共有物としての男

美里

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 屋敷での仕事には、難しいことはひとつもなかった。三度の食事を真澄さんと五十鈴さんの部屋に運び、広い屋敷と庭の掃除をし、風呂の支度やこまごまとした買い物なんかをこなし、時々は来客を追い払う。余分な仕事を雇い主から言いつかることはほとんどなかった。これまで、色んなところでいろんなバイトをしてきたけれど、その中でも一番くらい楽だ。ただ、物音を立てないように気を使えばいいだけ。
 五十鈴さんと真澄さんは、あまり自分の部屋から出てこなかった。互いの部屋を行き来している様子もない。部屋から出るのは、真澄さんが本を選びに図書室へ、五十鈴さんがピアノを弾きに音楽室へ行くくらいで、屋敷の中を動いているのは、昼間は俺と通いの家政婦さん、夜は全く俺一人だった。
 見ざる言わざる聞かざる。
 俺はその言葉を、癖になったみたいにしょっちゅう頭の中で反復したけれど、そうせねばならないような妙な場面に遭遇したりもしなかった。ただ、人嫌い、騒音嫌いの二人の雇い主が、静かに暮らしているだけだ。
 俺は、昼間はそれなりに仕事をこなしに屋敷の中を行き来したけれど、夜は自分の部屋から動かないようにしていた。別に、そうしろと言われたわけではない。俺が夜にうろちょろしていても、五十鈴さんも真澄さんもなにも言わないとは思う。足音に気を使っている限りは。ただ、俺がそうしたくてしているだけだ。
 なんだか、と思う。
 なんだか、夜にこの屋敷をうろつくのは、怖いような気がする。
 幽霊的な怖い、ではない。もちろん治安は関係ない。なにか、もっと心の深い所にある警報が、じりじりとごく小さな音を発している感じ。俺は、その自分の中の警報を、かなり信用していた。それがあったから、これまで、目的も警戒心もなく、ただいろんなところをうろついていても、決定的に危険な目にあったり、うっかり殺されたりしなかったのだと思うからだ。
 俺が、この屋敷の夜の怖さをはじめて感じたのは、屋敷に勤めてひと月くらいが経って、ふと思い立って兄貴の家へ遊びに行こうとしたある晩だった。翌日は仕事は休みで、夜の内に屋敷を出て兄貴の家へ行き、一晩泊めてもらって翌日帰ってこようと思いついたのだ。
 別に、休みの日や、勤務時間外の夜の時間帯に、どこにいようとも俺の自由にされていたから、俺はすっかり外も暗くなった頃、自室でコートを羽織り、最終バスの時間にはまだ十分に間に合うことを時刻表で確認してから、部屋のドアを開けた。
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