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第六章 パリ
65. ニジンスキーの墓
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バリに戻ったぼくはいつものように毎日、オペラ座に通った。
企画や振付を考え、ダンサー達を指導し、ヴェストリスのプロジェクトを組みなおした。ぼくは動いていなければ、悲しみと虚しさで溺れそうになっていた。ぼくは空いた時間の使い方を知らない。
ニジンスキーとキリルがこの世からいなくなっても、人類にしてみれば、たったふたりの人がいなくなっただけだ。しかし、ぼくの世界では、このふたりが、半分以上を占めていた。
深夜、ひとり舞台の上に座ると、シャンデリアが輝いていた。ぼくの中を耐えがたく虚しい感情が走る。ぼくは幸運の女神に愛されたと思い、それに報いるために努力を重ねてきたつもりだったけれど、その女神は顔では微笑みながら、こういう運命を用意していたのだ。
人はぼくの傷の深さを知らないから、普通に挨拶して通りすぎる。そうさ、それはそれでよいのだ。それが世の流れだ。ぼくだって、人の悲しみを自分の悲しみにとして受けためたことが何度あっただろうか。人はそうやって、歩み続ける。
ある日、若い新聞記者がやって来て、「最近、ニジンスキーというダンサーが他界したそうですが、彼のことを知っていますか」と訊いた。知らないわけがないではないかと思いながら、いや、そういう時代になったのだと思った。名声というものは、こうやって消えていくのだ。
記者はニジンスキーの死に対して、ぼくのコメントがほしいのだという。
「ニジンスキーは二十世紀の偉大なダンサーでキエフ出身」と語りながら、ぼくの目にはキエフの町が見えた。そうなのだ、ニジンスキーはママ―シャのいるあそこに帰りたかったはずだ。
ニジンスキーの死後間もなく、ロモラは「ニジンスキーの晩年」という英語本を出版した。キリルがいないから、ぼくはひとりで読まねばならなかった。
戦争中、ふたりがオーストリア国境に近いハンガリーの町に疎開していた時のことが、書かれていた。ロモラが病気になったことがあったが、その時、ニジンスキーは心配してくれた。初めて、心が通じ合うようになったのだった。
ロシア兵が侵入してきた時、彼は兵隊たちと会話をしたり、飲んだり、ウクライナ伝統のコサックダンスを踊ったりするまでになったのだった。奇跡的に回復したのだった。
ロモラが書いている。
「もしあの時、彼を精神病院にいれなかったら、もしあの時、彼の祖国に連れて帰ったら、彼は病気にはならなかっただろう。無知のために、我々は最悪のことをしてしまった。我々は彼を監禁し、独房にいれて、彼を世界から遠ざけてしまった。そのことが、今、私にはわかった。そのことで、私は自分を許すことができない」
なんだって。
そんなことが、今、わかったのか。
身体中に隠れていた怒りが、我先にと脳に向かって血管の中を爆走し、ぼくは本を床に叩きつけた。
ぼくとキリルはとうの昔に、そんなことはわかっていた。この独占欲の強い狭量な人間のせいで、彼の人生は破綻してしまったのだ。
ぼくは家にいたら部屋のものを壊してしまいそうで、外に駆け出し出た。それでも、怒りはなかなか収まらず、クリスタルのグラスを握り潰しても、痛くはないさえと思った。
ニジンスキーは英国のアランデルの村に埋葬されていた。ぼくは彼をキエフに連れて帰りたかったが、国から許可が下りるかどうかは別として、まずロモラが同意するはずがなかった。
ロモラ達はアランデルには移ったばかりで、彼女自身、ひとりではそこに住むつもりはなかった。だから、ぼくがパリに埋葬してはどうかと話すと、ロモラは喜んで受け入れた。彼女も、住み慣れたパリに移りたいと思っていたのだった。けれど、ニジンスキーはロシア人で、無国籍、ロモラはハンガリー籍。そして、彼が亡くなったのはイギリスなので、フランスに埋葬するのには特別の許可で必要だった。
ぼくは弁護士を雇って、役所に申請した。ニジンスキーは文化人としてパリには貢献度が高いということで、三年もかかったが、その許可がついに下りた。
ニジンスキーはパリのモンマルトル墓地に埋葬されることになった。あのオーギュスト・ヴェストリスの隣りである。
ぼくはヴェストリスの墓はメモリアルの募金で買われたが、その横に、ぼくは自費で、ふたつの墓地を購入していたのだ。そのひとつをニジンスキーに提供した。
もうひとつの墓地は、ロモラは彼女自身のものだと思っていた。
しかし、ぼくは、そこはぼくのためのものだと言った。ぼくは死んだら、兄と慕うニジンスキーの隣りにはいると決めていたのだ。
ロモラは夫の隣りには妻がはいるのが当然だから、その墓地を譲ってほしいとしつこく言ってきたが、そのたびにぼくはきっぱりと断った。なぜ夫のために人生を捧げた妻がそばにはいれないのか、彼女は理解ができないと言った。
ロモラはこの墓地の権利をめぐって、裁判を起こしたが、もちろん、認められなかった。あそこはぼくが正規に手にいれた墓地なのだから、誰も奪うことはできないのだ。しかしロモラは一度拒否されたくらいでは引き下がりはしない。諦めず、また控訴をした。
キエフのある団体から「ペトルーシュカ」の銅像が送られてきて、ニジンスキーの墓の上に置かれた。ベルルーシュかは頬に手をあて、悲しそうな顔をしている。彼の「ペトルーシュカ」を知らない人がこれを見たら、この墓の人はこんな奇妙な猿顔のピエロだったのかと思うかもしれない。
その顔は、彼とは似ていない。ニジンスキーはもっと美しい人だった。
ロモラは裁判所が取り上げてくれないから訴えることは諦めたが、今度は、毎月のように墓地を譲れという電話をかけてきた。これが彼女の性格だとぼくはよく知っていた。ほしいものを手にいれるまで、執拗に、食い下がる。そうやって。何でも手にいれた。でも、ぼくの決心は固い。
企画や振付を考え、ダンサー達を指導し、ヴェストリスのプロジェクトを組みなおした。ぼくは動いていなければ、悲しみと虚しさで溺れそうになっていた。ぼくは空いた時間の使い方を知らない。
ニジンスキーとキリルがこの世からいなくなっても、人類にしてみれば、たったふたりの人がいなくなっただけだ。しかし、ぼくの世界では、このふたりが、半分以上を占めていた。
深夜、ひとり舞台の上に座ると、シャンデリアが輝いていた。ぼくの中を耐えがたく虚しい感情が走る。ぼくは幸運の女神に愛されたと思い、それに報いるために努力を重ねてきたつもりだったけれど、その女神は顔では微笑みながら、こういう運命を用意していたのだ。
人はぼくの傷の深さを知らないから、普通に挨拶して通りすぎる。そうさ、それはそれでよいのだ。それが世の流れだ。ぼくだって、人の悲しみを自分の悲しみにとして受けためたことが何度あっただろうか。人はそうやって、歩み続ける。
ある日、若い新聞記者がやって来て、「最近、ニジンスキーというダンサーが他界したそうですが、彼のことを知っていますか」と訊いた。知らないわけがないではないかと思いながら、いや、そういう時代になったのだと思った。名声というものは、こうやって消えていくのだ。
記者はニジンスキーの死に対して、ぼくのコメントがほしいのだという。
「ニジンスキーは二十世紀の偉大なダンサーでキエフ出身」と語りながら、ぼくの目にはキエフの町が見えた。そうなのだ、ニジンスキーはママ―シャのいるあそこに帰りたかったはずだ。
ニジンスキーの死後間もなく、ロモラは「ニジンスキーの晩年」という英語本を出版した。キリルがいないから、ぼくはひとりで読まねばならなかった。
