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第十六話
82.
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【16】
「おまえにかけられる迷惑なんて、可愛いものだ」
だから気にするな、とおおらかに告げて寄越す声。それが、面倒をかけて悪かったなと謝ったことへの旧友の第一声だった。
面倒見が良くて、お人好し。その性格が災いして、昔から貧乏くじを引いてばかりだった。そんなことまで連想してしまって、うっかり笑いそうになる。堪えたつもりだったのだが、電話越しに伝わったらしい。富原が呆れた調子で嘆く。
「気にはしなくて良いが、心配してたのは事実だからな。そこのところは覚えておいてくれてもいいと思うぞ。おまえたちは二人そろって昔から俺にばかり面倒事を押し付けるだろう」
「いや、あいつはしないだろ」
それこそ昔から折原は富原を慕ってはいたけれど、後輩としての節度はしっかりと守っていた。面倒事を引き受けるならともかく逆はないだろう。
俺は押し付けていたかもしれないが。
あっさりと否定した俺に、富原が深々と溜息を吐いたのが分かった。
「おまえ、俺がどれだけあいつに面倒を……、いや、まぁ良い。おまえに余計なことを言うと、また煩くやられる」
気になる言い方をされた気もするが、まぁ良いかと思うことにする。富原と折原は付き合いも長いから、俺には分からないところもあるのだろう。
「そう言えば、監督はもう大丈夫なのか?」
「問題ないって本人は言ってるけど。俺らが現役だったころに比べると悪いみたいだな」
「まぁ、あの人も年だしな」
本人には言うなよ、と当たり前のことを釘指してきた富原に、分かってると応じて、次の言葉に、少し悩む。
――富原に相談したこともあまりなかったな。
どうでも良いようなことは学生だった当時も話していただろうけれど、重要なことは口にはしていなかった。
そう言う意味では、折原とのことを話すことができたのも変化だったのかもしれない、と、今になって思い至った。
「なぁ」
「なんだ?」
「俺って、指導するの、向いてると思う?」
「なんだ、いきなり」
唐突さを笑った後で、揺るぎない声があっさりと判じる。「向いてるとは思うけどな」
「佐野は基本的に公平だから。向いてると思ってなかったら、中学の時も副部長を任せたりしなかった」
「……同室で連絡相談が楽だからってだけだろ」
「そこは相変わらずなんだな」
「なにが?」
「自己肯定感の低さ」
むしろ自分のことを客観的に見ているからこそ出た台詞だったのだが、そう主張しても富原は笑うだけで。
「あの折原にあれだけ好かれてるんだ。そこを理解できたと言うなら、もう少し自分も信じてみたらどうだ?」
「……」
「良い男だろう、あいつは」
そんなこと、念押しされなくても、俺が一番よく分かっている。
「まぁな」
向いているとは思うが、ともう一度笑って繰り返してから、富原が続ける。
「勿論、俺に相談してくれるのも嬉しいがな、あいつにもちゃんと持ち掛けてやれ」
「……そうだな」
「二人で決めていくべきことが山積みだろう。苦手から逃げられなくなったな」
ちゃんと話し合って、決めていくこと。向き合っていくこと。何かあったとしても、立ち向かっていくこと。
それらを総括して「苦手」だと評されれば、苦笑しか出来ない。
「でも、結局、あれだな」
「なんだよ」
「おまえは一生、サッカーからも折原からも離れられないわけだ」
笑いながら告げられた台詞に、鮮やかな白が思い浮かんだ。退寮する日。折原を突き放した日。あの日、俺はサッカーからも折原からも逃げたいと確かに願っていた。
どうにもできないから、と。
そう思うと、あの日の延長線上にいるはずなのに、ひどく遠いところに来てしまったような気がする。
望んではいけないと思っていた、けれど、心の奥底で願い続けていたのだろうところへ。
「受け取り方に悩むな」
「素直に受け取れ。おまえらしいと言っているんだ」
