夢の続きの話をしよう

木原あざみ

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第十五話

80.

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【15】


「先輩」

 熱っぽい声に呼ばれてキスをされるたびに、理性がひとつずつ消えていくみたいだった。

「――先輩」

 まだ外も明るいだとか、ここがリビングのソファの上だとか。そう言った、些細なことが。どうでも良くなるような。
 差し込んでくる日差しが眩しくて瞬く。光の中で、一瞬ここがどこだか分からなくなりそうになった。衝動のまま貪り合っていた深山の懐かしい寮の部屋なのか、折原と生きていこうと選んだ日だったのか。

「どうか、しました?」

 囁くような声に、小さく首を振る。今の折原の顔に、知らずほっとする。ここは、間違えて迷いながらも、ふたりで選び取った今だ。

「昔のこと、思い出してた」
「昔のこと?」

 キスの合間の言葉遊びのようにして紡ぐ。始まりのころを。

「深山にいたころ。俺はずっと、おまえは俺に影響されたんだと思ってた」

 俺が先に手を出したから。こう言った関係もあるのだと教えたから。――俺が、折原のことを特別に思っていたから。それに影響されて、勘違いをしたのではないかと疑っていた。
 だから、時が経てば、消えていくのだろうと、そう思っていた。
 あるいは、そう思い込もうとしていた。
 卒業するまでの間だけだ。終わりを常に意識していないと、手放せなくなりそうだった。結局、無駄な抵抗だったわけだけれど。

「先輩らしいですけど」

 声を立てずに折原が小さく笑う。

「俺はそんなこと、思ってませんでしたよ」

 そうだろうな、と今なら思う。あのころも、認めたくなかっただけで、分かっていたのかもしれない。

「でも、……だから、先輩がいなくなったときはきつかったな」
「……悪かった」
「今更ですから、全部。それにもう良いんです」

 今の自分と未来を選んでくれるのならそれで、と。囁く声にたまらなくなったのは、消せない罪悪感からなのか。上向いてキスをすると、その顔がふわりと微笑む。

「これも今更ですけど。俺が富原さんに頭が上がらないのは、そのあたりが原因です」
「え?」
「最後の年だったのに、迷惑かけたなって。たぶん、人生の中で一番、二番を争うくらいに荒れてたので」

 そう言えば、昔、監督がそんなことを言っていたような記憶がある。けれど、俺は、やっぱりそれを上手く想像できなかった。そんなことくらいで、折原がどうにかなるわけがない。そう頑なに思っていた。

「俺だって、荒れることくらいありますよ。ちなみに」」
「ちなみに?」
「その次に荒れてたのは、ドイツに行く前です」

 それは、さすがに想像が付いた。

「知ってる」
「でしょうね。ついでにもう一つ知っておいてください」

 触れ合いそうな近さで、瞳が瞬く。

「俺は、先輩のことが好きです。あのころからずっと。あのころよりも、ずっと」
「……知ってる」

 そうでなければ、こんな風に優しく触れてきたりしないだろう。同じ男なのに。年上の、突出したところなど何もない、同性に。
 すべてがいとおしいと言うように、触れてくる人間を、俺は折原以外に知らない。

「先輩」

 その呼び方だけは昔から変わらないようにも思うのは、ある種の刷り込みなんだろうか。

「触って良いですか」

 覆いかぶさってくる影に真面目な顔で問われて、きょとんと見上げてしまった。

「それこそ、今更だろ」

 今まで散々キスをしていたくせに、何を言うのか。そう思ったのも顔に出ていたのか、折原が小さく笑う。

「でも、聞きたかったんです」
「我慢しなくて良いって言っただろ」

 好きにすれば良いとはさすがに言いづらかったのだけれど。

「それに、俺も嬉しい」

 その手に触れられると、たまらなく安心する。同時に、昔はすべてを捨てても良いような気になるから恐ろしくもあった。

「先輩」

 肌に唇を落としながら声が囁く。その声もあまりにも愛おしさが滲んでいるようで、気恥ずかしい。

「……なんだよ」
「好きです」

 そんな、嬉しそうな顔は反則だ。呆れたようにも思うのに、結局それもポーズだけで。触れたい欲求が高まった。自分だけを無心に好きだと言ってくる相手の手を、どうして放そうと思えていたのだろう。

「知ってる」

 告げ様、キスをすると、ふっとその瞳が微笑った。昔よくしたような、啄むようなそれから徐々に深くなっていく。
 受け入れて応える。熱い舌先がじんわりと口内を犯していく感覚に、痺れにも似た何かが走り抜けた。

