水面に月

美里

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 健吾が彬のバイト先にやってきたのは、翌週の水曜日だった。彬は店のドアベルの音で客がやってきたことを認識し、張り付いた営業スマイルでそちらを振り向いた。するとそこには、嫌になるほど見慣れた人影が立っていた。
 「……いらっしゃいませ。」
 絞り出した台詞はほとんど意地で、健吾はそれを聞いて、悲しそうに笑った。昔から、彬が無意識に自分を粗末にすると、健吾はそんな顔をした。
 「おひとりさまですか?」
 「……彬、」
 「こちらのお席にどうぞ。」
 店内は、がらがらに空いていた。午後五時半。彬はどうしていいのか分からないまま、健吾を空席に通した。
 お冷、持っていかないと。
 ぎりぎり保った平常心でそう考え、背を向けると、手首を掴まれた。彬よりずっと高い、健吾の体温。
 「彬。」
 今度は、さっきよりはっきりと。
 「……仕事中だから。」
 声を落として、なんとかそれだけ呟く。すると健吾は、待ってる、と言った。
 「上がり、何時? 俺、待ってるから。」
 言葉が出なかった。上がりは30分後だ。でも、それを口に出すことができない。頼むから、帰ってくれ。念じながら、振り返る。帰ってくれ、と頼むために。すると、そのときまたドアベルがからからと鳴った。
 「いらっしゃいませ。」
 反射で出た言葉。慌てて健吾の手を振り払い、ドアに向き直ると、入ってきたのはこれまた見覚えのあるおっさんだった。仕事が早く終わったから、そのまま飯に行こうと彬の上がり時間を見計らってきたのだろう。
 混乱した彬は、ロボットみたいにぎこちない動作で、健吾とおっさんにお冷を提供した。おっさんはいつも通り、メニューも見ずに、珈琲、と言ったっきりだったけれど、健吾は違った。
 「あのひと、だよな?」
 質問というよりは、確認の口調。彬はなにも言えず、店員の笑顔を張り付けたまま、黙って店の奥に引っ込もうとした。けれど、健吾がまた彬の手首を掴んでそれを阻止した。
 「今、あのひとのところにいるの?」
 これもまた、確認の口調。
 おっさんが、こちらの様子を窺うようなそぶりを見せた後、手を上げて彬に合図した。追加の注文でもあるような動作だが、おっさんがここで珈琲以外のものを注文したことはない。
 「……離せ。仕事中。」
 ぼそりと言葉を落とせば、健吾は一瞬の躊躇いの後手を離した。分かってる。ここで強引になれる健吾じゃない。彬の迷惑も顧みず、店の外に引きずりだしたりなんか健吾はしない。絶対に。
 
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