第一皇子付き代筆係ですが「知り過ぎた」と殺されかけ、第二皇子のお手付きとなって生き延びました。

真黒三太

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 この空間を、四つの文字で表すならば……。
 『静謐』『威厳』の文字こそが、ぴたりと当てはまるであろう。
 西宮の一角……黒漆塗りにされた床板は、主の性格をそのまま表しているかのような色合いと艶であり、板張りでありながら、わずかに踏み込んだだけで履物の底を吸い込まれるような深さがあった。
 冷え切った空気に漂うのは、ひときわ質が良い香木を焚いた香炉の煙。
 ひと筋、白く立ちのぼるその様が、まるで余計な言葉を拒むようにたゆたっている。

 そう、この部屋において、余計な言葉は必要ない。
 ただでさえ深夜だというのに、窓という窓を閉ざし、余人に見られる心配も聞かれる心配も完全に排除した中……手であり指である娘が、己の言葉を紙に書き記していくのだ。

「余寒なお肌に沁む折、貴地のご安寧を案じて筆を取る……」

 行灯が照らす文机の前に、背筋を伸ばして正座した娘が、惚れ惚れするほど流麗な所作で筆を滑らせていく。

(顔も体も好みではないが、書く姿と書いた文字だけは美しい娘だ)

 執務机に腰かけ、書かせるべき言葉を吐き出しながら、第一皇子ゲンヨウはふとそのようなことを考えていた。

「近頃は春の兆しと共に、山道にて雪崩の報もちらほらと耳に入る。世の中、何が起こるか分からぬもの……」

 ゲンヨウの言葉を迷いなく筆へ乗せていく少女のよわいは、見た目で判じると十三か四といったところか……。
 全体的に肉付きが悪く、幼げな顔立ちをしているため、実年齢よりさらに若く見えてしまうのだ。
 黒髪を両の側頭部で団子状にし、前髪をぱつりと揃えるという髪型もまた、そのような印象を助長しているといえるだろう。
 桃色の着物に緑の袴を合わせた装いは、見目の幼さにふさわしいか。

「そういえば先日、北西の山にて紅き石を拾ったと配下の者から聞き及ぶ。美物というものは、思いもよらぬ所に潜む……」

 ――紅き石。

 その単語を聞いた娘が、印象的な黄金の瞳をぴくりと揺らめかせた。
 これを見逃すゲンヨウではない。

(よもや、暗喩に気付いたか?
 いや……こやつ――ランセツは、文字こそ恐ろしく上手いものの、そういった教養とは無縁であるはずだが?)

 香を漂わせた部屋の空気が、わずかに硬質なものとなるのを感じながら……。
 ゲンヨウは、なおも言葉を続ける。
 今は平時であり、ここは配下の兵で守られている西宮。
 銀狼の異名で知られる剣の使い手であるゲンヨウも、さすがに帯剣していない。
 だが、もしも腰に剣を下げていたのならば、そこに指を這わせていたことは間違いなく……。
 代わりに、異名の由来ともなった銀髪を指先でいじってみたが、抱いた疑念を誤魔化す役に立っていないことは、自身、よく理解していた。

「この頃、落ち葉を焚く煙の向こうには、不思議と鹿の影が見えぬと申す者もあり。
 山気は騒がしく、獣も道を違えるようですな。
 いずれ、天子の御耳にもこの話が届くでしょう。しかるべき口を通して、石を守る義人の名を奏上いたしたく存じます。
 天候不順な折、くれぐれも御身大切に」

 やや早口に……。
 残りの文面を言い終える。
 ランセツは、表情一つ変えることなく筆を動かし終えていた。

「見せい」

 通常、このような品を確認する時は、主であるゲンヨウの前へ持ってこさせるもの。
 だが、今回に関しては、物がいまだ墨の乾かぬ紙であるため、ゲンヨウ自らが立ち上がり、ランセツの背後から覗き込む形を取る。

