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第六章 パリ
64. さいごの言葉
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その四月、オペラ座バレエはイギリス国営放送BBCに招待された。
ダンスが、初めてテレビというものを通して、放映されることになったのだった。そのことをロモラに知らせると、夫妻は汽車でロンドンにやってきて、リハーサルを見学してくれることになった。
来年には、メモリアル公演で会えると思っていたが、一年も早く会えることになったのだ。汽車で旅行できるくらいニジンスキーの健康はよくなっているようだった。
駅まで迎えに行ったバレエ団職員によると、ニジンスキーは若くて、身体はひきしまり、カリスマ的な雰囲気があったと言った。ぼく達は翌日の本番が終わったら、「アルカディア」の打ち合せをし、ともに食事をすることになっていたので、考えるだけで心が踊り、楽しみでならなかった。明日、また兄さんに会えるのだ!
ところが、その夜、ニジンスキーがホテルで体調を崩したという知らせがあった。ぼくは汽車の旅が無理だったのかと思い、急いで駆けつけたのだが、その時には、もう息が絶えていた。
まさか。
ロンドンまで来て、明日は会えるというのに、そのまま帰らぬ人になるなんて、誰が思っただろうか。
これが現実なはずがない。
ぼくの心臓は固くなり、何も考えられなかった。 ぼくは死刑宣告をうけたこともあったし、日々に大舞台にも立っている。人生波乱の経験は少なくない。それなのに、彼の死を前にして、経験がなにひとつ役に立たないのだ。落ち着け落ち着けと言い聞かせても、不安と悲しみが居座り、ぼくは棒立ち状態なのだった。
ここまで頑張ってきた人が、こんなにあっさりと、動きを止めてしまうものだろうか。
ぼくは悪夢の中にいるのだから、早く覚めなくてはともがいたが、虫を潰したような壁のシミとか、電球のクモの糸とか、看護婦の首の皺が夢にしてはあまりにリアルで、これは現実以外の何ものでもなかった。
一九五十年四月八日、天才ダンサー、ニジンスキーは死んでしまった。
なんということだ。
わざわざぼくに会いにきてくれて、彼は逝ってしまった。
先月、六十歳の誕生日を迎えたところだった。彼を看取った医師の話では、彼の腎臓が、突然、動き止めてしまったのだという。インスリン治療が原因なのかどうかはわからないが、全く関係がないことはないだろう。彼の身体は、すっかり疲れてしまっていたのだ。
夫がもう息をすることをやめたというのに、ロモラは諦めず、ありとあらゆる場所、スイス、ドイツ、アメリカの医師に電話をかけまくり、何とか命を取り戻そうと必死の形相だった。
「今、すぐに来てください。なんとか、してください」
と叫んでいた。
そのすさまじさに、ぼくはある種の感動を覚えていた。ロモラはこんなにも、彼を愛している。彼を必要としているのだと思った。
ぼくは生涯でニジンスキーとは二度会った。一度は短い会話、もう一度は短い時間でも彼とともに踊った。それに、電話では会話をしたけれど、まだ彼の心にはまだ触れられてはいなかった。
ぼくには尋ねたいいことがたくさんあった。見てほしいものも、訊いてほしいこともたくさんあった。