 ――好きだ、と思った。

 昔、絶対越えないでおこうと思っていた一線を、今になって踏み越えていっているような感覚を覚えた。何故か、初めてこの家で肌を重ねたときよりも、ずっと強く。
 部室で、あるいは同室者のいない寮の部屋で、非常階段で。あふれ出す何かを誤魔化すように小さな接触を重ねていた残像が消えていく。叶っていいわけがないのだと頑なに信じ込んでいた塊と一緒に。
 一緒に居るべきではない。普通のレールから逸れるべきではない。だから、これは正しいことではない。そう考えていた、すべてから。

 手を伸ばして求めることを、やっと許すことができたと思った。初めて出逢ったころから、十年近くの月日が流れて、やっと。

「どこにも行くなよ、もう」

 飽きることなく繰り返すキスの狭間。零れた言葉は、ほぼ無意識だった。けれど、無意識だったからこそ、本音だったのかもしれない。
 そんな狭い世界で留まる男じゃないと分かっているのに。
 驚いたようにまじまじと見つめていた瞳が笑う。

「いつもいなくなるのは、先輩じゃないですか」
「……やっぱり、忘れろ」

 口を滑った台詞とこれまでの言動とを振り返らなくとも、居た堪れない。それなのに、やたらと嬉しそうに「忘れませんよ」と折原は口にする。

「俺は、もっと先輩にも甘えて欲しいくらいですから」

 おまえだって、俺に甘えたことなんてないだろう、と反射のように思った。年下のくせに。

「ある意味では甘えてると思うけどな」
「そうですか?」

 なにが、とは言わないが。折原の度量の広さには甘え続けているような気はしている。ずっと、待っていてくれたことも含めて。

「年下のくせに」
「……え? なんですか」
「おまえの方が年下のくせに、昔から、そうやって大人ぶる」

 俺も、良いか悪いかはさておいても「先輩」であろうとはしていたけれど。

「そんなの、必死だったに決まってるじゃないですか」

 何を今更と言わんばかりに微笑う。大人の男の顔で。

「必死だったんですよ、あのころからずっと、先輩の隣に立ちたくて」

 それは俺の台詞だと思った。ずっと、そう思っていた。恐らく、折原とは違う理由だっただろうけれど。

「……そうか」
「そうなんですよ。でも、だから。今、こうしてくれているのが嬉しいんです」

 先輩は、俺の隣に居てくれないんですよね。その未来に、先輩は居ないんですよね。深山の寮で聞いた声と、三年前に車の中で聞いた声。
 そのどちらをも覚えている。

「おまえは、変わってないようで変わったよな」
「それは変わりますよ。先輩だって、変わったでしょう?」
「少しは変わったかもな」

 それも折原に影響されてのことだと、十分に思い知ったけれど。

「でも、そうなってからで良かったです」
「何が?」
「再会したのが」

 微笑んで、続ける。

「大人になってからで良かった」

 あのころは先輩が卒業しなければずっと同じでいられる、なんて思っていたこともあったんですけど、と。でも、あのころは何もできなかったから、と。

「自分ですべてを選んで、戦うことも守ることもできますから」
「俺の所為か」
「違います」

 いやにはっきりと折原は否定した。

「俺の為です」

 そんなことはないはずだとも思ったけれど。
  
「矛盾ばっかりですよ。先輩に求めて欲しいとも思うし、選んで欲しいとも思う。そのはずなのに、いっそのこと、俺の選択に巻き込まれてくれるだけでも良いと思ってる」
「……折原」
「先輩がもういいって言ったら終わりにしても良いって、そうも思おうとしてましたけど。そう言わせないようにしてやりたいとも、思ってたし」