「ふう……む」

 我知らず漏らすのは、感嘆の吐息。
 書き綴られていたのは、なんとも流麗で、心踊らされる筆跡の文字であった。
 とめもはねもはらいも、単に字としての体裁を整えるそれではなく、まるで、紙面の上で文字そのものが意思を持ち、踊っているかのよう。
 そのように生き生きとした文字たちが互いに繋がり合い、紙面を埋めたこの様は、さながら、隊列を組んだ専業兵士のごとしである。
 単なる世間話の手紙とは思えぬ、一つの芸術品として完成された書がそこにあるのだ。

 ……まあ、実際のところ、これは単なる世間話の手紙ではないのだが。

(やはり、美しい文字だ。
 これを失うのは惜しい。
 実に、惜しい。
 ……が)

 そのようなことを考えつつも、鷹揚にうなずく。

「よろしい。
 ――下がれ」

「――はっ。
 失礼します」

 それから手短に命じると、行灯を手にしたランセツもまた短く答え、うやうやしい仕草でこの執務室から退室していった。
 その姿を見送り、十ほど数えた後、執務机の片隅に置かれた手振りの鈴を鳴らす。

「――いかようでしょうか?」

 すると、両開きの扉を挟んで、すぐさま配下の者がそう問いかけてきたのである。

「ランセツめ、気付いたようだ。
 ――始末せよ」

「――御意」

 やり取りは、それだけ。
 下すべき命を下し終えたゲンヨウは、再び残された書に目を落とした。

「女子供ならば学も及ばぬだろうと、侮っていたか。
 そもそも、一芸を極めし物は、よろずに通じるというもの……。
 あれだけ美麗な字を書ける娘が、暗喩に気付かぬという道理はなし。
 これで、お気に入りの代筆を失った、な。
 ――反省せねば」

 わざわざ言葉にしたのは、己を強く戒めるためである。
 目にしたものを虜にしてやまぬ魅了の書……。
 眼前にあるこれが、最後の一枚となってしまった。

 ただ、反省というものは、一度したならば引きずるものではない。
 ゲンヨウはこの儀式めいた手順をもって、ランセツという娘の存在そのものすらも己の内から追い出していたのである。



--



 ――まずい!

 ――まずい! まずい! まずい! まずい!

 権力者というものは、どうしてこうただっ広い建造物が好きなのか。
 我が国における最大建築物である朱善しゅぜん城の広大な廊下を、行灯片手に早足で歩く。
 同時に、頭の中は今までにない速度で何かを回転させていた。
 息を切らしながら何を考えるかなど、説明するまでもない。

 ――どうすれば、生き残ることができる!?

 ……ただこの一事だ。
 最悪なのは、この廊下を照らすのが月明かりと手元の明かりだけで、他にはすれ違う者もいないということ。
 今が夜中であることを思えば、これはごく当然のことだ。

 そんな夜遅くに、ゲンヨウ殿下が代筆係であるわたしを叩き起こさせ、書かせたあの手紙……。
 あれは、単なる世間話の内容ではない。

(文面にあった紅き石……これは多分、精錬された銅の暗喩。
 第二皇子派に属する貴族が銅鉱脈を発見したことは、宮中で噂となっている)

 その符号に気付いてしまえば、あとは芋づる式だ。

(となると、焚き火を焚く煙は事故工作の暗喩。
 見えなくなった鹿の影は、狩られると思っていない獣――標的を始末せよとの指示。
 天子に石を守る義人の名を奏上云々は、標的……銅鉱脈を発見した貴族だな。
 そいつが死んだ後、宙に浮いた鉱脈利権が手紙の受取人にいくよう根回しすると告げている)

 つまり、である。
 わたしが、くそ眠いのを我慢して書かされたあの手紙は……。

(暗殺の指示書じゃないか……!
 だったら、代筆係なんかに書かせるな……!
 いや、それもいざという時、筆跡の一致を避けるためか?)

