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第一話
4.
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栞の勢いに呑まれただけではないと思う。どちらかと言うと、「行かない」言い訳をうまく作れなかったからだ。
そして何故そんなに嫌がるのかと、不審に思われるのを恐れただけだ。
折原が、自分の存在に気が付くと自惚れて恐れているんじゃない。
俺の中で、折原が蘇ってしまいそうな気がするのが、嫌だった。
ホイッスルの音、ギャラリーの歓声。選手たちの声。
そのすべてが、一度俺が過去に置き去りにしたものだった。
道路の向こう側。練習場のフェンス越しで中を見入っている栞の後姿からそっと視線を外して、アスファルトに落とす。
いつもあたし、一番前で見てるんだ。そこ行こうよ、佐野。そう満面の笑みで誘ってきた栞に、それはいろんな意味で俺の心臓が持たない予感しかしなくて丁重にお断りをしたのが十数分前のことだ。
「俺が一緒だったら意味ないだろ。遠くから様子観察しててやるから」との俺の弁をあっさりと鵜呑みしてくれたことに感謝して、遠目に隠れることが出来たところまでは良かったのだけれど。
――やっぱり、駄目だな。
どんなに意識を反らそうとしても、声も、音も、なにもかも飛び込んでくる。
こんなにも距離があるのに、紅白戦をしているらしいグラウンドからは、サッカーの熱が伝わってくるみたいで、膝が疼いた気がした。
馬鹿みたいだ、もうそこは、なにもないのに。
全国屈指の強豪と言われている深山の練習は、厳しかったと思う。あのころは目の前のことにただただ必死で、他に比べてどうのこうのと考える余裕はなかったけれど。
少しでも調子が悪いとあっという間に二軍に落ちる。夏場はよく吐いてる奴もいたなと思い出す。
でも、楽しかった。
富原がいて、磯川がいて、――折原が、いて。
どこまでも一人で勝手に落ちていこうとする回想を止めたのは、グラウンドで響いた高いホイッスルの音だった。
一度グラウンドで集まった選手たちが、ちらほらとフェンスに向かい始めていた。若手の選手目当てだったらしい女の子たちからは華やかな声が上がりだす。
その中に、折原もいた。栞が待っているのとは反対側からスタートして、ユニフォームにサインをしたり、差し入れを受け取ったりしていた。
肉眼で見るのは、もしかしたらあの退寮の日以来かもしれなかった。トレーニングを積んだ身体は、あのころよりもずっと大きく見えた。
小さい子どもの前に立つと当たり前のように屈み込んで視線を合わせる折原を、遠目なのを良いことに俺は凝視してしまっていた。
あぁでも、案外平気なもんだなと確かに思った。フェンスに行って喋りたいとは思わないけど、一方的に見ている分には、恐れていたほどの動揺を感じはしなかった。
でもこれが当たり前なんだろう。いつまでもしこりを持ち続けている俺がおかしいのだと嫌と言うほど知っている。
だって、折原にしたら、もうずっと過去の話のはずだ。俺と一緒にサッカーをしていたという、記憶は。
栞の前で折原が立ち止った。クラブハウスに戻る前の最後のファンサービス。だから少し、他の子たちより長めの時間が取れていたのかもしれない。栞に向けられる笑顔は、子どもに向けていたものとほとんど変わらない。
栞に言われるまでもなく、ただのファンと選手とのやり取り。実感して、身体から力が抜けたそのときだった。
栞が何か話しながら、こちらを振り返った。それに応じるように栞と相対していた折原の視線が動いて――、表情が止まった。
「――先輩!」
ガシャンと派手にフェンスが鳴った。その音と折原の声に、立ち去ろうとしていたファンの子たちが足を止めたのが分かった。
「先輩、佐野先輩!」
何をそんなに叫んでいるのだと。痺れたみたいに動かない思考の片隅で思いながら、けれどそれは思うだけで、俺は折原から視線を反らせなかった。
動揺は感じないだなんて、馬鹿みたいだ。
