待つ

美里

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 「また旦那さんは、あの男のひとと行っちゃったのね。」
 ソファに腰掛けた雛子が、顎の線で切り揃えた黒い髪をさらりと揺らし、隣に座った菜乃花の顔を覗き込んだ。
 「……ええ。」
 菜乃花は正直に頷き、真っ直ぐな雛子の視線をよけるみたいに俯いた。
 「喧嘩でもしたの?」
 「……いいえ。」
 草平が出かけて行ってしまうのは、別に菜乃花と喧嘩をしたからとか、そんな理由があってのことではおそらくなかった。ごく普通の生活を、ごく普通に送っていて、ある日夫が突然、出かけてくる、と言い出す。そして、菜乃花に止める隙も与えずに、キャリーケースに旅行支度をして、そのまま出て行ってしまう。菜乃花には、夫がなぜ出て行ってしまうのかがいつも分からない。なにか気に障ることをしてしまったのだろうか、と、前日の自分の振る舞いなんかを思い出してみても、変わったことをしたとは思えない。夫が変化を嫌う性格であるので、菜乃花はただでさえ常に、毎日をルーティーン化して静かに過ごすように心がけていた。
 「……今回は、草ちゃん、帰ってこないかもしれない。」
 それでも、今回に限っては、菜乃花にも心当たりがあった。草平は出かけて行ってしまうだろう、そして、もう戻らないかもしれない、と。
 「なぜ?」
 雛子が首を傾げ、菜乃花の垂れ下がっていた長い髪の房を、そっと耳にかけてくれた。その手は、いつものようにやさしい。真っ白い彼女の手が、自分の肌の上を這うさまを思い出して、菜乃花は一瞬身体を揺らした。
 「……子ども、できたのよ。」
 そう口にすると、一緒にため息も漏れた。菜乃花の髪に触れていた雛子の指が、ぴくりと震えた。
 「……旦那さんとの子?」
 「他に、誰がいるの?」
 「別に……なんかあのひと、性欲とかなさそうだから。」
 雛子は、結婚式のときに一度だけ、草平と会っている。菜乃花は彼女を式に呼ぶことをためらったのだけれど、雛子から、絶対に呼んでね、と言われて招待状を出した。
 「……そうね。」
 「子どもも、ほしがらなそうだし。」
 「……そうね。」
 子どもができたのは、菜乃花にとっても驚きだった。避妊はしていた。夫が子どもを望まないであろうことは、そんな話をしたことがあるわけではないけれど、察していた。それでも、生理が止まり、体調にも異変があり、妊娠検査薬で陽性が出た。夫にそれを告げる前に、ひとりで病院にも行った。もう、なにをどうしても妊娠を否定できる材料はなくなってから、菜乃花は昨夜、仕事から帰ってきた草平に、子どもができたの、と伝えたのだ。
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