逃げても浮気と責めないで

美里

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 私は、サエちゃんの澄んだ氷みたいな両目を見つめて、しばらく黙っていた。サエちゃんの目の中の熱は、その氷を溶かすほどの温度ではない。けれど、私の見間違えにするには確かすぎもするのだ。
 私は、慎重にゆっくりと呼気を吸った。
 「……酔って抱くにはもったいなすぎるね、サエちゃんは。」
 「恐れ入ります。」
 私のみっともない逃げを、サエちゃんは平然と受け流した。そのときの彼女の目の中には、もうさっきの熱は、残っていなかった。私の臆病さに呆れて、わずかな情も消え失せたのかもしれない。
 ねえ、サエちゃん。
 もう一度、呼びかけたかったのだけれど、呼びかけたその先の言葉が見つからなかった。もう、軽口をたたく気分でもないし、サエちゃんは本当に、酔って口説くにはもったいなすぎる。
 「お勘定お願い。」
 「はい。」
 薄い財布から、お酒一杯分の勘定を払い、席を立つ。サエちゃんはやっぱり、にこりともしないでカウンターの向こう側に立ち、私にすらりと頭を下げた。
 「またお越しください。」
 彼女の薄い肩から、一つに束ねた長い髪が滑り落ちる。私はサエちゃんのプライベートを知らないから、その髪をほどいたところを見たこともない。ほどいて、指を通したら、どんな感触がするのだろうか。おんなの髪は、誰のものでも冷たくて、手触りは似ているようでまるで違う。
 「またね。」
 軽く手を振って、店のドアに手をかける。
 「ユナさん、」
 背後から声をかけられ、おつりを間違えでもしたのだろうか、と首を振り向かせる。すると、カウンターの向こうのサエちゃんが、長い睫を伏せて、微かに微笑んでいた。それは長い付き合いの中でも、これまで見たことのない表情だった。
 サエちゃんが、薄い唇を開き、なにか言おうとする。私は、それを恐れた。 
 「行くね。」
 なるべく、温かい声を出したかったのだけれど、多分、上手くいかなかった。怖かった。私はおそらくは、自分が変われないとはっきり理解することを恐れたのだ。
今夜サエちゃんと寝たとして、彼女の部屋に転がり込んでも、それでも私はきっと夜逃げをする。ある夜突然思い立って荷造りをし、リュック一つ抱えて街に逃げ込む。そんなことをしてしまえば、それからは誰が私に、倒れるほど甘いお酒を作ってくれるのだろうか。全然変われない、私に。
 ユナさん、と、もう一度呼ばれたら、私はサエちゃんの髪をほどいたかもしれなかった。けれど、サエちゃんは私をもう呼ばず、微笑を浮かべたまま、はい、と呟いた。
 私はサエちゃんにもう一度手を振り、コートの前を閉め、寒い夜中の街に歩き出した。
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