夢の続きの話をしよう

木原あざみ

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第九話

57.

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 お互い、ほとんど無言だった車の中、折原が「そう言えば」とおもむろに口を開いた。

「俺、先輩に合鍵を返していませんでしたよね。退去するとき、怒られませんでした?」

 顔は見えない。

「あぁ」

 前方を見据えたまま、応える。本当に、そう言えば、だ。そんなこともあった。

「鍵の付け替えで五千円払った」

 なんだ、と一拍置いて折原が小さく笑ったのが分かった。

「そんなものですか」
「そんなものだ」

 そんなもの。もう一度、その言葉を心の内で繰り返した。大袈裟に、宝物か何かのように。何の変哲もない鈍色の鍵を手のひらで包み込んでいた折原の顔が思い浮かんで、――打ち消した。
 もう、終わったことだ。

「来客者用の駐車場、空いてるんで、使ってください」

 近づいてきたマンションを指して、折原が言う。この間、送った時は近くで停めただけだった。

「先輩も降りるんで、良かったんですよね」
「……おまえが良いなら」

 ほんのわずか、間が出来た。その言いようにだろう。折原がまた笑った。呆れたように。
 
「相変わらず、ずるい言い方しますね、先輩」

 その通りだな、とは思った、そう分かっているくせに、なんでこいつは、先輩、先輩と未だに呼び慕ってくるのだろうなぁ、とも思った。実際のところは、どう思っているのかは分からないけれど。

「話そうって言ったのは、先輩じゃないですか」


 あの当時の寮室を数に入れなければ、折原のプライベートな空間に足を踏み入れたのは初めてだった。1LDKの室内は必要最低限の物しかないようだったが、それでも人の生活している匂いはあった。

「たまにね、妹が」

 自分の疑念を読んだのか、折原が何でもない世間話のように言った。

「掃除してやるから合鍵寄越せって言うんで、渡したんですけど。頼むから男を連れ込んで、人の寝室でヤるなよとも言ってるんですけどね。聞いてるんだかどうだか」

 年下の顔ではない兄の顔。こんなことがなければ見ることもなかっただろうそれから、ゆっくりと目を逸らす。
 折原が生活している空間に二人でいて、台所に立つ折原を座ったまま見つめている。ひどく、不思議だった。
 たぶん、「付き合って」いたときも、こんな風に時間を過ごしていなかった。折原は、結局、あの合鍵を一度も使っていない。

「まぁ、間違いなく、俺よりここで生活してますよ、あいつの方が」

 だから、この珈琲もべつに古くないですよ、と笑って折原が少し空間を開けて隣に座った。ここしか座るところがないんで、すみませんけど、と。着いてすぐに勧められた二人掛けのソファー。
 どのくらいの人間がここに座ったのだろうか、とふと思った。

「いくつだっけ」
「え? あぁ、二十一、かな。大学生です。楽しい盛りなんでしょうけど」
「たまに見に来てたよな、試合」
「覚えてたんですか?」
「覚えてるよ」

 中学の頃。観客席にいた少女を見た記憶がある。あのまま育っていれば、美人になっているんだろう。兄によく似た好奇心旺盛な瞳で、一心不乱にコートを……正確には兄を、だろうが、を見ていた。
 あの子が、もうそんな年か。

「ちなみに、先輩にはさほど興味のない話かもしれませんが。俺は、親ともべつに関係は悪くはないですよ。まぁ、……物理的に距離が離れているからかもしれませんが」

 ほんの僅か言い淀むような躊躇の後、折原が口にしたのはそんな言葉だった。

「昔から、と言うか、深山に入った時点で家も出ていましたし。その後もクラブの寮で、そのまま海外だったんで。適度な距離感と言うか。腫れ物扱いと言うか」

 それは果たして上手くいっているうちに入るのか、と。思ってしまったけれど、だからと言って、俺に何が言えるわけもない。折原の父親の顔は覚えていないが、母親の顔はうっすらと覚えている。まだ小さかった折原の妹を連れて観戦していた優しそうな人。

