せめて今夜の薬指

美里

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葛西さんに抱きしめられたまま、俺は呆然としてしまった。
 好きだよ? まさか、葛西さんが俺を?
 そんなはずはない。まさか、こんなに魅力的なひとが、俺なんかを好いてくれるはずはない。
 それなのに、葛西さんは強く俺を抱いている。
 俺には彼を抱き返すことができない。どうしても、拒絶が怖くて。
 「……葛西さん?」
 囁くような声がでた。大きな声を出したら、葛西さんが我に返って、俺を突き放すのではないかと思った。
 葛西さんはなにも言わず、俺を抱く腕に更に力を込めた。
 痛いくらいの力で抱かれたまま、俺はどうしていいのか分からずにじっとしていた。
 どんな言葉も、口に出したら嘘になる気がした。
 そして俺は、ようやく気がついたのだ。
 俺は、緑雨に恋をしている。
 これまでずっと、目をそらし続けてきた事実だった。
 それでももう、自分に嘘はつけなくて。
 だって、葛西さんが俺を抱いてくれている。この世でいちばん大切なものに触れるみたいに。
 葛西さんの腕の力は、俺の心を強くしてくれた。
 大切に思われているのだと。俺は無価値な生き物ではないのだと。
 「俺、やっぱり緑雨が好きです。」
 葛西さんの腕の中で、その言葉は自分でも驚くほど明瞭に発せられた。
 「緑雨を捜さなきゃ。迷惑がられるとしても。」
 少しの沈黙の後、葛西さんは俺の頭に頬をつけ、囁くように言った。
 「傷つくよ。きっと。」
 「はい。」
 「俺なら小川さんを傷つけたりしない。」
 「はい。」
 「それでも、緑雨なの?」
 「はい。」
 緑雨が俺をただの宿だとしか思っていないにしても、俺には彼が言った、どんなセックスが自分のセックスだか覚えていない、という台詞が忘れられない。
 あのとき緑雨は、身体のどこかがひどく痛むみたいな顔をしていた。
 「だめなんです。俺、やっぱり緑雨じゃないと。」
 彼を追えば傷つくことは分かっている。それでも俺は、彼の痛みをどうにか取り除けないかと、祈るように願ってしまっている。
 もし彼の痛みを取り除けたら、多分俺は、もう誰の腕もなくても俺の価値を認められる。
 「……そっか。」
 ぽつん、と、葛西さんが呟いた。
 「緑雨なら、きっとまた俺の店に来るよ。……ねえ、だから、今だけは。」
 葛西さんは、今だけは、と低く言って俺の指に自分に指をきつく絡めた。
 俺も葛西さんの手を握り返す。
 緑雨を知ってから、いや、緑雨に恋をしてから、本当はずっと、傷つく準備くらいできていた。
 
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