俺らしいと言うことがどう言うことなのか、自分でも良く分からないが、富原が言うなら、悪いことではないのだろう。
「ついでに、多少は安心もした。まぁ、なんだ。どうせおまえはまた悩むんだろうが」
「……どうだろうな」
「そうに決まってる。おまえの面倒臭い人間性がそう簡単に変わってたまるか」
言い切られてしまうと反論してしまいたくなるが、それもきっと事実には違いなくて。
「とは言え、それと向き合えたなら、今後もそうしていけば良いだけだしな。おまえがどれだけ面倒臭かろうと放り出さない折原に感謝して、精々、一緒に悩め」
「そうだな」
「それでももしどうにもならなくなったら、背中くらい押してやる」
それはまた、幸せで有り難い話だなと心から思えた。昔は、その声に背を押されることが、本音を突き付けられるようで恐ろしかったのだけれど。
それも、きっと良い風に変わったと言うことなのだろう。あの頃から、時間は馬鹿みたいにかかったけれど。
電話を切って、ふと思い立って、クローゼットに入りっぱなしになっていた小さな段ボールを取り出した。
大学を出て深山で教鞭をとるとなったときに、母親が実家から送り付けてきたものだった。
全部、捨てたままにしておかないで、少しくらい手元に置いておきなさい、と。
あなたの大事な頑張った想い出でしょうと押し付けられたそれは、深山のサッカー部に在籍していたころの写真や賞状が入っているらしかった。
らしい、と言うのは今まで開けようと思えず、確認していないからだ。けれど、捨てようとも思いきれず、何年もそのままに眠っていた。
箱を開けることに対する躊躇は、不思議なほどなかった。きちんと飲み下せている事実にも安堵しながら、手を伸ばす。記憶と一緒にずっと眠らせていたものだ。
一番上にあった写真立てを手に取る。中等部を卒業するときに記念品として貰ったものだった。入っているのは全国大会に出場したときの集合写真だった。
一気に懐かしさが増して、指先でなぞる。ここに映っている全員が高等部に進学したわけでもないし、今も選手としてサッカーに関わっている人間は、本当に一握りだ。
それでも、このころを楽しかったと思える。辛いことも、あったけれど。
幼い顏の自分の隣で、同じくらいあどけない顔の折原が笑っている。その顔をなぞって、こんな顔だったなと思い出した。
勝つのが当たり前で、一緒に居るのが当たり前で、毎日が楽しいと言う顔をしていて。人の中心にいるのが人一倍似合うくせに、なぜかいつも近くにいた。
俺が中等部を卒業するときは、他の同級生が拍子抜けするくらい折原はあっけらかんとしていた。
高等部で待っていて下さいね、と笑って見送って、それで終わりだった。
「――待ってたんだろうな、ずっと」
たぶん、ずっと待っていたのだと思う。自分からは動けないくせに、来るのが当然だとどこか傲慢にも思いながら。
だから、今は俺の番で良いのかもしれない。
――ドイツにも、行きたいけどな。いつかは。
折原が戦っている場所を、生活している場所を、知りたいとは思うけれど。まずは、自分の基盤を固めないといけない。
明日は、県大会の準決勝だ。
なんとかベスト4には残れたと監督も多少はほっとしていたようだったけれど、よくあの夏の状態からここまで持ち直したものだと俺も驚いた。
技術だけではなく、心理的な面が結果に影響を大きく及ぼすのは、部活だからこそではあるのだろうけれど。
だからこそ、魅力が尽きないのだろうなとも思う。プロ選手になる生徒ばかりではない。大学進学後に大学リーグでプレイをする生徒ばかりでもない。
負けた瞬間が、サッカーに関わる最後になる生徒もいる。
サッカーと本気で向き合っていたと言う、記憶は残るのだろうけれど。誰の中にも、きっと。
「生徒にとっては次はないが、指導者からすると、全部を次に活かしていかなければならん」
部員たちのいなくなった監督室で、独り言ちるように監督が言った。
「有り難い話だが、身の締まる話でもあるな」
「……そうですね」
「すぐにまた春が始まる」
結局、準決勝の一戦が、今年のチームの最後の試合になった。
三年生は卒業して、主軸が変わる。チームの空気も良くも悪くも変わるだろう。新入生も入って来る。