「まぁ、そんな感じで。俺がゲイだろうが、バイだろうが、関係は変わってません。少なくとも、表面上は。迷惑はかけたでしょうけど」
「……かもな」
「知ってます? あることないこと記事になってたの。受けません? 俺はちょっと笑いましたけど。ネットで見て」

 言葉通り、小さく笑って、「まぁ、でも」と続ける。

「先輩は笑えないか」

 手元に落ちていた視線が上がって、眼が合った。

「飛び火するんじゃないかって、冷や冷やしてましたか? それとも」

 怒っていると言う風でもなく、呆れていると言う風でもなく、いたって静かなそれ。おされるように、口を開いていた。

「それは、あまり考えなかったな」
「そうですか」
 
 どこかほっとしたように折原が吐き出す。その声音の温度が示すところは俺には良く分からなかった。

「ねぇ、先輩」

 ここまで来て、なんでこんな風に思うのだろう。その声は、昔から何一つ変わらないように耳に響く。捨てようとしているのは、これなのだなとふと落ちてきた。捨てたら、きっと、もう会うこともない。話すこともない。見るとすれば、それはすべて画面越しになる。

 ――一ヵ月前までの距離感に、戻るだけだ。

 言い聞かせるように、念じる。そうだ、結局、離れていた時間の方が長くなっている。近くに居なくても何の問題もないと割り切れていた。
 ……こうしてまた、逢うまでは。

「先輩が話さないなら、俺が話しましょうか」
「おまえの?」
「そう、俺の」

 ゆっくり話すのも久しぶりですしね、と折原が続けた。それは、俺が同窓会にも顔を出さないからなのだろうけれど。

「先輩は、俺が先輩の顔を見たくもないって思ってると考えていたんですか」

 昼間の折原の態度絵、ある程度は分かっていたことだった。

「富原か」
「あのですね。俺も自分がそこまで性格が良いとも思ってませんが、わざわざ会いたくもない人の顔を見に行くほど悪くもありません」

 言い聞かせるような口ぶりだったけれど、俺は折原がそう言う人間だと思ったわけではなかった。
 ただ、過去の自分の言動を振り返ると、その折原であったとしても、そう思うのではないかと疑った。それほどのことをしたのではないかと改めて思っただけだ。

「と言うか、そこまで暇でもないです」
「だろうな」
「俺としては、それなりに覚悟を決めて帰ってきたつもりだったんですが、何年経っても先輩は相変わらずだし、おまけに斜め上に解釈して卑屈になってるし、挙句、あんな子どもに好き放題させてるし」
「……」
「俺が怒ってる理由、分かりましたか」

 心当たりが多すぎて分からない、と言ったことへの答えがそれだった。応じる前に、心の中でもう一度考える。今度こそ、覚悟は決めたつもりだ。相変わらずと言うのもそうなのだろう。けれど、いい加減にそれも止めようと思ってここにいる。卑屈になっていると言うのは、富原へ言ったことなのだろうけれど。
 
「好き放題させてたわけじゃない、けど」

 決定的な言葉を延ばすように、簡単に否定できるだろうそれが先に口をついた。我ながら姑息だなとは思った。

「問題の多い奴ではあるけど、そこまで馬鹿でもないし、暴力沙汰を起こすわけが」
「そうですか。特に俺は問題のない生徒だったとは思いますが、暴力沙汰は起こしましたが」
「……そう言えば、そうだったな」 

 今この瞬間に思い出したくはない話ではあったけれど、事実は事実だ。「そう言えば」どころか、そもそもの元凶だ。
 もし、あの出来事がなかったら、俺はあの一線を越えなかっただろうか。いまさら考えたところで、意味のない話だと分かってはいる。

「そう言えば、まぁ、そうですね。そう言えばレベルの昔の話ですか」

 棘のあるそれに、何かまた間違ったらしいとは悟ったが、それが何かまでは分からない。昔から俺に関することで折原が機嫌を損ねるタイミングが分からない。

「じゃあ、言い方を変えましょうか」

 直視するのを避けていた視線を向けて。想像していた以上に近かった距離に腰が引けた。

「あまりにも警戒心のないあんたに腹が立ちました」
「警戒心って」
「男が男に欲情しないとか、意味のない言い訳は止めて下さいよ。先輩には俺って言う前例があったんですから」

