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第六章 パリ

67. ロースマリー

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 その日、キリアンには仕事があったので、ぼくがロースマリーを連れてキリルのお墓に行った。

 彼の墓碑の前には、先が茶色く丸まり、枯れてはいたけれど、白百合が二本置かれていた。
 この場所を知っている者は少ないから、ぼくは前にともに住んでいたクララと娘が来てくれたのだろうと言った。ロースマリーはそんなに親切にしてくれた存在を初めて知ったといい、ぜひ会って感謝したいと言った。ぼくはあの母娘のことはそっとしてやいてあげるのがよいのではないかと答えた。

 家に帰ると、ロースマリーはキリルの遺書を見せてほしいと言ったので、ぼくは書斎の箱の中から取り出して、彼女に見せた。

「やっぱりね、思った通り」
 とロースマリーが自分で頷いた。
「キリルは生きているわ」

 白百合はキリルの大好きな花だった。だから、キリルがまだ生きていて、自分の墓を訪ねたのだと思うとロースマリーは言うのだ。
 遺書の中にも、「死ぬ」とは書かれてはいない。
「キリルは水泳が得意だったから、溺れるはずがないのよ」
 いいや、そうは考えられない、とぼくは首を横に振った。


 ロースマリーはキリアンの十六歳の誕生日のことを話した。反抗期だったキリルは何かでむくれて「もう帰らない」という書置きを残して姿を消したことがあった。みんなが大騒ぎしていると、三日後に戻ってきた。

「あの時みたいに、また姿を隠しただけだわ。もう一年もたつのだから、そろそろ現れてもよい頃、あのバカが」
 とロースマリーが文句をいうみたいに言った。


「キリルが生きていたら、必ずぼくに会いにきてくると思いますよ」
「でも、ここには戻らないと思うわ」
「どうして」
「どうしてって、リリーがいるから」 
「リリーがいたら、なぜ、だめなのですか」
「リリーから叱られるもの。リリーの言葉は響くのよ」

 家出をした時も、大人たちからさんざん油を搾られたけれど、キリルには少しも堪えていないことはロースマリーにはわかっていた。それなのに、リリアンが何か言ったら、大泣きして、部屋から出てこなかった。
 いつだったかキリアンに腹をたてて、窓ガラスをたたき割ったことがあった。ガラスが手にささって、どこに刺さっているかを確認するために、医者が麻酔なしで治療を施したけれど、一言も痛いと言わなかった。

「キリルはリリアンのことになると、ムキになるのよ。恐れているというべきかしら」
「どうして」
「どうしてかしらね」
 ロースマリーは頭を左右に振り、その髪が揺れた。
 ぼくには、キリルが生きているとは考えられない。しかし、キリルが生きているかもしれないというロースマリーの言葉は、生きていてほしいと願う者の心に、小さな灯をともした。


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