夢の続きの話をしよう

木原あざみ

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第九話

51.

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【9】

「なぁ、佐野」

 通話の最後、どこか笑いを含んだ声で富原が言った。

「耳が痛いとは思うが、聞け。俺はな、ある意味で、おまえのことをすごいと思ってるんだ」

 そして続いたそれは確かに耳が痛いものだった。つまるところ、取り繕ったつもりの本心を突かれた、と言うことでもあったのだけれど。

「おまえ、何があっても折原はおまえのことを好きだと。ずっと特別に思っていると、そう思い込んでいるだろう」


 ブラインドの隙間から差し込む光が、横縞の影を問題集に作り出している。古典に英文法。それぞれの教科担当から拝借したものだが、奴の担任から事情は聞き及んでいるのか、大変ねぇとの労いまで付いてきた。赤点だけ回避させてくれたらそれで良いと定期テストの範囲も教えては貰ったが、問題は本人がやるかどうかの一点に尽きている。

 ――今日も、練習に出るかどうか甚だ怪しいしな。いや、もう、出なくても良いけど。それはそれで。

 折角の好天だとか。思い切り一日を使える土曜日だとか。そう言った好条件以前に、今日は。
 今日、か。
 浮かんだ名前を打ち消して、ページを繰る。誰もいないのを良いことに、俺は机に顎肘を付いたまま、欠伸を噛み殺した。
 と言うか、別に監督でもなければコーチでもないんだし。毎日、俺が顔出す必要って実はそんなにないよな。
 それを言えば、土曜日にわざわざ午前中から学校に出てきて、準備室に籠る必要もないんだろうけど。俺が思っていた高校教師とは随分違う道を歩んでいるような気もする。
 そもそもなんで、母校に帰ってきたんだっけ。ちょうど専任を募集していたし、私立は出身者を採りたがるから安パイだとは思ったけど。……結局、あれだ。監督、か。俺は、ここに戻ってきたかったんだろうな、たぶん、どこかで。

 ――三年前のあの時も、おまえは同じようなことを言っていたぞ。もし繰り返すつもりなら、さすがにやめろと、俺はそう言う。
 ――俺はおまえとは同期だし、おまけに部屋も一緒だったし、まぁ、そう言う意味では思春期のほとんどをおまえと一緒に過ごしているわけで。
 ――仲間意識は当然として、兄弟に近いと言うか、いらないお節介を焼きたくなると言うか。折原も可愛い後輩だが、それでも、ずっとおまえ寄りの立場でおまえたちを見ていたつもりでもあるわけだが。
 ――その俺からしても、あいつに同情したくなるし、なんなら代わりに謝りたくすらなっているぞ、俺は今。

 数日前に電話先で富原に言われたそれが、ふとした折に、こうして勝手に脳内で再生される。そしてその度に頭を抱えたくなる。
 分かってるよ、全部。おまえに延々と諭されなくても。俺が悪いってことくらい。分かっているから、合わせる顔もないと思っているし、できることなら会いたくないとも思って、――。


「――先輩?」

 頭上から不意に落ちてきた声に、肘がずるりと滑った。机に顔面を打ち付けるような間抜けにはならなかったが、バサッと派手な音を立てて問題集が二冊、机の下に滑り落ちていく。
 拾うと言う行為すら思いつかないまま、ぎこちなく振り仰ぐ。その先で、かつての後輩が微かに驚いたように眼を瞬かせた。

「うわ、さすがに傷つきますよ、その反応」
「いや、……」

 そりゃ、誰だって、予想外の人間がいきなり現れたらびっくりするだろう、と。続けようとした言い訳を、俺は有耶無耶に呑み込んだ。余計なことを考えていると碌なことにならない。

「誰もこんなところで何もしませんて」

 そんな俺を他所に、さらりと反応に困ることを口にして笑う。

「と言うか、一応、声かけましたからね、俺。無言でノックもなしには入ってきてないですよ」
「そこを疑ってはないけど」 

 意識的にゆっくりと息を吐いて、口を開く。作倉のような例外はさておいて。深山の寮育ちの人間は、基本的に体育会系の体質が良くも悪くも骨に染み込んでいる。

「でも、なんで」
「あぁ、ちょっと早く来すぎちゃって。そうしたら監督が、先輩はたぶんもう来てるって言うもので。断るのもおかしいじゃないですか。あの人、高校の頃の俺と先輩の距離感を知ってるんだから。そんなわけで、許可証貰って懐かしい校内を歩いてきたんです」

 突っ込む余地の一つもない理由だ。言葉の節々に棘を感じるのは、罪悪感の成せる業だけではないとは思うが、それだって、俺の言えた義理ではない。
 首から下げた許可証を持ち上げて見せた折原から視線を外して、足元に手を伸ばす。

「寮は改装があったって聞きましたけど、校内は全然ですね。まぁ、でも、俺らがいた頃から設備良かったですもんね。これ以上、金のかけようもないか」
「改装ってなったら、まず間違いなく折原のところに寄付金のお願いがあるだろ」
「それもそうか。全然良いですけどね。使う当ても残す先もないし」

