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第二話
12.
しおりを挟むぼそぼそと抑揚のない声で授業を進める老教授の講義は、チャイムと同時に打ち切られる。
たとえそれが、説明の途中だったとしても、「では今日はこれまで」とさっさと鞄にまとめてしまう。そのマイペースなスタイルが俺は嫌いではなかったけれど、出席している生徒の半数近くが睡魔に負けているのも事実だった。
それでも大講義室の三分の二が学生で埋まっているのは、ひとえにこの試験が、テキスト持込み不可で、講義中に教授が喋っただけでプリントなどにも載っていない内容が堂々と出題されるからである。
しかも必修な上に、情け容赦なく単位を落としてくるから性質が悪い。
本日もチャイムと同時に正確に教授が講壇を降りる。途端、ざわめきだす教室で、そっと息を吐く。集中していないと、碌でもないことばかり考えてしまいそうに思えたせいで、やたらと肩に力が入ってしまった。
チャイムが鳴っているのにも気づかず、突っ伏したままの庄司を起こそうかどうしようか迷っていると、出入り口から人波に逆らって入ってくる人影が目に付いた。
栞と、万智ちゃんだ。
目的の先は俺たちだったようで、こちらに気が付いたらしい栞が満面の笑みで駆け寄ってきた。
「佐野ー、んっ!」
ご機嫌な顔で栞が手を目前に突き出してきた。その行動に嫌な予感しかしなくて、思わず万智ちゃんを窺ってしまった。けれど真知ちゃんはと言えば、「無理、無理」とでも言いたげな愛想笑いを浮かべるだけで。
そういや、この間も栞の勢いに押し負けて、折原に会いに行く羽目になったんだったな。
「んってなんだよ、んって」
「佐野こそ、なんでもっと早く言ってくんないかなー、貰ったんでしょ、日曜の試合のチケット!」
満面の笑みの理由が分かったのと同時に、何とも言えない脱力感に襲われた。なんで栞が知ってるんだ。
……そんなの、一つしかねぇじゃねぇか。
「なんで」
「なんでって一緒に行こうよ、あたしと万智と庄司と佐野で。あ、それとも、もう他の誰かと行く予定とかたてちゃってた?」
「や、そうじゃないけど。……つか、俺二枚しか持ってねぇけど」
だからそのチケットやるから庄司と二人で行ってこい。続けようとした台詞は、ふっふふーと芝居がかった栞の笑い声で立ち消えた。
そして「じゃじゃーん」とご機嫌な効果音とともに栞が鞄から取り出したのは、件のチケットだった。それも二枚。
「なんでおまえ、それ持ってんの?」
返ってくるだろう答えはたぶんひとつだと分かってはいたのだけれど。
「昨日練習見に行ったときに折原くんがこっそりくれたんだー! いいでしょ、すごいっしょ!」
「ならもう栞、それでこいつとデートしてきたらいいじゃん」
万智ちゃんには悪いけど。だしに使うべく、未だ眠りの世界から帰ってこない庄司の茶色い頭を揺らす。
だが一向に庄司は目覚めてくれなかった。俺の労力をあざ笑うかのごとく、栞が笑う。
「だめだよー、あたし万智とも行きたいねって言ってたんだし。それに折原くんに先輩連れてきてねって、これ貰ったんだもん」
「俺が行っても行かんでもあいつに分かる訳ねぇだろ。俺のチケットもやるから三人で行ってこいって。それでいいだろ」
投げやりに提案して、鞄に入れたままになっていたチケットを掴み取る。受け取ってくれることを期待して、万智ちゃんに手渡そうとしたのだけれど。万智ちゃんに笑顔のまま首を振られてしまった。
捨てるのは、さすがにできなかった。だから、ここで処理できるなら、大歓迎だったのに。
その算段が顔に出ていたのか、栞が不思議そうに首を傾げた。
「なんでそんな見に行くの嫌なの、佐野。あ、今更用事あるって言っても信じないからね、あたし」
万智ちゃんも口には出さないだけで、同じことを考えているんだろう。俺の返答を待っていることは明白だった。
だから別に、そんな御大層な理由も言えるような話もないんだって。
逡巡したものの、俺が口にできたのは「いろいろ複雑なの、俺も」と言う曖昧な台詞だけだった。
あとは好き勝手に解釈してくれればいい。そう思っていたのだけれど。
万智ちゃんと顔を見合わせた栞が、「あのさぁ」と言い淀んで自身の顎に指先を押し当てていた。考え込んでいるときの栞の癖だ。
「折原くんもさ、渡したはいいけど、たぶん先輩来てくれないからって言ってたんだよね。佐野は一人でなんでも決めちゃうし、後ろ向きな決断ばっかりするからって」
あんた案外根暗だよねとずばっと切り捨てた栞に、苦笑いすることしか出来ない。
「だからあたしに連れてきてほしかったんじゃないかなぁ。一人だと佐野は後ろ向きだけどさ、周りに押されて流されてでも動けたら、また別の眼で考えられるでしょ? あんた押しに弱いし」
「あたしはよく分からないけど。でも、せっかくなんだし行こうよ、みんなで」
癒し系の笑顔で言い添えられた万智ちゃんのそれは、間違いなく駄目押しだった。
俺の溜息を了承だと取ったらしい二人が、日曜楽しみだねとはしゃいでいるのを横目に、俺は微動だにしない庄司の頭を憮然と観察する。実はこいつ起きてるんじゃねぇのか。
……まぁでも、たとえ起きてたとしてもこの二人の決定には対抗できなかったとは思うのだけれど。
「よし、じゃあご飯いこ!」と、栞が庄司に飛びかかると、さすがに唸り声が聞えてきた。
結構な勢いだったから、本当に寝ていたのだったら、なかなかの衝撃だったと思われる。ざまぁみろと八つ当たり気味に憂さを晴らしながら、片付けに取り掛かる。
庄司に飛びついていた栞が、ふっと嬉しそうに口元をゆるませた。
「折原くんさ、しっかり佐野のこと見てたんだね。佐野のことよく分かってる。大事にされてんじゃん。あんたももっと折原くんのこと大事にしてやったらいいのに」
瞬間、ルーズリーフの束をしまおうとしていた手の動きが止まった。そのことに気が付かれないように、自然を装いながら、曖昧に笑う。
してるっつうの、大事に。だから会いたくないんだよ、俺は。
――そんなこと、誰にも言えるはずがないと思いながら。
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