夢の続きの話をしよう

木原あざみ

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第九話

56.

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 あの瞬間が、間違いへの第一歩だったのかもしれない、と思うことがある。
 あの、瞬間。

 初めて、そう言う意味合いの色を持って、後輩だった少年に手を伸ばした夜。
 俺が唆して、引きずり込んだ。
 自分にはない才能が羨ましかったのかもしれない。自分に向けられるまっすぐな瞳が眩しかったのかもしれない。

 いや、結局、―――どんな理由を付けてみたところで、気になって仕方がなかったのかもしれない。
 気になって、もっと知りたくて、だから手を伸ばした。
 けれど、同時に、その衝動の恐ろしさをも知ってしまった。これは駄目だと悟った。
 これは、すべてをぶち壊してしまう、そんな激情だと、そう悟った。
だから、蓋をしたんだ。こぼれ落ちないように。崩してしまわないように。


「そうか。作倉がなぁ」

 部活動終了後の監督室だ。かいつまんで――まぁ、ちょっとだいぶ荒れてるみたいですよ、作倉、と説明した俺に、監督が渋面を作った。
 だろうなぁ、とは思うが、俺にだって何ともできないのだから、あとは監督か同級生か。それでもどうにかならなければ、どこかで線を引くしかない。

「今日は途中からだが顔を出していたらから、安心していたんだが」

 最近は少し落ち着いていたみたいだから、と続けた監督に、俺は言葉を濁した。

「まぁ、その通りで。最近は真面目にやってましたから。その分、少し溜まってたのかもしれないですね、ストレスが」

 そんなことで爆発するストレスがあってたまるかとも思うわけだが、考え方も環境も、ついでに時代も違うわけで。一括りに切って捨てることもできないのかもしれない。

「と言うか、俺が口を挟むようなことでもないですけど。なんで監督も先輩も、そんな弱腰対応で甘やかしてるんですか。昔はもっと厳しかったでしょう」

 パイプ椅子に腰掛けたままズバリと言った折原に、俺はつい監督の横顔を窺ってしまった。
同席するだなんだと折原は言っていたが、良く良く考えなくとも、前回もこいつは監督に付き合ってこの部屋で最後まで居残っていた。
 とどのつまり、自分がいる間に、話題として提供しなければ、俺の目の無いところで話を通す、と。そう言う意味だと理解して、かいつまんだのだけれど。

「良くも悪くも時代も変わったからなぁ。それにおまえたちの頃は、やる気のない奴はいなかっただろう。 だから厳しくとも指導になった。やる気がなければ追い出せば良いだけなのかもしれないが」

 苦笑して、監督が続ける。

「いや、これは俺のエゴだな。あいつの才能は追い出すには惜しかった。部活に出なくても、練習はしていたしな。試合に出れば、一応、指示も聞く。点も取る。それならば、と……まぁ、恥ずかしい話だが、大目に見てしまった。現状、ウチにはあいつ以上のストライカーはいなかったからな」
「それで持て余してるなら、意味もないと思いますけどね」
「折原」

 嗜めるために呼んだそれに反応を示したのは、監督の方で。

「なんだ。おまえにまで、あいつは何かしたのか」
「……直接的には俺は何もされてないですけどね、俺は」
「佐野?」

 まるで昔のように。この年になって、この人から生徒に対するかのような叱責を受けることになるとは思いたくはなかったのだが。

「いや、……その、結果として何もなかったんですが、ちょっと衝突しそうに」
「おまえが?」
「はぁ、まぁ。それこそ、お恥ずかしい話なんですが」

 としか、最早、言えないし、言いたくはない。

「距離が近いからそうなるんじゃないですか」
「それもそうかもしれんが、部としてはそれを期待してもいたしなぁ」

 呆れを隠さない折原の声に、ついそちらを見遣る。折原はいつも通りと言えばその範疇の顔をしていたけれど。

「年齢の近いOBと言うのは相談しやすいだろうと思ってな。監督に直訴と言うよりは話しやすいだろう。現に時枝――今のキャプテンなんだかな、は佐野に懐いてるし」
「気が立ってただけでしょう。俺も次は上手くやりますから」
「上手くって、何を上手くやるんですか」