折原が俺を認識したのだと分かった瞬間、そんなの、嘘みたいに弾け飛んだ。
動かない俺と折原とを見比べて、栞が戸惑ったように「佐野」と俺を呼ぶ。
道路を挟んでだからだろう、大きい声。
「折原くんと知り合いだった?」
それは、持って当たり前の疑問で。
聞こえないふりは、できなかった。逃げるように立ち去った方が、目立つことも分かっていた。
言い訳のように自分自身に言い聞かせながら、そっと一度視線を外した。途端、やっと息が出来るようになった気がした。
あくまでも平然を装って、栞たちの方へと足を向ける。その間もずっと折原の強い目が俺を見ているように感じた。
一メートルも離れていない、フェンス越しに折原がいる。この距離で視線を合わせるだけの気力が維持できそうになくて、俺は栞に顔を向けた。
「後輩」
「え、折原くんが? 佐野の?」
「高校の時のな、それだけ。会うの事態、かなり久しぶりだけど」
「佐野、高校県立って言ってなかったっけ」
「佐野先輩、高二の終わりまで深山だったんっすよ、だから。っつか会うの久しぶりなのは、先輩がどれだけ誘っても深山の飲み会に顔出さないからじゃないですか」
栞の疑問に答えたのは、折原だった。さっきの必死そうな声なんて聞き間違いなのじゃないのかと疑うくらい、普通の応対。
あんまりにもなんでもなさそうに、そんなことを口にするから。俺は思わず、避けていたはずの折原の顔を正面から見上げてしまった。
間近で合った視線に、折原が嬉しそうに目を細めた。
「ね、先輩。俺、身長伸びたでしょ」
そうなんだろうと思う。あのころよりも見上げる角度が少し高い気がする。
身長だけじゃない、どこかまだ華奢だった高一の頃の折原とは違う、プロの身体付き。
今触れたら、全然あの頃と違うのだろうかと、一瞬そんな馬鹿みたいなことを思ってしまった。
けれど俺の口からは、そんな思考を一切滲ませない憎まれ口しか出てこなかった。
「それ以上伸びてどうするつもりだよ、おまえ。頭に栄養回んなくなるぞ」
「相変わらずひどいっすよね、先輩」
何故か照れくさそうに折原が髪をかきやった。昔もよくしていた、しぐさだった。
そして何故そんなに嫌がるのかと、不審に思われるのを恐れただけだ。
折原が、自分の存在に気が付くと自惚れて恐れているんじゃない。
俺の中で、折原が蘇ってしまいそうな気がするのが、嫌だった。
ホイッスルの音、ギャラリーの歓声。選手たちの声。
そのすべてが、一度俺が過去に置き去りにしたものだった。
道路の向こう側。練習場のフェンス越しで中を見入っている栞の後姿からそっと視線を外して、アスファルトに落とす。
いつもあたし、一番前で見てるんだ。そこ行こうよ、佐野。そう満面の笑みで誘ってきた栞に、それはいろんな意味で俺の心臓が持たない予感しかしなくて丁重にお断りをしたのが十数分前のことだ。
「俺が一緒だったら意味ないだろ。遠くから様子観察しててやるから」との俺の弁をあっさりと鵜呑みしてくれたことに感謝して、遠目に隠れることが出来たところまでは良かったのだけれど。
――やっぱり、駄目だな。
どんなに意識を反らそうとしても、声も、音も、なにもかも飛び込んでくる。
こんなにも距離があるのに、紅白戦をしているらしいグラウンドからは、サッカーの熱が伝わってくるみたいで、膝が疼いた気がした。
馬鹿みたいだ、もうそこは、なにもないのに。
全国屈指の強豪と言われている深山の練習は、厳しかったと思う。あのころは目の前のことにただただ必死で、他に比べてどうのこうのと考える余裕はなかったけれど。
少しでも調子が悪いとあっという間に二軍に落ちる。夏場はよく吐いてる奴もいたなと思い出す。
でも、楽しかった。
富原がいて、磯川がいて、――折原が、いて。
どこまでも一人で勝手に落ちていこうとする回想を止めたのは、グラウンドで響いた高いホイッスルの音だった。
一度グラウンドで集まった選手たちが、ちらほらとフェンスに向かい始めていた。若手の選手目当てだったらしい女の子たちからは華やかな声が上がりだす。