 わずかに、伸ばし掛けていた指先がぶれた。見えていなかっただろうに、折原が笑う。

「あ、今、先輩、俺の寂しい老後、想像したでしょ」

 おまえは本当に後悔しないんだな、と。念押してきた富原の声が、脳裏に響いた。

「安心してください。俺は寂しくないんで」
「……そうか」

 もし、あいつが違う誰かの手を取ったとしても、同じことを言えるんだな。
 はかるように、あの頃を良く知る旧友はそう言った。
 折原が誰か女性と結婚して、子どもをもうけて、それが幸せだと。おまえは頭の固い古風なことを言っていたが、あいつはそれを選ばないぞ。おまえとどうにかならなかったとしても。
 あいつ自身が言っていただろう。そう言った意味で好きになるのは同性だけだと。
 言い聞かせる調子で告げられたそれに、今まで宙に浮いていた何かが急激に質量を増して落ちてきたような感覚を覚えた。
 だから、あいつがおまえをこのまま見限って、誰かほかの男を選んでも、おまえはそれで良いと、そう言うことなんだな。
 その言葉に、あぁ、そういうことだ、と得心した。
 なんで、俺は、その未来を想像しようとさえしていなかったのだろう。俺さえいなければ、「ふつう」になるのだと。そんな傲慢なことを良く考え続けていたな、と。愕然ともしたけれど。

「俺が口出すような話じゃなかったな」

 悪い、と一言付け足したのは、ほとんど無意識だった。あ、やばい。折れてる。開いた状態で落ちた問題集は、数ページに跨って被害が発生していた。何に対してか分からない溜息を漏らした、瞬間。

「折原?」

 手元のページにかかる影が濃くなって、顔を上げる。なぜかずっと先程よりも近い距離で、視線が絡む。
理由にはしばらくして頭が追いついた。机の縁と回転椅子の肘置きに手を付いていたからで。

「古典? 英語? なんですか、これ」

 その声に、強張りかけていた肩から力が抜けた。俺が気にしすぎるからなだけで、折原はもともとパーソナルスペースが狭い性質だった。

「あぁ、今、教えてて」
「先輩、数学じゃなかったでしたっけ。古典とか現文とか面倒くさいから嫌いだって言ってませんでした?」
「よく覚えてるな、そんなこと」

 他愛もない過去の懐かしさに、視線を落とした。純粋に懐かしいと思えるものも、記憶の中に残っているのだなと思いながら。

「俺にもたまに教えてくれたじゃないですか。気が向いた時だけだったんでしょうけど。勉強」
「今も、まぁ、それだな、結局。折原も前に一回、駅で会っただろ。監督の言ってたウチの問題児。卒業できるか危ういって、そいつの担任から頼まれて」

 折原の言うそれは、教えていた、と言うほどのものでもなかったはずだ。あの頃は、就寝時間までの空き時間があれば折原は、よく俺たちの部屋に遊びに来ていた。そのときに、確かに気まぐれに見たこともあったような気もするけれど。

 ――まぁ、でも、折原は作倉と違って、放っておいてもしてたしな、勉強。と言うか、それがそもそもとして大前提だとは思うんだが。

「それって」
「ん?」
「わざわざ先輩がしないといけないんですか?」
「まぁ、……一応、顧問だしな」

 わざわざしないといけないことでは絶対にない。ついでに言えば、俺のガラではないとも分かってはいるけれど。

「そんな顔しなくても良いだろ。悪かったな、似合わないことやってて」
「べつに、そうは言ってないですけど」 

 納得がいかない、と言うか、不満そう、と言うか。昔よく見たような気もする、俺の言うところのそんな顔を器用に引っ込めて、笑う。

「前も思いましたけど、そうやってジャージ着てるとあんまり生徒とかわらないですね」

 話変わって指摘されたそれに、先程とは違う意味で憮然とした声になった。監督にも配属されて早々笑われたが、解消されるにはまだ少し年月がかかるだろうことは想像に易い。

「悪かったな」
「悪くはないですけど。当たり前の話で、先輩はもう結構、筋肉も落ちてますもんね。そう言う意味ではあの頃よりずっと細いし」

 あいつは。あの頃、と言う単語に触発されたように、富原に言われたそれがまた浮かんだ。
 あいつは、どんな形であれ、おまえからの返事が欲しいと思っているだけなんじゃないのか。
 それのどこが悪いのか、俺にはそれこそ分からないな。

「相変わらず、あんまり焼けてないんですね」

 そんなどうでも良いような話も覚えているのか、と。そう思ってしまった。尖っていたように感じていた声音まで、懐かしさを帯びて柔らかく耳に落ちる。
 これが、いつか、いや、もう既にかも知れないけれど、違う誰かに向かうのだろうか。向かっているのだろうか。それが嫌だと願った矛盾は、かつて捨てたはずだったのに。

「折原」

 喉から零れ落ちた呼びかけは、ほとんど衝動だった。証拠に、続く言葉が出てこない。
 続きを待つように、折原は何も言わなかった。見下ろしてくる瞳に灯る色は、何故だろう、何年経っても、少しも変わらないように見えて。
 正しいと思った。俺は、折原はいつまでも俺のことを好きだと、慢心し続けていた。
 沈黙は、けれど長くは続かなかった。短く響いたノックの音に、思考が現実に戻る。

「折原」

 少し離れろ、と言うより早く、ドアが開いて、驚いた顔の時枝と、折原の背中越しに眼が合った。 
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