待つ

美里

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 「菜乃花……。」
 雛子が、ひどく悲しげな声で菜乃花を呼んだ。それでも菜乃花はブラウスのボタンを外す手を止めなかった。すると、その手を雛子がつかみ、無理やりにやめさせる。
 「なんで? 話は終わったの。だから、しようよ。」
 自分の声の刺々しさや痛々しさに気が付いて、菜乃花はぎょとした。そんな声を出したつもりは、微塵もなかった。もっと、理性的に落ち着いた声を出して、雛子を誘ったつもりだったのに、こんな声を出されたら、どんな欲情だって霧散してしまうだろう。
 「ごめん、ひなちゃん、私……、」
 たどたどしい言葉が漏れた。雛子は、さっきの声に負けず劣らず悲しげな眼で、菜乃花を見ていた。
 「……菜乃花が、望んで私としてるわけじゃないのは分かってるよ。ずっと、ずっと分かってる。菜乃花は私以外にこういう話ができる人がいないから、私を呼ぶんだよね? それで、旦那さんとの話なんか聞かせた罪悪感で私とするんでしょ? 分かってる。……でもね、今の菜乃花は、さすがに痛々しいよ。」
 雛子のやわらかな声を聞いていると、菜乃花は多少落ち着くことができた。少なくとも、がむしゃらに泣き出したりはしないで済んだ。涙の気配は、喉元まで込み上げていたけれど。
 「……痛々しい? 私。」
 また、思ってもいないような、弱弱しくかすれた声が出た。菜乃花は顔を伏せ、もっと落ち着かなくては、と、浅い呼吸を繰り返した。深く息が吸えない。 
 「かなりね。」
 ぽんぽん、と、雛子がなだめるように菜乃花の背中を撫でる。その行為には、まるで性的な色は含まれていなかった。菜乃花はぼんやりと、性的なもののない世界に行ければいいのに、と思った。性的なものなんか影も形もない世界に行ければ、自分はもっと優しくて、いい人間になれるのではないかと。少なくとも、雛子にこんな悲しい顔をさせずに済んだのではないかと。でも、そんな世界にはたどり着けないから、菜乃花はここでもがくしかない。それはなんだか、ひどく孤独で絶望的なことに感じられた。
 「旦那さんのこと、菜乃花は好きなんだよ。それは、見てても分かるの。」
 雛子が、菜乃花を落ち着かせようとしてか、低めたやさしい声で言う。
 「旦那さんも、きっと菜乃花のこと好きなんだとは思うんだけど……なんか、こじれちゃったんだね。まあ、私も原因の一つではあるのかな。」
 
 
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