あの「牧神の午後」や「春の祭典」の振付のことも。
でも、今までのことはぼく達がつながるための助走で、あともう少しというところまできていた。ぼく達は同じキエフの出身で、同じバレエ団に所属したプリンシパルダンサーだ。ふたりだけが知っている景色があるはずだ。そんなことを語り合える一夜、たとえば、キエフのちょっとした風景や、日常、そんななんでもないことで通じ合い、笑い合えるはずだった。
しかし、そんな日が来ることはもうないのだ。哀しい瞳の人は、逝ってしまった。彼の人生を思うと、ぼくは悔しくてならない。若い日の微妙な躓きが、次々と不幸を誘っていった。彼はがんばったのに、挽回するチャンスは与えられなかった。
葬式の準備をしている時、ロモラがぼくのところにやって来た。
「死ぬ直前に、彼は私の名前を呼んだわ」
そうなのか。
ニジンスキーが最後に名前を呼んだのはロモラだったのか。長い間尽くしてくれた妻のことを、そんなに頼りにしていた。ふたりは歳を重ねて、信頼し合う夫婦になったのだろう。過去にどんな修羅場があっても、乗り越えた夫婦がここにいたと思った。
「彼は最後に、ロモラさんの名前を呼んだのですね。それはよかった」
「ええ、ママーシャと呼んだのです」
ロモラが誇ったように答えた。
その瞬間、ぼくの頭も顔も凍った。
ママ―シャとはロシア語で「母さん」という意味なのだ。
「ママ―シャ?」
とぼくが呟いた。
ロモラは目を瞬いて、
「それって、私のことよね」
とぼくの顔を伺った。
ニジンスキーは、母親がすでに亡くなっていることを知らされていなかった。ロモラが衝撃を与えないためにその話題は避けていたし、彼も母親については何も質問したことがなかったという。
ぼくはロモラの視線を避けて、何も言わなかった。
考えていくと、頭の中で、疑問のパズルが埋まっていった。
ぼくが最初に会いに行った時、ニジンスキーは家族や国については、無表情で、何も言わなかった。つい最近、「アルカディアの牧人」のダンスに、ニジンスカ先生が参加するかもしれないと言った時も、そこには奇妙な沈黙があった。
たぶん、彼は国に帰ることを断念させられ、精神病院に幽閉された時、叫べば叫ぶほど気違い扱いされる中で、祖国や家族のことには触れるまいと決めて、心を閉めたに違いない。
ママ―シャがロモラのことだって。
いいや、そんなはずがないじゃないか。きみの名前なんか、呼んではいない。彼はさいごに、母さんを呼んだんじゃないか。ああ、どんなに会いたかったことだろう。
ダンスが、初めてテレビというものを通して、放映されることになったのだった。そのことをロモラに知らせると、夫妻は汽車でロンドンにやってきて、リハーサルを見学してくれることになった。
来年には、メモリアル公演で会えると思っていたが、一年も早く会えることになったのだ。汽車で旅行できるくらいニジンスキーの健康はよくなっているようだった。
駅まで迎えに行ったバレエ団職員によると、ニジンスキーは若くて、身体はひきしまり、カリスマ的な雰囲気があったと言った。ぼく達は翌日の本番が終わったら、「アルカディア」の打ち合せをし、ともに食事をすることになっていたので、考えるだけで心が踊り、楽しみでならなかった。明日、また兄さんに会えるのだ!
