった彼が、今に限ってはひどく儚げにすら見えて、俺は慎重に言葉をさがした。
「……奥様は、もう……、」
「はい。もう、亡くなっています。8年前になります。」
慎一郎さんの声は、やはり細い。奥さんの死は、このひとにこんなに深い傷を残しているのだ。8年。長い年月だと一瞬思った。そしてそれから、慎一郎さんにとってはほんの一瞬にすぎないのだろうとも。
「病気、でした。妻には病名も余命も伝えていなかったのに、頻りに自分の死後の話をしていました。……新しいひとを見つけて、幸せになってね、と。」
俺には、震えている目の前の人にかける言葉さえ見つからず、ただ黙って肩を抱いていることしかできなかった。
慎一郎さんは顔を上げ、俺を見て、細く長い息を吐いた。そして微かに唇を笑わせ、小さく首を横に振る。
「もう、ひとを好きになることはないと思っていたので、指輪を外すことはしませんでした。8年間。」
俺は、黙って頷いた。ただ、聞いています、と示すための動作だった。俺にはどうやったって、慎一郎さんの辛さを理解することなんてできようもない。
15
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
僕の幸せは
春夏
BL
【完結しました】
【エールいただきました。ありがとうございます】
【たくさんの“いいね”ありがとうございます】
【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】
恋人に捨てられた悠の心情。
話は別れから始まります。全編が悠の視点です。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない
すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。
実の親子による禁断の関係です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる