金魚の庭

美里

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私は男を無視して、掴まれていない方の腕を伸ばして玄関のドアを開けた。今日の夕日も、越してきた日に負けず劣らず赤かった。 
 その赤に目を奪われた私は、男に腰を抱えられるように部屋の中に引き戻された。胴体にぐるりと回された男の固い腕は、9歳で母の家を出たあの晩を思い起こさせた。
 「下らない。」
 私はせめてもの抵抗でそう吐き捨てた。佐山との仲を勘ぐるのも、自分の売春が私に知られることを恐れるのも、私の怒りに今も昔も大人げなく怯むのも、全部まとめて下らない。
 「下らないよ。」
 重ねて吐き捨てる声が震えて滲んだ。男は私の胴体を押しつぶすみたいにきつく抱きしめた。
 私は男を抱きかえさなかった。身体を売った14の夜と同じように、佐山の視線が私の足に絡みついている。
 泣きじゃくりながら下らない下らないと繰り返す私を、男は無言で抱いた。抵抗はしたのだったと思うが、よく覚えていない。
 14で売春して以来の性行為だった。あの晩は五万円と引き換えに処女膜を売ったというだけの話だったのでなんという事もなかったが、今回は抱かれても抱かれても私には得る物がなかった。サラリーマン氏に抱かれた時の絶望的な痛みもなければ、男に舐め回された時の焼きつくような快感もない。ただ、男が私の身体を撫で回している感触があるだけだ。
 やがて泣き止んでしまえば、その行為は全く他人事みたいに思われるようになった。色あせて毛羽立った畳の上に、男に押し広げられた貧相な両足が転がっている。それを他人の身体みたいに眺めながら、どうして自分は泣いたりしたのだろうと考えた。下らない。そんなのは私の人生においてはそもそもの始めからだ。何を今更。
 私は覆いかぶさっている男の背中に片手を回し、着たままのシャツの背に肘まで突っ込んだ。そこに泳いでいるはずの金魚は、掌で探ってもなんの感触もない。
 「やめて。」
 男が言った。
 聞いたことのない声だった。低くごろついた声質は常と同じなのに、なぜだかそこには女の匂いがあった。多分この男を買っている誰かは、背中の金魚を見ながらだか舐め回しながらだかで腰を振るのだろう。
 「ごめん。」
 私は素直に謝り、男のシャツから腕を抜いた。そう言えばこの男の刺青を、もう何年も見ていない。
 私も男も、何を今更と思いながらも悲しかったのだと思う。一人と一人で生きていけたら楽なのに、それができないから余計に傷ついてしまう。
 「結婚するよ。専門出たらすぐに結婚する。それでここを出て行くよ。」
 私は男の首にしがみつきながら、まじないみたいにそう言った。男はそれには答えず、私の身体を押しつぶそうとするみたいにきつく組み敷きなおした。
 離れなくては。出て行かなくては。決定的な形で実行しなくては。そうしなくては私は、この男から離れられなくなってしまう。実の父親かもしれない、この男から。
 行為が終わった後、男は私を置いてアパートを出て行った。
 私は畳に転がったまま、脱がされたジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。  
 思った通りにそこには見たことのない番号からの着信があり、私はそれが佐山からの電話だと確信する。留守電は入っていない。ただの、不在着信。
 私は折り返しの電話をかけようか少し悩んだが、結局そうはせずにシャワーを浴びた。とても、とても疲れていた。
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