 まあ、とにかく、だ。
 書かされてしまったものは、仕方がない。
 暗喩の数々に気付いてしまったのも、やむを得まい。
 問題なのは、わたしが手紙の真意を悟ったことが、ゲンヨウ殿下に勘付かれたことであった。

 あれは、絶対に気付いてる。
 そういう気配が漂っていた。
 ばかりか、「残念だが仕方ない」感まで匂わせていたのである。仕方なくねーよタコスケ!

 ――どうする!

 ――どうする! どうする! どうする!

 ひとまず、城内に存在する自室――ゲンヨウ様配下の女官が暮らす一画にある――へ戻ることはしない。
 そのまま布団に潜り、すやすやと眠ろうものなら、それが永眠に繋がるであろう。

 では、どこへ行くのかといえば、これはあてがなかった。
 どころか、ただでさえ夜闇が支配する中、有事に備えやたら入り組んだ造りである朱善城を闇雲に歩いたため、現在地すら分からなくなっていたりする。

 だが、考えようによっては、これもよし。
 あれからゲンヨウ様がいつもの即断即決ぶりで追っ手を放ったとして、わたしがどこにいるかは予測できないはずだ。
 何しろ、わたし自身が分かってないからな! わっはっは!

 ……今は阿呆なことを考えている場合ではない。
 今夜を逃れたところで、明朝になれば終わりなのである。
 どこへ隠れたところで、ゲンヨウ様配下の者が必ずわたしを見つけ出し、始末することであろう。
 考えろ……生き延びるために。

 城内からの脱出は、無理。出入り口は兵士が固めている。出るも入るも許可が必要だ。
 隠れ潜んでも、明朝になれば見つかる。
 ならば、城内から出す荷に紛れるか? 入る方はともかく、出る方の荷はいちいちあらためられないので名案だが、どこにその荷があるかを知らない。

 では、最後の案だ。
 他の……ゲンヨウ様に対抗できるだろう権力者に、保護を求める。

 となると、候補は一人しかいない。
 ゲンヨウ様と次期皇帝の座を巡って争う皇子……。
 あの手紙っつーか暗殺指示書によって、配下の貴族を殺されそうになっている人物……。

 第二皇子――ケイエン様だ。

 方針は決まった。
 しかし、問題が三つ。
 一つ目は、現在地を把握していない今、追っ手から逃れつつケイエン様がおわす東宮までたどり着けるか。
 二つ目は、わたしごとき小娘の話を聞いてもらえるか。
 三つ目は、聞いてくれたとして、果たして保護してもらえるか……だ。



--



 日が昇ると共に一日の営みを始めるのは、何も百姓や町人ばかりではない。
 まつりごとの中枢たるここ朱善城もまた同様であり、皇族を始めとする諸貴族もまた、朝霧が残る未明には政治殿へと集っていたのである。

 現皇帝が座す玉座の前には、官僚たちがひざまずいており……。
 彼ら官僚の背後へ、皇子たちや各貴族家の人間が座る格好だ。

 ここで行われるのは、定期的な報告と情報の共有である。
 朝方のしゃきりとした頭で、この政治中枢に集う者たちの意識をまとめておくという、誠に意義深い会合であった。

「皆のもの、苦しゅうない。
 さて、さっそくにも定例の報告を済ませようではないか」

 大国を統べる者にふさわしく、威厳と権勢が形になったような装束を身にまとった皇帝が、厳かに宣言する。
 このような時、彼はもったいぶった言い回しや進行を好まない。
 時というものがどれだけ貴重であるかを、よくよく承知しているのだ。

「――陛下。
 ならば、まずは私から発言をお許しください」

 皇帝が宣言してから、絶妙な間を置き、一人の青年が申し出る。
 余人が口を挟むには短すぎ、かといって、粗忽そこつのそしりを受けるほどではないという、本当に完璧な呼吸の置き方だ。