ところが、その夜、ニジンスキーがホテルで体調を崩したという知らせがあった。ぼくは汽車の旅が無理だったのかと思い、急いで駆けつけたのだが、その時には、もう息が絶えていた。
まさか。
ロンドンまで来て、明日は会えるというのに、そのまま帰らぬ人になるなんて、誰が思っただろうか。
これが現実なはずがない。
ぼくの心臓は固くなり、何も考えられなかった。 ぼくは死刑宣告をうけたこともあったし、日々に大舞台にも立っている。人生波乱の経験は少なくない。それなのに、彼の死を前にして、経験がなにひとつ役に立たないのだ。落ち着け落ち着けと言い聞かせても、不安と悲しみが居座り、ぼくは棒立ち状態なのだった。
ここまで頑張ってきた人が、こんなにあっさりと、動きを止めてしまうものだろうか。
ぼくは悪夢の中にいるのだから、早く覚めなくてはともがいたが、虫を潰したような壁のシミとか、電球のクモの糸とか、看護婦の首の皺が夢にしてはあまりにリアルで、これは現実以外の何ものでもなかった。
一九五十年四月八日、天才ダンサー、ニジンスキーは死んでしまった。
なんということだ。
わざわざぼくに会いにきてくれて、彼は逝ってしまった。
先月、六十歳の誕生日を迎えたところだった。彼を看取った医師の話では、彼の腎臓が、突然、動き止めてしまったのだという。インスリン治療が原因なのかどうかはわからないが、全く関係がないことはないだろう。彼の身体は、すっかり疲れてしまっていたのだ。
夫がもう息をすることをやめたというのに、ロモラは諦めず、ありとあらゆる場所、スイス、ドイツ、アメリカの医師に電話をかけまくり、何とか命を取り戻そうと必死の形相だった。
「今、すぐに来てください。なんとか、してください」
と叫んでいた。
そのすさまじさに、ぼくはある種の感動を覚えていた。ロモラはこんなにも、彼を愛している。彼を必要としているのだと思った。
ぼくは生涯でニジンスキーとは二度会った。一度は短い会話、もう一度は短い時間でも彼とともに踊った。それに、電話では会話をしたけれど、まだ彼の心にはまだ触れられてはいなかった。
ぼくには尋ねたいいことがたくさんあった。見てほしいものも、訊いてほしいこともたくさんあった。
あの「牧神の午後」や「春の祭典」の振付のことも。
でも、今までのことはぼく達がつながるための助走で、あともう少しというところまできていた。ぼく達は同じキエフの出身で、同じバレエ団に所属したプリンシパルダンサーだ。ふたりだけが知っている景色があるはずだ。そんなことを語り合える一夜、たとえば、キエフのちょっとした風景や、日常、そんななんでもないことで通じ合い、笑い合えるはずだった。
しかし、そんな日が来ることはもうないのだ。哀しい瞳の人は、逝ってしまった。彼の人生を思うと、ぼくは悔しくてならない。若い日の微妙な躓きが、次々と不幸を誘っていった。彼はがんばったのに、挽回するチャンスは与えられなかった。
葬式の準備をしている時、ロモラがぼくのところにやって来た。
「死ぬ直前に、彼は私の名前を呼んだわ」
そうなのか。
ニジンスキーが最後に名前を呼んだのはロモラだったのか。長い間尽くしてくれた妻のことを、そんなに頼りにしていた。ふたりは歳を重ねて、信頼し合う夫婦になったのだろう。過去にどんな修羅場があっても、乗り越えた夫婦がここにいたと思った。
「彼は最後に、ロモラさんの名前を呼んだのですね。それはよかった」
「ええ、ママーシャと呼んだのです」
ロモラが誇ったように答えた。
その瞬間、ぼくの頭も顔も凍った。
ママ―シャとはロシア語で「母さん」という意味なのだ。
「ママ―シャ?」
とぼくが呟いた。
ロモラは目を瞬いて、
「それって、私のことよね」
とぼくの顔を伺った。
ニジンスキーは、母親がすでに亡くなっていることを知らされていなかった。ロモラが衝撃を与えないためにその話題は避けていたし、彼も母親については何も質問したことがなかったという。
ぼくはロモラの視線を避けて、何も言わなかった。
考えていくと、頭の中で、疑問のパズルが埋まっていった。
ぼくが最初に会いに行った時、ニジンスキーは家族や国については、無表情で、何も言わなかった。つい最近、「アルカディアの牧人」のダンスに、ニジンスカ先生が参加するかもしれないと言った時も、そこには奇妙な沈黙があった。
たぶん、彼は国に帰ることを断念させられ、精神病院に幽閉された時、叫べば叫ぶほど気違い扱いされる中で、祖国や家族のことには触れるまいと決めて、心を閉めたに違いない。
ママ―シャがロモラのことだって。
いいや、そんなはずがないじゃないか。きみの名前なんか、呼んではいない。彼はさいごに、母さんを呼んだんじゃないか。ああ、どんなに会いたかったことだろう。
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