その中に、折原もいた。栞が待っているのとは反対側からスタートして、ユニフォームにサインをしたり、差し入れを受け取ったりしていた。
肉眼で見るのは、もしかしたらあの退寮の日以来かもしれなかった。トレーニングを積んだ身体は、あのころよりもずっと大きく見えた。
小さい子どもの前に立つと当たり前のように屈み込んで視線を合わせる折原を、遠目なのを良いことに俺は凝視してしまっていた。
あぁでも、案外平気なもんだなと確かに思った。フェンスに行って喋りたいとは思わないけど、一方的に見ている分には、恐れていたほどの動揺を感じはしなかった。
でもこれが当たり前なんだろう。いつまでもしこりを持ち続けている俺がおかしいのだと嫌と言うほど知っている。
だって、折原にしたら、もうずっと過去の話のはずだ。俺と一緒にサッカーをしていたという、記憶は。
栞の前で折原が立ち止った。クラブハウスに戻る前の最後のファンサービス。だから少し、他の子たちより長めの時間が取れていたのかもしれない。栞に向けられる笑顔は、子どもに向けていたものとほとんど変わらない。
栞に言われるまでもなく、ただのファンと選手とのやり取り。実感して、身体から力が抜けたそのときだった。
栞が何か話しながら、こちらを振り返った。それに応じるように栞と相対していた折原の視線が動いて――、表情が止まった。
「――先輩!」
ガシャンと派手にフェンスが鳴った。その音と折原の声に、立ち去ろうとしていたファンの子たちが足を止めたのが分かった。
「先輩、佐野先輩!」
何をそんなに叫んでいるのだと。痺れたみたいに動かない思考の片隅で思いながら、けれどそれは思うだけで、俺は折原から視線を反らせなかった。
動揺は感じないだなんて、馬鹿みたいだ。
折原が俺を認識したのだと分かった瞬間、そんなの、嘘みたいに弾け飛んだ。
動かない俺と折原とを見比べて、栞が戸惑ったように「佐野」と俺を呼ぶ。
道路を挟んでだからだろう、大きい声。
「折原くんと知り合いだった?」
それは、持って当たり前の疑問で。
聞こえないふりは、できなかった。逃げるように立ち去った方が、目立つことも分かっていた。
言い訳のように自分自身に言い聞かせながら、そっと一度視線を外した。途端、やっと息が出来るようになった気がした。
あくまでも平然を装って、栞たちの方へと足を向ける。その間もずっと折原の強い目が俺を見ているように感じた。
一メートルも離れていない、フェンス越しに折原がいる。この距離で視線を合わせるだけの気力が維持できそうになくて、俺は栞に顔を向けた。
「後輩」
「え、折原くんが? 佐野の?」
「高校の時のな、それだけ。会うの事態、かなり久しぶりだけど」
「佐野、高校県立って言ってなかったっけ」
「佐野先輩、高二の終わりまで深山だったんっすよ、だから。っつか会うの久しぶりなのは、先輩がどれだけ誘っても深山の飲み会に顔出さないからじゃないですか」
栞の疑問に答えたのは、折原だった。さっきの必死そうな声なんて聞き間違いなのじゃないのかと疑うくらい、普通の応対。
あんまりにもなんでもなさそうに、そんなことを口にするから。俺は思わず、避けていたはずの折原の顔を正面から見上げてしまった。
間近で合った視線に、折原が嬉しそうに目を細めた。
「ね、先輩。俺、身長伸びたでしょ」
そうなんだろうと思う。あのころよりも見上げる角度が少し高い気がする。
身長だけじゃない、どこかまだ華奢だった高一の頃の折原とは違う、プロの身体付き。
今触れたら、全然あの頃と違うのだろうかと、一瞬そんな馬鹿みたいなことを思ってしまった。
けれど俺の口からは、そんな思考を一切滲ませない憎まれ口しか出てこなかった。
「それ以上伸びてどうするつもりだよ、おまえ。頭に栄養回んなくなるぞ」
「相変わらずひどいっすよね、先輩」
何故か照れくさそうに折原が髪をかきやった。昔もよくしていた、しぐさだった。
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