水面に月

美里

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 結局彬は、おっさんの家に世話になることにした。帰れなかったからだ。健吾のいる部屋には。
 「こっから先は、入らないから。」
 おっさんが、寝室のドアを指して、半分冗談みたいな口調で言った。でもその目が完全に本気の色をしているから、彬は黙って頷くだけでなにも言えなかった。
 おっさんの家は、リビングと寝室の二部屋。どちらも広くて、モデルルームみたいに生活感がない。きちんと掃除している、というよりは、あまり家にいないのかもしれない。実際おっさんの仕事は、朝早くて夜遅かった。かなり無理して彬との時間を捻出していたのではないか、と悟らせるには十分なくらい。
 一日目の夜、晩飯は焼肉を食いに行った。おっさんも彬も料理ができない。いつも外食なんだよなー、と、おっさんは苦笑していた。彬は、健吾が作るチャーハンを思い出して、一瞬強く目を閉じた。
 はじめにおっさんに声をかけられたとき、食いに行ったのも焼肉だったな、と、ぼんやり思ったが、店は違った。彬の家からほど近い繁華街にあった焼肉店ではなく、おっさんの家から徒歩3分にある焼肉店。彬はほとんど肉を食わず、泥酔するまで酒を飲んだ。
 「飲みすぎだろ。」
 向かい側に座って、こちらもさほど肉は食わずにビールばかり飲んでいるおっさんが呆れたように言った。
 「ほっとけよ。」
 吐き捨てた彬は、ハイボールを飲み干した。
 「自棄酒とか、今の若い子もすんのね。」
 ふざけたように言ったおっさんに肩を支えられながら、マンションに戻った。その間ずっと、彬のスマホは震えていた。確認しなくても、相手は分かっていた。そもそも健吾以外、彬に連絡してくるような人間はいないのだ。
 「手がかかる子ね。」
 玄関の沓脱で、おっさんは軽く身をかがめて彬にキスをしようとした。そして、一秒の沈黙の後、思い直したように身体を起こし、もたもたスニーカーを脱ぐ彬の腕を支えて待っていてくれた。
 しないのか。
 彬はアルコールの煙がかかったみたいな脳味噌でそう思って、おっさんの顔を見た。おっさんは、いつもの、割合どうでもよさそうな顔をしていた。それがなんだか、妙に申し訳なくなった。このひとが、これ以上ない真剣な顔をできると知ってしまったからだろう。掴まれた腕を起点に身体を捻り、軽く背伸びしておっさんの唇をふさぐ。ビールの匂いがした。
 おっさんは、表情を変えなかった。
 酔っ払い、と軽い口調で彬の頭を叩き、ソファに座らせて水を持ってきてくれただけで。
 また、この人を傷つけた。彬は、どうしていいのか分からなくなって、手渡されたグラスの水を飲み干した。
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