観音通りにて・兄

美里

文字の大きさ
32 / 34

しおりを挟む
 自分の感情が分からない。
 その感覚は、ソラにも覚えがあった。狂った母親と暮らしたあの家で、ソラは感情を失って、ただ部屋の隅やどこかの路上で膝を抱えていた。喜怒哀楽、そのどれも当てはまらない感覚が胸の中にあって、それに名前を付けることも、片づけることもできず、いずれはそれらの感覚に飲まれるみたいに自分も狂っていくのだろう、と、半ば諦めみたいに思っていた。
 だからか、と思う。
 だから、イズミはソラに優しかったのだろう。ソラのために泣いてくれて、勉強を見てくれて、住込みの仕事まで探してくれていた。それは全部、ソラに自分と同じ匂いを感じたからだったのだろう。
 このひとは、苦しんだのだ。とてもとても、苦しんだのだ。
 ソラは、イズミの首に両腕を回した。その行動を見て、ユウが驚いたように喉を鳴らすのが分かった。それは、そうだろう。ソラはずっと、自分から誰かに触れたことはなかった。それは、ユウにさえ。拒絶が、怖かったのだ。それに、自分が誰かに触れていいような存在だとも思えなかった。でも、今は、イズミに触れたいと思った。
 驚いたのはイズミも同じだったようで、ユウとイズミは揉みあいをやめ、ソラに視線を落とした。
 「……ソラ?」
 ユウが、なにかを恐れるみたいにそっと、ソラを呼んだ。この人も拒絶を恐れているのだ、と、ソラはようやく理解した。院長とかいうひとからの拒絶が怖くて、拒絶されたら自分が壊れてしまうと思い込んで、それで自分を絶対に拒絶しない存在に逃げ込んだ。それがかつてのイズミで、今のソラだ。イズミの言う通り、このひともまた、歪んでいる。そして、そこまで理解してまだ、ユウを思い切れないソラだってまた、歪んでいる。ユウから逃れることもできず、どうしようもなく、この部屋を訪れてしまったイズミだって。
 「どこが、お勧めですか。」
 ぽつん、と、イズミにしがみついたまま、ソラは訊いた。唐突な問いだったけれど、一拍の間の後、イズミは当たり前みたいな声を作って答えてくれた。
 「中華屋。やる気があるなら独立できるようになるまで面倒見るって言ってた。」
 そっか、と、ソラは呟く。中華屋で働く自分も、独立して店を持つ自分も、全然想像できなかった。だってソラは、ようやく漢字練習帳の五冊目を終えたばかりなのだ。
 
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない

すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。 実の親子による禁断の関係です。

処理中です...