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第十二話
67.
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【12】
恐ろしい勢いで季節は巡って、夏になる。あの頃も一日一日があっと言う間に過ぎてしまい、たまらないような惜しいような感情を抱いていたような気もけれど、大人になるにつれ、自分を包む時間の速さはさらに加速したように思う。
それが大人になると言うことなのかどうかは分からないし、年齢だけ積み重ねたところで、自分があの頃の俺が思っていたような、しっかりとした大人になれているのかどうかも分からないけれど。
「佐野ちゃーん、途中で投げやがったけど、作倉の面倒看てくれてありがとうね。とりあえず、あいつの一学期は経った今、赤点なく終了することが決定した」
「あ、それは……良かったです、ね」
がらりと何の遠慮もなく準備室のドアを開けて入って来た美作先生の登場に、採点をしていた赤ペンの先がぶれて、歪な楕円が出来上がる。
……まぁ、良いか。
「なに、その反応、薄いなー。もうちょっと喜んでくれても良いのに。顧問でしょうが。あ、おたくのところ、総体が駄目だったから、もう関係ないんだっけ」
「冬が残ってますから、ウチの三年は本当にギリギリまで部活してますって」
「あー、まぁ、負けるまではそうか。と言うことは、このギリギリの綱渡りがそこまで続くのか」
負けるまでは、と言われてしまえば苦笑しかできないのだが、夏の大会が終われば引退する野球部などとは違い、冬にも公式戦が残っているサッカー部は引退が遅い。
サッカー推薦で大学に行く生徒は勉強はそれなりで済むが、推薦ではなく一般入試を控えている生徒は、毎年頭を抱えて両立に踏ん張ることになる。
――とにかく、赤点なしなら最低限のやる気は見せたわけだ。
「監督たちからのお説教が多少は効いたんじゃないですか。だとしたら何よりじゃないですか」
「なら良いけどね。問題児はそれで良いとして、ウチの優等生は、そろそろ我慢の限界みたいよ? 部活中はキャプテンとして抑えてるのかも知らないけど、教室内じゃ、最近苛々してるよー、時枝」
「あー……」
「あー、じゃなくて。時枝もおたくの後輩でしょうが。隠しきれてない苛々が滲みだしててさぁ、気弱な男子が引け腰になってて、困ってるんだけど。夏休みも明けたら今度は文化祭だってのに」
あれだね、普段、優しげな顔してる奴の方が切れたとき恐ろしいよね、と。さらりと美作先生が言う。
「おまけに二人ともガタイも良いからさぁ、ちょっと手が出ただけでも、洒落にならない大ごとになりかねないよ」
「……それ、今度は俺に時枝の面倒看ろって言ってます?」
「いや? もう看てるだろうから、爆発しないように気を付けろって教室内の様子を教えてあげてんの」
正しく「ああ言えばこう言う」だ。
「真面目も真面目で大変だよね。おまけに時枝は外面が良いからね。悪い意味だけでもないけど、優等生の仮面を被らざるを得なくなっていると言うか。特にサッカー部の方じゃ、キャプテンだし、問題児もいるしで、余計溜まってるんじゃない? ストレス」
そりゃ、溜まりもするだろう、けれども。
「逆に、部活に関係ない美作先生がそれとなく話を聞いた方が、相談しやすいんじゃないですか」
「いやいやいや。あの子、佐野ちゃんに懐いてるから」
「……」
「あ、その顔。押し付けてるだけだって思ってるでしょ。本当だって、本当。時枝、クラスにいる時と、部活に出てる時の顔、全く違うから」
「当たり前でしょうが、それは」
身体を動かしている時と、勉強している時の顔が同じでたまるか。そうは思うが、気になっていたのも事実だ。俺にどうのこうのできるものでもないなと見守りに徹そうかと、あわよくばを狙っていただけで。
「予選の前にもちらっと気にしてたのは聞いたので、また、そう言う機会があれば」
このくらいの嫌味は許されてしかるべきだ。溜息交じりの了承に、嫌な顔をするでもなく、足取り軽く美作先生は出ていった。言質を取ったからか、クラスから留年を出さずに済みそうだからか、その両方か。
残すところあと十枚になったテストの採点に意識を戻す。学生だったころはテストが終わればそれですべてが終了だったが、教師の側に回ると、それからがまた大仕事だ。
――そう言えば、寮にいたころは、富原が良く勉強会だなんだって、頑張ってたな。
赤点を取れば試合に出られなかったのは、自分たちが学生だったころから変わっていないルールだ。
おまえも手伝えと頼まれて、何度か顔を出したことはある。けれど、大人数でやった勉強会よりも、何かの折に付け、折原の勉強を見てやっていた記憶の方がずっと鮮明だ。
――それも今思うと、わざわざ俺が見るようなもんじゃなかったと思うんだけどな。
ただの逢瀬の為の言い訳。言葉にしてしまえば恥ずかしいことこの上ないが、あの頃も、結局そうだったように思う。
そして、俺もそれが嫌だったことも、面倒だったことも、なかった。
最近、なぜか、昔のことを連想することが多くなった。もしかすると、ずっとそう言ったことはあったのかもしれないが、できるだけ長引かせないようにと、すぐに自分で幕を引いていた。その幕引きを止めたのは、今や未来を考えるにあたって、避けて通れない部分なのだとやっと心の底から思えたからなのかもしれない。
――このままで、が続くわけがないんだよな。
それもまた、十分に思い知ったことではある。いつまでも変わらない関係はない。あのころの俺は、自分の感情も折原のそれも、年をとるにつれ消えてなくなっていくものだと信じていた。
