22 / 33
5
しおりを挟む
「そんなことない。」
そう言った鈴村さんの声は、熱量を持ってひずんでいた。
いつもの優しくて理性的な彼女の声とはまるで違う。俺は驚いて彼女の顔を見たけれど、夕闇の中で表情は霞んで見えない。
「上原くんはいつも、中村くんのことばっかり考えてるじゃない。」
やはり、熱を持ってひずんだ物言い。俺は、彼女が泣いているんじゃないかと思った。理由は、分からないけれど。
泣かないで、とは言えないまま、俺は一歩彼女に近づいた。
彼女は、逃げずにその場にいてくれた。そのことは、確かに俺の勇気になった。俺は汚い自分勝手な人間だけど、鈴村さんは、それをよく知っているはずの鈴村さんは、俺から逃げずにいてくれると。
一歩近づくと、やはり彼女は泣いていることが分かった。夕闇に染まる頬を、涙の雫が静かに伝っている。
「……泣かないで。」
それしか言えなかった。泣いてほしくなかった。俺なんかのことで。
「泣いてなんかないよ。」
手の甲でぐいっと涙を拭いながら、鈴村さんは喧嘩腰で言った。
俺は、この優しい人を何度泣かせてきたのだろうか、と思った。
「泣いてなんかない。私は泣かないって決めたんだもん。泣いたら上原くんを困らせちゃうだけだって、分かってるもん。」
やっぱり喧嘩腰のまま、鈴村さんが吐き捨てた言葉は、それでも優しかった、俺もつられて泣きそうになるくらいには、優しかった。
「……ありがとう。」
出てきた言葉は、それだけだった。
ありがとう、俺から逃げないでいてくれて。ありがとう、俺に優しくしてくれて。ありがとう、俺は汚くないと示そうとしてくれて。
そんな言葉たちが胸の中に蹲っていたけれど、上手く口に出せなかった。鈴村さんを、万が一にでも傷付けてしまうのではないかと思うと、怖くて。
「……好きだって、言ってくれればいいのに。嘘でも、言ってくれればいいのに。」
鈴村さんが、しゃくり上げながら言った。
俺はどうしていいのか分からないまま、その場に突っ立っていた。
人気のない、熱帯夜だった。薄水色の夕闇の中に、鈴村さんと二人で閉じ込められてしまったみたいだと思った。
「……嘘でも、言ってよ。」
鈴村さんの細い腕が、俺の首に回った。
俺は何も言えないまま、彼女の痩せた肩を抱いた。
嘘になるから、言えない。あなたを傷つけてしまうから、言えない。
彼女にそんなことを言えるはずはなかった。
そう言った鈴村さんの声は、熱量を持ってひずんでいた。
いつもの優しくて理性的な彼女の声とはまるで違う。俺は驚いて彼女の顔を見たけれど、夕闇の中で表情は霞んで見えない。
「上原くんはいつも、中村くんのことばっかり考えてるじゃない。」
やはり、熱を持ってひずんだ物言い。俺は、彼女が泣いているんじゃないかと思った。理由は、分からないけれど。
泣かないで、とは言えないまま、俺は一歩彼女に近づいた。
彼女は、逃げずにその場にいてくれた。そのことは、確かに俺の勇気になった。俺は汚い自分勝手な人間だけど、鈴村さんは、それをよく知っているはずの鈴村さんは、俺から逃げずにいてくれると。
一歩近づくと、やはり彼女は泣いていることが分かった。夕闇に染まる頬を、涙の雫が静かに伝っている。
「……泣かないで。」
それしか言えなかった。泣いてほしくなかった。俺なんかのことで。
「泣いてなんかないよ。」
手の甲でぐいっと涙を拭いながら、鈴村さんは喧嘩腰で言った。
俺は、この優しい人を何度泣かせてきたのだろうか、と思った。
「泣いてなんかない。私は泣かないって決めたんだもん。泣いたら上原くんを困らせちゃうだけだって、分かってるもん。」
やっぱり喧嘩腰のまま、鈴村さんが吐き捨てた言葉は、それでも優しかった、俺もつられて泣きそうになるくらいには、優しかった。
「……ありがとう。」
出てきた言葉は、それだけだった。
ありがとう、俺から逃げないでいてくれて。ありがとう、俺に優しくしてくれて。ありがとう、俺は汚くないと示そうとしてくれて。
そんな言葉たちが胸の中に蹲っていたけれど、上手く口に出せなかった。鈴村さんを、万が一にでも傷付けてしまうのではないかと思うと、怖くて。
「……好きだって、言ってくれればいいのに。嘘でも、言ってくれればいいのに。」
鈴村さんが、しゃくり上げながら言った。
俺はどうしていいのか分からないまま、その場に突っ立っていた。
人気のない、熱帯夜だった。薄水色の夕闇の中に、鈴村さんと二人で閉じ込められてしまったみたいだと思った。
「……嘘でも、言ってよ。」
鈴村さんの細い腕が、俺の首に回った。
俺は何も言えないまま、彼女の痩せた肩を抱いた。
嘘になるから、言えない。あなたを傷つけてしまうから、言えない。
彼女にそんなことを言えるはずはなかった。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる