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第六章 パリ
66. リリー
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「アルカディアの牧人」については、ぼくはこんな構成を考えていた。
三人の牧人がアルカディアを目指して旅をしている。三人でのダンスが二分ほど。次にぼくのダンスが三分、ニジンスキーのダンスが二か三分、ニジンスカ先生のダンスが三分と続く。音はピアノだけ。
牧人はようやくアルカディアに着くことができて喜ぶ。しかし、そこにも「死」があることを知る。
でも、ぼくのアルカディアはそこでは終わらない。
三人の牧人は次のアルカディアを求めて、旅を続けるのだ。
けれど、ニジンスキーがいなくなってしまった今、このダンスを踊ることはない。
この一九五0年は、特に辛い年だった。
十月には、マダム・セールが亡くなった。
キリル、ニジンスキー、マダム・セール、ぼくの人生の芯になってくれた人々が、表舞台から消えていった。幕間に控えているのではなくて、完全に舞台を降りたのだ。
これまでも、さまざまな痛さを経験してきて、そのこらえ方を知っていたつもりだったが、役に立たなかった。パリの歩きなれた道を歩いていても、ふと、どこかわからなくなって立ち止まったことがあった。ぼくの無意識は、現実の苦痛から、逃げようとしているらしかった。
ぼくはセーヌのそばを歩きながら、アポリネールの「ミラボー橋」を口ずさむ。
「ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる
・・・・
日が暮れて、鐘が鳴る
時は流れ、ぼくはここにいる」
キリルがこの詩を口ずさんだ夜は、ぼく達はマダム・セールのところに向かう途中だった。美しい町のセーヌ沿い、美しい詩、気の合う友達と敬慕するマダム・セールのところに向かうのだ。ぼくは幸せを感じていたが、キリル、きみはその時も、悲しみを抱えていたのかい。ああ、今も気がついても、時間は戻らない。
ぼくがオーストリア方面にツアーに出かけるため、スウェーデンからキリアンの妹のロースマリーが来て、しばらく一緒に住んでくれることになった。
ロースマリーが到着し、ぼくがスーツケースをリリアンの部屋に運びいれようとすると、ロースマリーはゲストルームに行って、
「その部屋は、もうあなたの部屋じゃないわ。出ていきなさい」
ときびしい口調で言った。
ぼくはそれまでキリアンのゲストルームを使っていたのだが、ついにこのアパートを追い出される時が来たのかと思ったのだが、
「あなたは、今夜からあっち」
とロースマリーが笑顔で指をさした。その指がさしていたのは、キリアンの寝室だった。
「まったくね」
ロースマリーが大げさに嘆いてみせた。
「あなた方ったら、いい歳をして、何なの? 中学生だって、もっとうまくやるものよ」
ロースマリーはかなり前に離婚をして、今はストックホルムで子供のスピーチセラピストとして働いていた。
キリアンとロースマリーとは四歳違い、ロースマリーはキリルのひとつ年下だった。キリアンにとって、キリルとロースマリーは子供すぎたからあまり遊ぶということはなく、ロースマリーとキリルがいつも一緒だったという。
ロースマリーが意識的には明るくふるまい、キリルのことを語ろうとしていることにぼくは気がついていた。そうやって、キリアンを励まそうとしているのだ。
「キリルはリリーのことが大好きだったのよね」
とロースマリーが言った。
「ローズのほうが仲良しだったじゃない」
このふたりはリリー、ローズと呼び合っていた。
「キリアンはリリーと呼ばれていたのですか」
「そうなの」
キリアンが笑った。
父親がジョン・シンガー・サージェントの「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」の絵が大好きなのだった。夕暮れ時、花がいっぱいの庭で、十歳ほどの白い服を着た女の子がふたり、夢中になって提灯に火をつけようとしている。父親はこの絵から、娘の名前をつけたのだという。はじめはリリーかリリアンにしたかったのでけれど、親戚にその名前の娘がいたから、キリアンになったという。
「リリアンではなくて、カーネーションにすればよかったのよ」
ロースマリーはふふふと笑い、絵の題名のもとになっている歌を口ずさんだ。
「この道で、フローラは見かけませんでしたか。カーネーション、リリー、リリー、ローズの花の髪飾りをつけています」
「絵の中の女の子が着ているふわふわの白いドレスを着せられて、写真を撮られたわよね」
「そう。父は凝る人だったから」
「その影響で、リリーも絵が大好きになったのかしら」
ロースマリーはそう言ってから、急に何かを思い出して、「ああ」と言った。
「リリーが絵の勉強にパリに行った時、キリルは泣いていたわ。知っている?」
「キリルは羨ましがってはいたけれど、笑っていたと思ったわ。なぜ泣いたの?」
「寂しかったからじゃない。大好きなリリーがいなくなってしまったのだもの」
「あの子はとても寂しがりや。小さい時に両親を亡くして、うちに引き取られて育ったから」
とキリアンが顔を曇らせた。
キリルの母親は、彼が四歳の時に病気で亡くなり、父顔は三十二歳でこの世を去ったのだった。
「もっとやさしくしてあげればよかった」
「リリーがパリに行くまでは、キリルはエンジニアになるとか言っていたの。機械直しが得意だから。それ以外の勉強は、あまりしなかった。でも、リリーがパリに行ってしまったら、猛烈に勉強し始めて、パリの大学に行って美学を勉強するというんだもの、びっくりしちゃった」
「十代って、そういうものよ。気持ちがころころ変わるわ」
「そうかしら」
ロースマリーの話から、キリアンの二回の結婚も、ロースマリーの結婚も、父親が決めたものだとわかった。ふたりとも結婚とはそういうものと思っていたから、特に疑問をもたなかった、その時には。
だから、自分の意思で、ロースマリーは子供たちのために、キリアンは好きな絵画に囲まれて働いている今が、幸せだと思うと言った。
ぼくはキリアンのことは知りたいと思っていたけれど、結婚や離婚のことなどは尋ねたことがなかった。だから、そのあたりの事情を知ることができて、正直、うれしかった。
「セルジュ、リリーはあなたに会ってから、明るくなったわ」
とロースマリーが言った。
その一言は、いつになったら止むのかわからない長雨の中、突如として見えた青空のようだった。
三人の牧人がアルカディアを目指して旅をしている。三人でのダンスが二分ほど。次にぼくのダンスが三分、ニジンスキーのダンスが二か三分、ニジンスカ先生のダンスが三分と続く。音はピアノだけ。
牧人はようやくアルカディアに着くことができて喜ぶ。しかし、そこにも「死」があることを知る。
でも、ぼくのアルカディアはそこでは終わらない。
三人の牧人は次のアルカディアを求めて、旅を続けるのだ。
けれど、ニジンスキーがいなくなってしまった今、このダンスを踊ることはない。
この一九五0年は、特に辛い年だった。
十月には、マダム・セールが亡くなった。
キリル、ニジンスキー、マダム・セール、ぼくの人生の芯になってくれた人々が、表舞台から消えていった。幕間に控えているのではなくて、完全に舞台を降りたのだ。
これまでも、さまざまな痛さを経験してきて、そのこらえ方を知っていたつもりだったが、役に立たなかった。パリの歩きなれた道を歩いていても、ふと、どこかわからなくなって立ち止まったことがあった。ぼくの無意識は、現実の苦痛から、逃げようとしているらしかった。
ぼくはセーヌのそばを歩きながら、アポリネールの「ミラボー橋」を口ずさむ。
「ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる
・・・・
日が暮れて、鐘が鳴る
時は流れ、ぼくはここにいる」
キリルがこの詩を口ずさんだ夜は、ぼく達はマダム・セールのところに向かう途中だった。美しい町のセーヌ沿い、美しい詩、気の合う友達と敬慕するマダム・セールのところに向かうのだ。ぼくは幸せを感じていたが、キリル、きみはその時も、悲しみを抱えていたのかい。ああ、今も気がついても、時間は戻らない。
ぼくがオーストリア方面にツアーに出かけるため、スウェーデンからキリアンの妹のロースマリーが来て、しばらく一緒に住んでくれることになった。
ロースマリーが到着し、ぼくがスーツケースをリリアンの部屋に運びいれようとすると、ロースマリーはゲストルームに行って、
「その部屋は、もうあなたの部屋じゃないわ。出ていきなさい」
ときびしい口調で言った。
ぼくはそれまでキリアンのゲストルームを使っていたのだが、ついにこのアパートを追い出される時が来たのかと思ったのだが、
「あなたは、今夜からあっち」
とロースマリーが笑顔で指をさした。その指がさしていたのは、キリアンの寝室だった。
「まったくね」
ロースマリーが大げさに嘆いてみせた。
「あなた方ったら、いい歳をして、何なの? 中学生だって、もっとうまくやるものよ」
ロースマリーはかなり前に離婚をして、今はストックホルムで子供のスピーチセラピストとして働いていた。
キリアンとロースマリーとは四歳違い、ロースマリーはキリルのひとつ年下だった。キリアンにとって、キリルとロースマリーは子供すぎたからあまり遊ぶということはなく、ロースマリーとキリルがいつも一緒だったという。
ロースマリーが意識的には明るくふるまい、キリルのことを語ろうとしていることにぼくは気がついていた。そうやって、キリアンを励まそうとしているのだ。
「キリルはリリーのことが大好きだったのよね」
とロースマリーが言った。
「ローズのほうが仲良しだったじゃない」
このふたりはリリー、ローズと呼び合っていた。
「キリアンはリリーと呼ばれていたのですか」
「そうなの」
キリアンが笑った。
父親がジョン・シンガー・サージェントの「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」の絵が大好きなのだった。夕暮れ時、花がいっぱいの庭で、十歳ほどの白い服を着た女の子がふたり、夢中になって提灯に火をつけようとしている。父親はこの絵から、娘の名前をつけたのだという。はじめはリリーかリリアンにしたかったのでけれど、親戚にその名前の娘がいたから、キリアンになったという。
「リリアンではなくて、カーネーションにすればよかったのよ」
ロースマリーはふふふと笑い、絵の題名のもとになっている歌を口ずさんだ。
「この道で、フローラは見かけませんでしたか。カーネーション、リリー、リリー、ローズの花の髪飾りをつけています」
「絵の中の女の子が着ているふわふわの白いドレスを着せられて、写真を撮られたわよね」
「そう。父は凝る人だったから」
「その影響で、リリーも絵が大好きになったのかしら」
ロースマリーはそう言ってから、急に何かを思い出して、「ああ」と言った。
「リリーが絵の勉強にパリに行った時、キリルは泣いていたわ。知っている?」
「キリルは羨ましがってはいたけれど、笑っていたと思ったわ。なぜ泣いたの?」
「寂しかったからじゃない。大好きなリリーがいなくなってしまったのだもの」
「あの子はとても寂しがりや。小さい時に両親を亡くして、うちに引き取られて育ったから」
とキリアンが顔を曇らせた。
キリルの母親は、彼が四歳の時に病気で亡くなり、父顔は三十二歳でこの世を去ったのだった。
「もっとやさしくしてあげればよかった」
「リリーがパリに行くまでは、キリルはエンジニアになるとか言っていたの。機械直しが得意だから。それ以外の勉強は、あまりしなかった。でも、リリーがパリに行ってしまったら、猛烈に勉強し始めて、パリの大学に行って美学を勉強するというんだもの、びっくりしちゃった」
「十代って、そういうものよ。気持ちがころころ変わるわ」
「そうかしら」
ロースマリーの話から、キリアンの二回の結婚も、ロースマリーの結婚も、父親が決めたものだとわかった。ふたりとも結婚とはそういうものと思っていたから、特に疑問をもたなかった、その時には。
だから、自分の意思で、ロースマリーは子供たちのために、キリアンは好きな絵画に囲まれて働いている今が、幸せだと思うと言った。
ぼくはキリアンのことは知りたいと思っていたけれど、結婚や離婚のことなどは尋ねたことがなかった。だから、そのあたりの事情を知ることができて、正直、うれしかった。
「セルジュ、リリーはあなたに会ってから、明るくなったわ」
とロースマリーが言った。
その一言は、いつになったら止むのかわからない長雨の中、突如として見えた青空のようだった。
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