道行ごっこ

美里

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 いつもの温泉街の、いつもの旅館、いつもの部屋で、草平は左手の爪を切っている。深爪だろ、と言いたくなる深さまで、銀入りの爪切りで、淡々と。爪切りは、草平は持参してきたものだ。俺の小ぶりなバックパックの倍はありそうな大仰な黒いキャリーケースに入れて、からからと。
 ぱつん、ぱつん、と、爪を切る音が、静かな部屋に響く。これから草平は、キャリーケースから爪鑢を出して、丹念に爪をやするのだろう。俺はその様子を、見ていたくはなかった。なんだかそれが、草平の神経質さやかたくなさを、そのまま表す光景のようで。
 俺は、中居さんに運んできてもらった徳利の酒を手酌で飲みながら、草平の横顔を眺めていた。学生時代より、眉のあたりが険しくなり、頬が少し痩せた。10年近い年月が経つのだ。俺だって、自分では気が付いていないだけで、あの頃とはずいぶん変わっているのだろう。そう、例えばあの頃、俺は進んで酒なんか飲まなかった。新卒で勤めた会社を辞めて、ゲイバーで働くようになってからだ、こんなふうに酒を飲むようになったのは。
 草平が爪を切り終わり、神経質な仕草で爪に鑢をかけ始める。
 「……深爪すると後で痛くないの。」
 「慣れてる。」
 何気なくかけた言葉への草平の返事は、なんだか心がいたくなるようなもので、俺は彼に声なんかかけたことを後悔する。
 なんで俺は、ここでじっと、草平の爪切りなんかを眺めていないといけないんだろう。せっかく温泉に来たんだから、さっさとひとりでお湯につかってくればよかった。それか、いくらか寂れてはいるが、そこかしこにまだ風情が残る温泉街を散策してきたっていい。
 そう考えるのは確かなのに、俺の身体は木製の立派な机の前から動かない。窓の近くに座って爪を切る草平から、視線をはがすことさえできない。
 いやだな、と思う。いつも俺は、こんなふうに、嫌だな、と思いながら、後悔を繰り返しながら、それでも草平を眺めてばかりいたような気がした。だから草平本人に、俺の好意はあっさりばれてしまったのだろう。
 『あんた、俺のこと好きなの?』
 草平が、なにか退屈しのぎの遊びみたいにそう訊いてきたのは、大学に入学して、草平と知り合い、半年もたたない内だった。俺自身がまだ、草平への感情に名前を付けることを恐れて縮こまっていたころ。それなのに草平は、休講の知らせをうっかり読み飛ばした迂闊な生徒が数人いるだけの大教室で、平然と俺を見ていた。
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