境界線

美里

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落下

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兄は病室にはいない。
 分かっていた。それは、推測と言うには強すぎる確信で。
 兄のことならなんでも分かる、とまでは言わないけれど、大体の行動パターンくらいはつかめる。
 それは、ごく普通の兄妹でもそうなのか、それとも私達兄妹だけなのか、それは知らない。深く考えたくもない。
 だって、重ねた夜の一つ一つが、私の中に兄の姿を植え付けただなんて、おぞましすぎる。あってはならないことだ。私達は兄妹である限りは。
 中央病院までは、電車で二駅しかからない。私も子供の頃、救急車で運ばれたことがある。
 あのとき私は、兄とふざけて遊んでいて、階段から転がり落ちたのだ。まだまともだった母が私と一緒に救急車に乗り、父は兄と家に残った。
 懐かしい、と言ってもいいような記憶だ。幸い私は検査の末なんの異常もなく、翌日には家に帰った。
 兄は私に泣いてわびた。
 仲のいい兄妹だったのだ。汚れた意味ではなく。
 中央病院の最寄り駅で電車を降り、五分ほど歩くとその陰気な建物はある。灰色の豆腐を横に寝かせたような形の建造物で、まだ日の落ちていない今時間帯でもなぜだか妙に薄暗い雰囲気に包まれている。
 私は迷うことなく、階段を登って母の病室があるとラインで知らされていた3階まで上がった。
 階段を登り切るとすぐに、テーブルやソファや自動販売機が置かれている、談話室のようなスペースがある。
 そこに兄がいるのだろうと検討をつけ、私は人気のない談話室に足を踏み入れた。
 兄は、談話室の一番奥、窓際に一人で立っていた。窓から射す昼下がりの陽光が、兄の肩から腰に掛けてをぼんやりと照らしていた。
こちらに背中を向け、窓の外の風景を眺めていた兄は、私がやってくることなど百も承知だとでも言いたげな、なめらかな動作で振り返った。
 「美月。」
 兄が私を呼ぶ。
 芯から嬉しそうな声だった。
 私達の母親が、首をくくったというのに。
 私はなんの言葉も発せず、一歩兄から後ずさった。
 怖かったのだ。曇のない兄の笑顔が。
 「来てくれると思ってたよ。」
 兄はそう言って、私に歩み寄ってきた。するすると、それは蛇が獲物に近付くときのように滑らかに。
 「待ってたよ。ずっと。」
 兄は笑っていた。
 この人特有の、穏やかな微笑。確かにかつて、私が愛した微笑。この笑みを向けられるとき、私はどんな状況にあろうと幸福を感じた。
 その表情をたしかに私は、怖い、と感じた。
 
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