 当初の予定から話の軸がずれてきているとは思うのだが、正す方向が分からない。下手な答え方をすると、過去にずるずると引きずり込まれていくような気までして言い淀む。
 折原の瞳の中に自分が大きく映っていた。こんなに間近でこの瞳を見るのはどのくらいぶりだろうと思って、――我に返った時には視界が反転していた。

「それなのに、ほら、こんな風に隙だらけじゃないですか」

 揶揄う声がすぐ近くから落ちてきて、押し倒されていると理解した。

「ねぇ、先輩」

 指先が輪郭をなぞるように頬に触れる。こんな風に触れ合ったのは、再会してから初めてで。振り解こうと思えばできたはずなのに、動かなかった。まるで金縛りにでもあったかのように。

「先輩の言いそうなこと言ってあげましょうか」
「折原」
「可愛い生徒ですもんね。まさかそう言う目で見られるとは思わなかったんでしょう。それはそれでこの際、良いですよ。腹は立ちますけどね。でも」

 言葉を切って、笑う。昔、もう、どうしようもないと。切羽詰まって泣きそうになっていた顔が、思い浮かんだ。

「その直後に、自分に好意を持っていると知っている男の家に一人で来るのはどうなんですか」
「それとこれとは……」 

 話が違うはずだ。どう言えば良いのかは分からないが、違うと思った。言葉になり切る前に、追い打ちが降ってくる。

「それとも、俺は何もしないと思ってます? あんたに忠実な後輩だから」

 ――違う。
 反射的に言い返しかけて、けれど、できなかった。違わない。俺がずっとそれに甘えていたことは事実だ。認めたくはなくて、気が付かない振りをし続けていただけで。

「折原」

 どうすべきなのかも分からないまま、気が付けば呼びかけていた。手を少し伸ばせば触れ合いそうな距離で、瞳が揺れる。自嘲気味に。

「嫌だったら、殴ってください。できますよね、それくらい。そうじゃないなら、合意だって俺がみなします」

 ここまで言わせているのは俺だ、と思った。好きだった。俺だけを一心に見つめているその瞳がたまらなく好きだった。それはひどい執着で、もはや恋なんて綺麗なものではないとも思っていた。
 だから、これは捨てなければいけないものなのだと何度も何度も言い聞かせてきた。
 それが互いの為なのだと、信じていた。

「先輩」

 その声で、そう呼ばれるのが、――好きだった。好きだった。たまらなく、好きだった。自分だけの特別だと己惚れ続けてもいた。
 俺から手を伸ばしたのは、たぶん、二度目だ。ほんの少しだった。ほんの少し指先を動かせばぬくもりに届く。
 あの瞬間と同じ抗いがたい衝動。
 終わらせるつもりだったんじゃないのかと、どこかで自分が叫んでいる。でも。
 強いて理由を上げるなら、折原にこれ以上の何をも言わせたくなかった。だから、やはり、これも衝動だ。
 伸ばした指先が襟首を掴む。引き寄せたのは一瞬で、重なったのも一瞬だった。するりと離れていった顔は驚いても喜んでもいない。ただ、静かだった。

「知りませんよ、後悔しても」

 後悔なら、もうずっとしていると思った。あの日、車の中で、答えなかったこと。いや、それよりも、ずっと前。あの寮で、言わせなかったこと。
 あるいは、――あの日、戯れにまだ何にも染まっていなかったおまえを引きずり込もうとしたこと、を。

「もう、してる。ずっと」

 その手を取れなかったことを、隣に立って苦難に立ち向かう選択を取らなかったことを。悔やまなかった日は、ない。

「だったら」

 折原がふっと笑った。あまり見たことがない顏だと思って、なんで俺はこいつのことは何でも知っているような気になっているのだろうと自分に呆れた。
 一緒にいない時間の方が、ずっとずっと多いはずなのに。

「いまさらですよね、ぜんぶ」

 だから、いいですよね、と共犯者の笑みで。落ちていく、と確かに思った。

 あのころとはちがう、あるいは、あのころ望んでいたところへ。
 引きずり込みたいと確かに願った、地の果てまで。 
 
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