 話を切り上げようとしたのが気に喰わなかったのか、なんとはなしに棘がある。そもそも、なんでこんなにネチネチと言われなければならないのか。原因を棚上げした俺の声のトーンも微かに下がる。

「何をって、対応を」

 それ以外の何をやると言うのかと。溜息交じりに口にすると、折原もまた「へぇ、そうですか」と含みしかない相槌を返してきて。

「なんだ、おまえたち。その年になって喧嘩でもしとるのか」
「してません」

 被った返答に、監督が小さく肩をすくめる。

「相変わらずのようで何よりだ」
「相変わらず……」
「そうなんですかね。それよりも、大変ですね、指導って言うのも」

 さらりと話を流して、監督に愛想よく応じだした折原の声に肩から力を抜いて、受け取った部誌に眼を落とす。話もこれで終わりだ。……と思っていたら、

「そうだ。先輩、まだすることあるんですか? 送って行ってくださいよ」
「は?」
「は? って、ひどくないですか。この間も送って行ってくれたじゃないですか、知ってるでしょ、俺の家」

 思いがけない要請に、素で驚いた声を出してしまった。知っている。確かに知ってはいるけれど。あれは監督が言ったから、お互い本意ではなかったけれど、そうなっただけであって。

「そうしてもらえ。佐野も明日は出てこないだろう? たまには早く帰ってゆっくりしたらいい」
「いや、でも」
「作倉のことなら気にするな。少しこちらからも聞いてみるし、一度しっかりと時間を取るか」

 先手を取られて、返す言葉がなくなってしまった。俺の躊躇を遠慮と取ったのか、監督が笑顔で太鼓判を押す。

「だから、今日はもう気兼ねなく帰れ」


 善意としか言いようがない監督の申し出を断れるはずもなく。押し出されるように出た外はまだ明るかった。思えば、この時間帯に帰宅するのも久しぶりだ。それも一人であれば、ではあるが。

「そんな嫌そうな顔しなくても良いと思うんですけど」

 少し後ろを歩いていた折原からかけられた呆れ声に、見えてるわけもないと言い捨てる。

「してねぇだろ、べつに」
「いや、してますって。と言うか、これも今更ですけど、先輩って反省が持続しないですよね、本当に」
「……悪かったな」
「悪いと思ってたことが意外と言えば意外です」
「おまえな。折原。言いたいことがあったら、言え。ここで」

 職員用の駐車場の手前で立ち止まって振り返る。西日が眩しい。アスファルトに伸びる長い影を見ながら、ふとあの頃の記憶が思い浮かんだ。
 練習が終わって、くだらないことを話しながら寮までの道を歩いたこと。寮を抜け出して乗った自転車。グラウンド。仲間の声。声援。叱責。ホイッスル。すべてが遠い。けれど、そこには確かに、いつも折原がいた。すぐ、近くに。

「良いんですか。俺が言って」

 あの頃とは違う大人の顔で折原が笑う。あぁ、そうだな、と思った。もう、五年以上の月日が流れている。ここに一緒にいた頃から。初めて逢った時からで言えば、もう十年だ。十年。言葉にすると途方のない長さのようにも思えた。

「困るのは、先輩だと思いますけど」

 おまえは、いつになったら引導を渡してやれるんだ。富原の声が背を押すように、頭に響いた。
 引導。俺がずっと言葉にできなかったそれ。こいつはそれを待っていたのだろうか。言わなかった俺を疎んでいたのだろうか。

「送る」

 前言を撤回して、車に足を向ける。
 十年。その途方もなさに眩暈がした。十年、俺は一体、何をしていたのだろう。

「ちょっとで良い。時間をくれ」

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