 言葉を区切って、ふっと笑う。迷うように。

「それでも、嫌になりませんか?」
「だから」

 多少呆れが滲んだ声になったけれど、それはもう大目に見て欲しい。

「ならないって言ってるだろ」

 そんなことくらいで嫌いになれるのなら、もっと早くに捨てている。十年も引きずらないうちに。

「たぶん、俺ね」
「……たぶん、なに?」
「先輩に嫌われたくなくて、嫌がられることもしたくなくて、だから、事前に言質を取りたくて、言い募ってんだと思う」

 性質が悪いと思わなくもなかったが、原因はと言われれば過去の自分にあるような気がするのだから、仕方がない。

「だから」

 同じ言葉を繰り返す。それで納得すると言うのなら、それもべつに良いのだけれど。

「好きにしたら良いって言ってるだろ」
「先輩は?」
「だから、なに」
「先輩は、どうが良いんですか」

 以前も似たようなことを言ってたなぁと思ったが、嬉しそうな顔を見ると、意地を張るのも馬鹿らしくなる。そう思えることも良いことなのだろうが。

「じゃあ、とりあえず」
「とりあえず?」
「脱いで」

 本当にとりあえず、とばかりに端的に告げる。一瞬、きょとんとした顔をしてから、折原が笑う。

「先輩、結構好きですよね、俺の身体」
「好きだよ」

 茶化す調子のそれに合わせきれないまま、本音で応えてしまっていた。

「おまえが頑張ってつくってきたものだろ。好きだよ、当たり前だろ」

 昔から変わっているところも、変わっていないところも、含めてすべてが。手を伸ばして触れる。その体温と心音に、一番強く感じるのは安堵だ。傍にいると言う事実に、ほっとする。

「変な感じはするけどな」

 こんな明るい場所で見ていることも、触れ合っていることも。零れた苦笑に、折原が僅かに首を傾げた。

「場所、変えましょうか?」
「あー……、いや」

 どうだろうなと考えている間に、言葉が続く。

「じゃあ、このままだったら、どこまで大丈夫ですか」
「どこ」
「最後まで?」

 腰に触れた指先に、びくりと視線が揺れる。

「でも、無理しなくても良いです、大丈夫」
「……折原」
「そう言う顔されると、困るんですけど」

 でも、と変わらない顔で笑う。

「我慢してるわけでも、無理してるわけでもなくて、大事にしてるだけです」
「甘やかしてる、の間違いだろ」
「そうかもしれません。でも、ずっと近くにいるわけでもないから」

 遠い、と思ったことは、俺だって一度ではない。けれど、それと同じだけ、逢いたいとも思っていた。触れたいとも、触れて欲しいとも。

「それこそ、先輩が、俺の近くにずっと居てくれるって言うなら、また違うんですけどね」
「……」
「すみません、忘れてください」

 困らせましたね、と折原が眉を下げる。もし、とどうしようもないことを思った。もし、例えば、俺が女だったら素直に喜べたのだろうか、と。プロポーズだとでも思えたのだろうか。
 ないな、と思った。ない。ある訳がない。そんな自分を想像できないし、そんな形を望んでいるわけでも、きっとない。
 けれど、忘れたいとも思わなかった。言葉の代わりに、引き寄せる。

「なんでもいい」

 今更、何をするに抵抗があるわけでもない。多少の覚悟はいるけれど、それだけだ。

「なんでもいいから」

 縋る調子になっていなければ良いと思いながら、繰り返す。

「先輩って、そう言うところ、可愛いですよね」
「……どこが」
「そう言う、なんだかんだ言って、俺のことが大好きなところ」

 その、自信の滲む顔を、なぜか久しぶりに見たような気がした。記憶の底に眠っていた懐かしい子どもと合致する。焦燥や、プライドや、そう言ったものが抜け落ちていくような、感覚。

「やっぱ、変わんねぇな、おまえ」

 最後にできなくなるからですか、と言った、退寮の日に見た顔も。
 俺のこと、好きだったでしょう、と言った、車中での顔も。
 変わっているのに、変わっていない。

「変わったって言ったり、変わらないって言ったり。なんなんですか」
「良いんだよ」

 苦笑じみた声に、自然と応じる。

「おまえはおまえなんだから、それだけで」

 べつに何をしなくても、一緒にいるだけで満たされるような心地になることも。触れ合うと、安心することも、幸せを覚えることも、だから恐ろしかったことも。
 そう言う意味では、昔から何一つ変わっていない。

「本当、ずるい」

 逃げてばかりだったころ、糾弾してきたのと同じ台詞を、全く違う声音で囁く。 

「そう言うことばかり、当たり前の顔で言うから」

 ずっと好きなままだ、と確かに言った。触れてくる指先の温度に、熱量に、身体が揺れる。求められることを嬉しいと思う。その相手が折原であることに安心もする。そのどちらもが本当で、けれど、べつの次元で、緊張もする。