「ケイエン。
 お主がいの一番に発言しようとは、珍しいな?
 よかろう。申すがよい」

 皇帝に促され、立ち上がった青年……。
 それは、見るからに凛々しき美男子であった。
 身長は、六尺180cm弱にも達するだろうか。
 伸ばした黒髪を頭頂部でまげにしており、まさに、若武者の理想形というべき姿である。
 皇帝の前ゆえ、帯剣はしていないが、立ち姿を見ただけでも、なまかな剣士ならば素手で返り討ちにできる使い手であると伺い知れた。

 第二皇子――ケイエン。

 銀狼の異名を持つ兄とは五つ下の弟であり、異民族の妾が母である兄と違い、正妃との間に生まれている腹違いの皇子である。
 そんな彼が、まずはうやうやしく皇帝に向かって礼をし……。
 続いて、着席したままである兄ゲンヨウに視線を送った。
 いや、これは、ただ目線を送っただけではない……。

 ――笑みだ。

 からかうような……あるいは、勝ち誇ったような笑みを兄に向けて浮かべているのだ。
 これを受けて、ゲンヨウはいぶかしげな顔となったが……。
 背後を振り返ったケイエンに促され、立ち上がった小娘の姿を見て、全て察すると共に屈辱の顔となったのである。



--



「実は昨夜、月明かりに浮かされて散歩をしている折、この娘――ランセツと出会い、見初めましてな。
 そのまま、手籠めとした次第」

 いやしくも皇子という立場にある人間が、政治殿で発したとは思えぬ言葉……。
 それに、一同は騒然とし……。
 ……手籠めにされたという当人であるわたしは、羞恥心で顔を真っ赤にしていた。

 ケイエン様が言い放った今の言葉……。

 ――嘘である。

 全ては、わたしを庇護下に置くための方便だ。
 兄であるゲンヨウ様に嫌がらせするための方便とも言う。

「陛下、発言をお許しください」

「よかろう」

 父である皇帝陛下の許しを得たゲンヨウ様が、ゆらりと立ち上がる。
 が、わたしはそちらに目を向けない。
 怒りの気をまとって羅刹像がごとくなっていることは、見るまでもなく明らかだからだ。

 始末しようと昨夜から探し続けていた娘が、最大の政敵と寝てましたと言われれば、そうもなるだろう。
 まあ、殺されそうになっていたこちらからすれば、知ったことではないが。

「ケイエンよ……。
 その娘、ランセツがおれの代筆係であることは、承知の上か?」

「抱いた後に知りましてございます。
 いやあ、兄上が筆を握らせていた娘に筆を握らせてしまうとは、血の繋がりを感じますなあ」

 涼しい声で放たれるとんでもない下ネタ……。
 それを原因とし、そこかしこで噴き出す声が響く。
 皇帝陛下の前で噴くなど言語道断とも思えるが、この不意打ちを食らっては仕方があるまい。
 噴いちゃった人たちが幸いだったのは、皇帝陛下も玉座で盛大に噴き出していたからだ。

「はっはっは……。
 ケイエン、お前、そのような冗談も言えるようになったか。
 で、だ……。
 その娘を抱いたと報告し、何をどうしたい?」

「無論、この娘を我が妾とする許可が欲しいのです。
 父上と、兄上に……」

 怖ろしく不敵な声でおねだりをするケイエン様だ。
 妾にされる予定であるわたしとしては、ただ顔を伏して押し黙るしかない。

 これは、わたしとケイエン様で交わした契約だ。
 わたしは、ケイエン様にとって有益な情報をもたらし……。
 ケイエン様は、その見返りとしてわたしを妾にし、保護する。
 わたしのことをお手付きにしたという嘘は、話の流れに勢いを付け、なし崩しで認めさせるためだ。

 そうだ。わたしは、この方の妾となる。
 全ては――生き残るために!



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