それがこうなるのだから、本当に分からないものだと改めて思う。人の感情どころか、自分の感情でさえも。
恐ろしい勢いで季節は巡って、夏になる。あの頃も一日一日があっと言う間に過ぎてしまい、たまらないような惜しいような感情を抱いていたような気もけれど、大人になるにつれ、自分を包む時間の速さはさらに加速したように思う。
それが大人になると言うことなのかどうかは分からないし、年齢だけ積み重ねたところで、自分があの頃の俺が思っていたような、しっかりとした大人になれているのかどうかも分からないけれど。
「佐野ちゃーん、途中で投げやがったけど、作倉の面倒看てくれてありがとうね。とりあえず、あいつの一学期は経った今、赤点なく終了することが決定した」
「あ、それは……良かったです、ね」
がらりと何の遠慮もなく準備室のドアを開けて入って来た美作先生の登場に、採点をしていた赤ペンの先がぶれて、歪な楕円が出来上がる。
……まぁ、良いか。
「なに、その反応、薄いなー。もうちょっと喜んでくれても良いのに。顧問でしょうが。あ、おたくのところ、総体が駄目だったから、もう関係ないんだっけ」
「冬が残ってますから、ウチの三年は本当にギリギリまで部活してますって」
「あー、まぁ、負けるまではそうか。と言うことは、このギリギリの綱渡りがそこまで続くのか」
負けるまでは、と言われてしまえば苦笑しかできないのだが、夏の大会が終われば引退する野球部などとは違い、冬にも公式戦が残っているサッカー部は引退が遅い。
サッカー推薦で大学に行く生徒は勉強はそれなりで済むが、推薦ではなく一般入試を控えている生徒は、毎年頭を抱えて両立に踏ん張ることになる。
――とにかく、赤点なしなら最低限のやる気は見せたわけだ。
「監督たちからのお説教が多少は効いたんじゃないですか。だとしたら何よりじゃないですか」
「なら良いけどね。問題児はそれで良いとして、ウチの優等生は、そろそろ我慢の限界みたいよ? 部活中はキャプテンとして抑えてるのかも知らないけど、教室内じゃ、最近苛々してるよー、時枝」
「あー……」
「あー、じゃなくて。時枝もおたくの後輩でしょうが。隠しきれてない苛々が滲みだしててさぁ、気弱な男子が引け腰になってて、困ってるんだけど。夏休みも明けたら今度は文化祭だってのに」
あれだね、普段、優しげな顔してる奴の方が切れたとき恐ろしいよね、と。さらりと美作先生が言う。
「おまけに二人ともガタイも良いからさぁ、ちょっと手が出ただけでも、洒落にならない大ごとになりかねないよ」
「……それ、今度は俺に時枝の面倒看ろって言ってます?」
「いや? もう看てるだろうから、爆発しないように気を付けろって教室内の様子を教えてあげてんの」
正しく「ああ言えばこう言う」だ。
「真面目も真面目で大変だよね。おまけに時枝は外面が良いからね。悪い意味だけでもないけど、優等生の仮面を被らざるを得なくなっていると言うか。特にサッカー部の方じゃ、キャプテンだし、問題児もいるしで、余計溜まってるんじゃない? ストレス」
そりゃ、溜まりもするだろう、けれども。
「逆に、部活に関係ない美作先生がそれとなく話を聞いた方が、相談しやすいんじゃないですか」
「いやいやいや。あの子、佐野ちゃんに懐いてるから」
「……」
「あ、その顔。押し付けてるだけだって思ってるでしょ。本当だって、本当。時枝、クラスにいる時と、部活に出てる時の顔、全く違うから」
「当たり前でしょうが、それは」
身体を動かしている時と、勉強している時の顔が同じでたまるか。そうは思うが、気になっていたのも事実だ。俺にどうのこうのできるものでもないなと見守りに徹そうかと、あわよくばを狙っていただけで。
「予選の前にもちらっと気にしてたのは聞いたので、また、そう言う機会があれば」
このくらいの嫌味は許されてしかるべきだ。溜息交じりの了承に、嫌な顔をするでもなく、足取り軽く美作先生は出ていった。言質を取ったからか、クラスから留年を出さずに済みそうだからか、その両方か。
残すところあと十枚になったテストの採点に意識を戻す。学生だったころはテストが終わればそれですべてが終了だったが、教師の側に回ると、それからがまた大仕事だ。
――そう言えば、寮にいたころは、富原が良く勉強会だなんだって、頑張ってたな。
赤点を取れば試合に出られなかったのは、自分たちが学生だったころから変わっていないルールだ。
おまえも手伝えと頼まれて、何度か顔を出したことはある。けれど、大人数でやった勉強会よりも、何かの折に付け、折原の勉強を見てやっていた記憶の方がずっと鮮明だ。
――それも今思うと、わざわざ俺が見るようなもんじゃなかったと思うんだけどな。
ただの逢瀬の為の言い訳。言葉にしてしまえば恥ずかしいことこの上ないが、あの頃も、結局そうだったように思う。
そして、俺もそれが嫌だったことも、面倒だったことも、なかった。
最近、なぜか、昔のことを連想することが多くなった。もしかすると、ずっとそう言ったことはあったのかもしれないが、できるだけ長引かせないようにと、すぐに自分で幕を引いていた。その幕引きを止めたのは、今や未来を考えるにあたって、避けて通れない部分なのだとやっと心の底から思えたからなのかもしれない。
――このままで、が続くわけがないんだよな。
それもまた、十分に思い知ったことではある。いつまでも変わらない関係はない。あのころの俺は、自分の感情も折原のそれも、年をとるにつれ消えてなくなっていくものだと信じていた。
それがこうなるのだから、本当に分からないものだと改めて思う。人の感情どころか、自分の感情でさえも。
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