「…………っ」

 ひらかれるためにそこを触れられるのは、あの夜以来、二度目のことで。太腿をなぞられて、身体が固くなる。その反応にだろう、気遣う声で折原が微笑う。

「怖い?」
「……その言い方」

 ずるいだろうと軽く睨む。怖いわけでもやめて欲しいわけでもないが、退路を笑顔で絶たれているように思えてならない。
 
「やだな、大丈夫ですかって確認してるだけじゃないですか」

 さらりと受け流されると、まるで俺が駄々をこねているみたいだ。黙ったまま頷くと、柔らかいキスが降ってくる。

 ――前のときも思わなくもなかったけど。

 それはそうだろうと分かっていながらも思う。慣れてるよな、と。
 昔、本当に昔の話だが、先輩ばっかり慣れてるみたいでずるいと見上げていたころもあったのに。

 さすがに、おまえは本当に可愛くなくなったな、だなんて。嫉妬しているようなことは言わないけれど。

「あぁ、でも」

 声とともに、濡れた指先がゆっくりと押し入ってくる。まだ一本目だと分かっているのに、圧迫感に息が詰まる。

「やっぱり、きついな」
「っ……当たり前、だろ」

 むしろ、三ヶ月ほど前に一度しただけで、簡単に柔らかくなるものなのだろうか。

「自分で触ったりとか、しないんですか?」
「――は? なにが」 
「いや、そこが癖になる人も多いらしいですよ」

 当たり前の顔でよく分からないことを言って、指先を奥へと進めていく。これが、癖になるってか。知識としては、何かで見たような気もするけれど。実感としてはやっぱりよく分からない。

「っするわけ、ない」
「じゃあ、今度、教えてあげます」

 何の他意もないような顔で微笑まれると、どうでも良いような気がしてしまう。

「なんなの、おまえ……」
「なにって。十年我慢した分、いろんな先輩が見たいだけです」

 十年。言葉にすると途方もないのに、気が付けば、こんな年になっていたようにも思うから不思議だ。

「なら、もう、いいけど」

 一緒に重ねていない時間の方が、ずっと多い。その隙間を埋めたいのは、たぶんお互い様だ。

「先輩」

 そんなに触れなくても良いのに、と思うくらい、折原は身体の至るところにキスを落とす。

「だから、あんまり緊張しないで」
「……してねぇよ」
「じゃあもっと力抜いて、リラックスして」

 その仕草も声も、戸惑いそうになるほど優しい。嬉しいと確かに思う反面、居た堪れないとも思うのは、最後に残るプライドなのだろうか。

「怖いものでもおかしなことでもない、気持ちの良いものなんだって知ってください」

 なんで、そうして。
 俺自身でさえも気付いていないような、あるいは見ようとしていなかったものを、簡単に口にして、なんでもないと言ってみせるんだろう。

 ――だから、嫌なんだ。

 敵わないと、思い知らされるから。

「……分かってる」

 分かりたいと、願っている。
 不安にさせないためにも。言い切ってしまいたかった。

「っーー、ぁ……」

 じんわりとひらかれ、広げられている感覚に汗が浮かぶ。そんなに丁寧にしなくてもいい、大丈夫と言う台詞は、三回聞き流されたところで諦めた。 

「大丈夫ですか?」
「……っ、だから、大丈夫だって言ってるだろ」

 あまり辛いような声も出したくなくて、ひっそりと息を吐き出す。
 我慢できないほど苦痛を感じるわけではない。戸惑いを隠さないのは、違和感からと言う方が大きい。

「っ、……それ」

 響く水音に、居た堪れなさが募る。理性を振り切ってしまえるようなことがあれば、また違うのかもしれないが、ただただ恥ずかしい。

「だーめ。恥ずかしいだけなら、やめません」
「おりは……っ、ん」
「気持ち良くなって欲しいだけです」

 宥める調子でキスをして、触れて。どこのたらしだよと思うのも本当なのに、絆されてしまう。

「……おまえは、いつもそうやって」
「いつも、なんですか?」

 受け流すような、あるいはすべてを受け入れるような。声に舌打ちをしたいような気持ちで絞り出す。

「恥ずかしげもなく、口にするから」

 どうしたら良いのか分からなくなる、とはさすがに言葉にはしなかったけれど。
 伝わってしまっているのか、折原が小さく笑みを落とす。その顔が、なぜかやたらと色気を含んで見えて、腰が重くなる。
 ゆっくりと解され、ひらかれたそこは、たった一度感じただけの熱量をしっかりと覚えていて、そして欲しがっている。
 こんな感覚、知らなかったはずなのに、怖いとは思わなかった。
 好きなんだなと、ただ思った。 

「……っ……」

 ぞくりと這い上がってくる感覚に、小さく声を呑んだ。内側をなぞられる感触に、異物感や圧迫感だけではない何かが生じる。

「怖いことじゃないですよ」
「だか、ら……誰もっ、ーー」

 そんなことは言っていないだろうとの反論も喉の奥で消えた。無意識に違う声が喉を突きそうで。
 視線の絡んだ瞳が笑みをかたどる。

「声」
「……声?」
「我慢しないで」

 強請るような甘い調子に、羞恥で顔が赤くなったのを自覚した。

「聞きたいんです、俺が」
「っ、無理……」
「無理じゃないですよ。良いじゃないですか、今更。恥ずかしがらなくても」

 何が今更だと言ってやりたい。この間は、初めては、ただただ必死だったのだ、これでも。
 今回は、それに比べると精神的にも肉体的にも余裕があるだけ、羞恥が生まれているような気がする。

