煙草の煙

美里

文字の大きさ
上 下
16 / 20

しおりを挟む
 あの女のひとと、子どもを育てろよ。
 それが、兄貴に向けた、最後の台詞になるのだろうと思った。もうこれ以上、兄貴とはいられない。俺は、兄貴に抱かれるためだけに、週に二回兄貴の家に通うようにはなりたくなかった。絶対に。
 俺は、床に散らばった衣類を拾い集め、身に着けた。とにかく、急いで。自分の気が変わるのが、怖くて。
 早く、瑞樹ちゃんに会いたかった。瑞樹ちゃんには、ここであったことをなにも話せないにしても、それどころか嘘をつくしかないにしても、それでも会いたかった。瑞樹ちゃんは、瑞樹ちゃんだけは、俺の正気を担保してくれるような気がして。
 兄貴は大急ぎで服を着る俺を、ガラス玉みたいに感情が無い瞳で眺めていた。床に転がって、煙草をくわえたままで。そして、俺が服を着終え、そのままの勢いで部屋を出ようとすると、待てよ、と、呼び止めてきたのだ。
 俺は、振り向かなかったし、足も止めなかった。沓脱ぎに降りて、スニーカーを引っかけ、玄関のドアを開けようとした。そんな俺を、兄貴はたった一言で引き留めた。
 「瑞樹ちゃん。」
 ただ、ひとこと。淡々と呼ばれた、俺にとって一番近しい人の名前。足を止めないわけにはいかなかった。
 大体昔から、俺と兄貴と瑞樹ちゃんの三人暮らしにおいて、俺は蚊帳の外に置かれることが多かった。俺と兄貴は、二つしか年が離れていないのに、なぜだかそこに、大人と子供の線引きがあるみたいに、兄貴と瑞樹ちゃんの間には通じていて、俺には全く通じない話は多かった。母さんの駆け落ち相手についてや、父さんの闇金相手の借金についても、俺にはつい最近になるまで話されていなかった。だから、兄貴が口にした、瑞樹ちゃん、の一言は重かった。兄貴には、俺の知らない瑞樹ちゃん像がある。俺が、知りたくても知れない瑞樹ちゃん像が。
 「なんだよ。」
 声は、少し震えた。これ以上、傷つきたくなかった。正確には、これ以上、兄貴に傷つけられたくなかった。
 兄貴は、煙草をくわえたままの聞き取りずらい声で、淡々と言った。
 「今は、お前と寝てる?」
 兄貴がなにを言っているのか、理解が追い付かなかった。
 瑞樹ちゃん、と、今は、と、お前と、と、寝てる、と、単語がふわふわ脳の中を浮遊していた。
 無言の間が、多分数分は続いた。俺はなにも言えなかったし、兄貴はなにも言わなかった。
 
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

腐違い貴婦人会に出席したら、今何故か騎士団長の妻をしてます…

BL / 連載中 24h.ポイント:29,523pt お気に入り:2,236

イケメン司祭の白濁液を飲む儀式が行われる国

恋愛 / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:12

イバラの鎖

BL / 連載中 24h.ポイント:1,428pt お気に入り:217

出来損ない王女(5歳)が、問題児部隊の隊長に就任しました

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:99pt お気に入り:1,869

キツネの里帰り。

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:3

聖女として転生したけど俺、男(仮称)

BL / 連載中 24h.ポイント:35pt お気に入り:26

自己中大柄攻め×引っ込み思案小柄受けの江戸時代BL(仮称)

BL / 連載中 24h.ポイント:305pt お気に入り:8

選ばれることのない僕は愛される事を夢見る

BL / 完結 24h.ポイント:56pt お気に入り:97

処理中です...