鯉のいない池のほとりで

美里

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俺はしばらく、その男のひとを眺めていた。なにをしているんだろう、と単純に好奇心に駆られたのだ。あんなに頻りに餌をばらまいているのだから、そこに鯉がいないことくらいもう気付いているだろうに、そのひとはせっせと餌をまき続ける。
 ポケットの中のカッターナイフを握ったまま、多分5分くらいそうしていた。なんの予備動作もなく急に男のひとが振り向いたので、俺はびくりとして身をすくめた。随分と寒い夜なのに、そのひとは薄手のシャツ一枚きりしか着ていなくて、それもなんだか異質な感じがした。
 「ホームレス狩り?」
 男のひとは、俺のポケットの中を見透かすみたいな目をしてそう言った。そこにカッターナイフが入っていることを、俺がここに来る前から知っていたみたいな落ち着きようだった。
 俺は、カッターナイフに張り付いていた右手をじりじりと引きはがし、首を横に振った。
 「……ホームレス、なんですか?」
 随分清潔そうな顔をした、けれどいやに薄着で行動も変わっているその人は、ちょっと笑って首を傾げた。
 「似たようなもんかな。」
 「……似たような?」
 「家はあるけど、あんま帰ってないし。」
 男の人はそこで言葉を切って、俺の目を軽く覗き込んだ。池のほとりから俺が座っているベンチまでは数歩の距離があるのに、間近で目を覗かれたみたいな気がして、俺は少し仰け反った。
 「きみ、家ないの?」
 男のひとの問いかけは端的だった。俺は少し迷った後、首を縦に振った。俺にも家はある。母さんがいる家が。ただ、もう帰る気が無いと言う意味では、家はないのと一緒だった。
 そう、と呟いたそのひとは、ジーンズのポケットに両手をねじ込み、少し身をかがめるような歩き方で俺の目の前へとやってきた。俺は、とっさにポケットの中でカッターナイフを握りしめた。するとそのひとは笑って、刺さないでよ、と言った。なんで俺が刃物を持っていると分かっているのかが不思議だったけれど、俺にはその人を刺す気はなければ刺せる度胸もない。そろそろとポケットから手を出して、敵意はないと示すみたいに膝の上に置いた。
 「うち、使ってもいいよ。どうせ俺、あんま帰らないし。」
 そのひとは、どうでもよさそうにそう言った。煙草の煙でも吐き出すみたいに、何気ない口調だった。だから俺は、その言葉の意味を取ることができず、ぽかんとした。するとそのひとは、やっぱりどうでもよさそうに、寒いじゃない、最近、と言った。俺は、ぼうっとしたままただ頷いた。最近寒い。それには同意できたから。
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