「――ぁ、っ……」

 ぐり、とえぐる指先の動きに、痺れが走り抜ける。唇を噛んで声を殺したのは、ほとんど無意識だったのだけれど。

「ふ、……ぁ…ん」

 咎めるように唇を舐めた舌先が、そのまま歯列を割って口内に入ってくる。開いたそこから漏れた声は、頼りなく甘い。

「かわいい」

 耳元で囁く声に、びくりとまた身体が揺れる。酸欠気味の頭で、それでもと小さく睨めば、「好きなんですよ」と、なんでもない調子で笑う。

「先輩の声。ずっと聞いていたいくらい」

 こんな男の声のどこが良いのか。呆れるように思う反面、俺が折原の声を好きだと感じるのと同じ理屈なのかと考えれば、理解できるようにも思えた。

 ――好き、か。

「っ――、あっ……」

 零れる吐息の熱さを誤魔化すようにして首を振る。じわじわと、けれど着実に高められていく感覚に、逃げ出したくなる衝動をぐっと堪える。

「もう、…っ良い……から」

 これ以上を指先だけで追い詰められることが堪らなくて、腕に手を伸ばす。

「良い、から」
「良いから?」

 どうして欲しいのか言ってみろと言わんばかりに繰り返されて、指先に力が入った。
 羞恥と意地と、知ってしまった快感と理性と。狭間で揺れたまま、音にする。

「っ、おまえの好きに、して良い」
「先輩」

 仕方ないと応じるように声が柔らぐ。

「前も思いましたけど、それ、すごい殺し文句ですよ」

「……え?」
「分からないなら分からないで良いですけど」

 殺し文句が何を指しているのか分からないで眼を瞬かせる。

「言わないで下さいね、俺以外の誰にも」

 注ぎ込まれる声の熱さにどきりとした。こんなことをする相手も、望む相手も、ひとりしかいないのに。

「おり……っ」

 内部を押し広げていた指が、ずるりと抜き取られたと思った次の瞬間。感じたのは比べものにならない衝撃だった。
 反射的に上に逃げを打とうとした身体を、大きな掌が押さえる。

「先輩」

 その声に、詰めていた息を吐き出すことを思い出した。

「動いて良いですか」

 その言葉に、身体が小さく震えた。

「っ、ちょ……っと、待っ――!」

 すみません、と謝る声を認識したときには、突かれたまま、揺さぶられていて。
 指が擦っていた刺激とは段違いの圧力に、意識するよりも先に声が出ていた。

「ねぇ、気持ち良い?」
「――っあ、……あ、ん」

 気持ち良いかどうかなんて、男の身体には誤魔化す術も隠す術もない。
 挿入の衝撃で萎えていたそこも、今は緩やかに天を向いている。

「っ、――……!」

 深く抉られて生じた快感が、身体を突き抜ける。前回とは違う怖さは、未知への不安なのかもしれない。
 目の前が白くなるような快感を感じたのは、初めてで、けれど与えられる全てが初めてだった。

「待っ…て、て……」

 押し寄せる刺激と快感に、追いつかない頭が必死で静止を求めている。
 詰めた吐息の合間に訴えると、熱ぼったい声が落ちてきた。

「すみません」

 かたちばかりの謝罪とともに揺さぶられて、名前を呼びかけた声が途切れる。

「でも、待てない」

 その声に、知らず閉じていた眼を開ける。俺しか映っていないのだと勘違いしたくなるそれが歪む。どこか泣き出しそうに。

「先輩を、ぜんぶ俺のものにしたい。俺だけのものでいて欲しい」

 どうしようもないと思い知った。この十年、どうやっても記憶から消えなかったのに。
 忘れようと思っても忘れられなくて、捨てようと思っても捨てられなくて。そして、結局、遠回りを繰り返して、ここに戻ってきているのに。

 ――なのに、それを、そんな顔するなよ。

 安心したら良いと、好きにしたら良いと、告げる代わりに、その背に手を伸ばす。
 汗ばんだ肌から伝わる体温に、安堵する。それが自分だけでなければ良いのに、とも願った。
 先輩と呼ぶ声が、身体の奥底にまで染み込んでくる。
 深く繋がっている苦しさと、その中に潜む快感と。そして、疑いようのない幸福。

 この時間が、ずっと続けば良いとも、そんな馬鹿みたいなことすら思うほどに。
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