戦争中、ふたりがオーストリア国境に近いハンガリーの町に疎開していた時のことが、書かれていた。ロモラが病気になったことがあったが、その時、ニジンスキーは心配してくれた。初めて、心が通じ合うようになったのだった。
ロシア兵が侵入してきた時、彼は兵隊たちと会話をしたり、飲んだり、ウクライナ伝統のコサックダンスを踊ったりするまでになったのだった。奇跡的に回復したのだった。
ロモラが書いている。
「もしあの時、彼を精神病院にいれなかったら、もしあの時、彼の祖国に連れて帰ったら、彼は病気にはならなかっただろう。無知のために、我々は最悪のことをしてしまった。我々は彼を監禁し、独房にいれて、彼を世界から遠ざけてしまった。そのことが、今、私にはわかった。そのことで、私は自分を許すことができない」
なんだって。
そんなことが、今、わかったのか。
身体中に隠れていた怒りが、我先にと脳に向かって血管の中を爆走し、ぼくは本を床に叩きつけた。
ぼくとキリルはとうの昔に、そんなことはわかっていた。この独占欲の強い狭量な人間のせいで、彼の人生は破綻してしまったのだ。
ぼくは家にいたら部屋のものを壊してしまいそうで、外に駆け出し出た。それでも、怒りはなかなか収まらず、クリスタルのグラスを握り潰しても、痛くはないさえと思った。
ニジンスキーは英国のアランデルの村に埋葬されていた。ぼくは彼をキエフに連れて帰りたかったが、国から許可が下りるかどうかは別として、まずロモラが同意するはずがなかった。
ロモラ達はアランデルには移ったばかりで、彼女自身、ひとりではそこに住むつもりはなかった。だから、ぼくがパリに埋葬してはどうかと話すと、ロモラは喜んで受け入れた。彼女も、住み慣れたパリに移りたいと思っていたのだった。けれど、ニジンスキーはロシア人で、無国籍、ロモラはハンガリー籍。そして、彼が亡くなったのはイギリスなので、フランスに埋葬するのには特別の許可で必要だった。
ぼくは弁護士を雇って、役所に申請した。ニジンスキーは文化人としてパリには貢献度が高いということで、三年もかかったが、その許可がついに下りた。
ニジンスキーはパリのモンマルトル墓地に埋葬されることになった。あのオーギュスト・ヴェストリスの隣りである。
ぼくはヴェストリスの墓はメモリアルの募金で買われたが、その横に、ぼくは自費で、ふたつの墓地を購入していたのだ。そのひとつをニジンスキーに提供した。
もうひとつの墓地は、ロモラは彼女自身のものだと思っていた。
しかし、ぼくは、そこはぼくのためのものだと言った。ぼくは死んだら、兄と慕うニジンスキーの隣りにはいると決めていたのだ。
ロモラは夫の隣りには妻がはいるのが当然だから、その墓地を譲ってほしいとしつこく言ってきたが、そのたびにぼくはきっぱりと断った。なぜ夫のために人生を捧げた妻がそばにはいれないのか、彼女は理解ができないと言った。
ロモラはこの墓地の権利をめぐって、裁判を起こしたが、もちろん、認められなかった。あそこはぼくが正規に手にいれた墓地なのだから、誰も奪うことはできないのだ。しかしロモラは一度拒否されたくらいでは引き下がりはしない。諦めず、また控訴をした。
キエフのある団体から「ペトルーシュカ」の銅像が送られてきて、ニジンスキーの墓の上に置かれた。ベルルーシュかは頬に手をあて、悲しそうな顔をしている。彼の「ペトルーシュカ」を知らない人がこれを見たら、この墓の人はこんな奇妙な猿顔のピエロだったのかと思うかもしれない。
その顔は、彼とは似ていない。ニジンスキーはもっと美しい人だった。
ロモラは裁判所が取り上げてくれないから訴えることは諦めたが、今度は、毎月のように墓地を譲れという電話をかけてきた。これが彼女の性格だとぼくはよく知っていた。ほしいものを手にいれるまで、執拗に、食い下がる。そうやって。何でも手にいれた。でも、ぼくの決心は固い。
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