青い夜

美里

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「若くてきれいな方だって。」
 「なにが。」
 「奥様。」
 「まぁ、そうね。」
 やっぱり、どうでもよさそうに。
 容姿でも年齢でもなければ、なにが私と奥さんで違うというのか。
 私のことは、一年もしないで捨てたくせに。結婚どころか交際についてさえ、一度も口にはしなかったくせに。
 「来いよ。」
 「……。」
 「来い。」
 行かない、と、私は言った。蚊の鳴くような声を、喉の奥からなんとか絞り出して。
 こんな声では、この男には分かってしまう。私が彼を思いきれていないことを。私が、というか、私の肉が。
 この春の夜みたいな声で卑猥な言葉を囁かれながら抱かれると、私の身体はすぐに溶けて使い物にならなくなった。今でもしょっちゅう、この男に身体を玩ばれる夢を見る。それも眠っている間だけではなく、白昼夢みたいに気が付けば夢の縁に落ちている。
 この男はいつも、新しい玩具の強度を確かめるみたいに私の身体を嬲った。自分が耐えられる痛みや快楽の度合いを、私はあの一年にも満たない期間で教え込まれたのだ。
 「抱いて。」
 脳も口も壊れる。死んでも口にしたくない言葉が勝手に口をつく。
 男は電話の向こうで投げ出すように薄く笑った。
 「上海でな。」
 「奥様は?」
 「別れる。」
 嘘、と言いかけて口をつぐむ。だって、それは本当だから。この男は奥さんと別れて私を中国に連れて行き、そして私の事もどうせすぐに捨てるのだ。人を人とも思っていないあの冷たい目で、もう来るな、と短く吐き捨てて。
 もう来るな。
 まさかあの一言だけで、重ねた夜の全てを思い切れるとでも思っているのだろうか、この男は。
 抱いて、と、またその言葉が喉を転がり落ちる。
 この男にはそれ以外のなにも求めないと、はたちの私は何度も自分に言い聞かせた。それは、今でも。
 抱くよ、と、電話の向こうで男は平然と答える。
 抱いて、と、女に縋られることくらい、この男には日常茶飯事なのだろう。
 殺してやりたかった。食虫植物みたいに、私の中に入ってきたこの男を消化液で溶かして私の一部にしてしまいたかった。この男に縋った女たちはみんなこんなふうに狂っていたはずだ。だから、この男がこれまで無事に生きてこられたのは、単に運が良かったにすぎない。
 「伸ちゃんのためでしょう。」
 私の声はすでに嗚咽でしかなかった。
 驚いて頬に手をやれば涙でびっしょりと濡れている。
 悲しくはなかった。怒りや絶望で泣いているとも思えなかった。もっとオートマティックに、アレルギー持ちの人が花の花粉に触れて涙を流すみたいに、私はこの男の声で涙を流しているのだろうと思った。
 「あなた、伸ちゃんが好きなんでしょう。」
 
 
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