今になってだからかもしれないが、あっと言う間だったなと思った。折原とこの学園で再会したのは、春だったのだ。
「そう言えば」
思い出して、告げる。
「折原が見に来たがってましたよ、国立」
「だったら、来季の国立の為に、また学園の方にでも来てもらうか」
「監督から誘えば喜んでくるんじゃないですか。冬休みも部活はありますしね」
「いや、……まぁ、そういうことにしておくか」
含みのある言い方が、まるで富原みたいで、首を捻りたくなった。なんでみんな揃って似たような濁し方をするのだろう。
「それはさておいても、今年はおまえには面倒をかけたな」
「あぁ、いえ」
それが何を指しているのかは分かったけれど、本当に俺は何もしていない。全部、生徒たちが解決したことだ。
「俺は何も。部長を筆頭に頑張った結果でしょう」
大人が出来ることなんて、きっとたかが知れている。あの時期には、あの時期の子どもにしか見えない世界がある。導いてやるなんて大層なことは口が裂けても言えないし、実際、本当に何もしていないので、労わられても据わりが悪い。
「……そういうことにしておくか」
「実際、そうなんです。卒寮までもあと少しですしね、三年生は」
最後に寮は騒がしくなることだろう。高等部の下級生たちも卒寮のパーティーの準備を進めているころだ。
そして、それが終われば、新しい寮生が入って来る。
高等部の寮で入れ替わりを経験したのは、俺は一度だけだ。その一度、折原が入ってきたときに、来ると知っていたはずなのに嬉しかったことを覚えている。
一番最初に声をかけてきた姿に、ほっとしたことも。
「来年は来年で面倒をかけるとは思うが、よろしく頼む」
「……こちらこそ」
公立高校とは違って、私立の深山は自分から辞めない限り移動はない。自分を育ててくれたサッカーと言う競技と、これからも関わっていけることは、俺にとっても幸せなことなのかもしれない。
学ばなければならないことは沢山あるけれど、それがここの為になるのなら、さほどの苦でもない。
俺は、なんだかんだと言っても、この学園が好きなのだと思う。
この学園で過ごした、あの頃の記憶も、今、ここで教師として関わっている生徒たちのことも、大事に考えているのだと、思えるようになった。
「未熟者ですが、よろしくお願いします」
できることを少しずつ増やしていく。それはここで学んでいたころから変わらない、成長の在り方だ。そんな風に前向きに仕事を捉えられるようになるとも、最初は思っていなかったような気もする。
外は、もう真っ暗だった。
高校生だった頃は毎日のように歩いていた道だ。練習を終えて、部室に、そして寮に。大きな改修の入っていない学園は、あの当時とさほど大きく変わっていない。
駐車場へと向かう手前、サッカー部寮の前で足が止まる。見つけてしまった人影は、玄関の石段に腰かけている。
――十時、か。
誰だかは知らないが、今日のことを思えば、放っておいてやりたい気もするけれど、少々、遅い。
仕方ないか、と、寮へと進む方向を変える。思えば、ここに来るのも久しぶりだ。近づくと、外灯の明かりで誰だか分かった。向こうも足音で気が付いたらしく、ぱっと顔が上がる。
「先生」
「……何やってんだ、こんな時間に」
まだ子どものくせに、すぐに表情を取り繕おうとするところは、あの頃の富原に通じるものがある。いつもどっしりと構えてみせることで、周りを安心させることに長けていた。
それも性格なのだろうが、無理をしているときもあるのだろう。当たり前の話ではあるけれど。
今日も立派なキャプテンだったからこそ、余計に。
「一人になれる場所がないから、中は」
すぐに戻るから見逃して、とよく見る顔で笑う。確かになと、寮の内部が蘇る。俺たちがいた頃よりは手が入って綺麗にはなっていたけれど、広さまでは変わっていない。
「今も相部屋のままなんだな」
「そう。まぁ、同室も良いヤツだし、楽だけど、一人になりたいときもあると言うか。先生もあったでしょ?」
「まぁ、なかったとは言わないけど」
「良い逃げ場所とかあるんなら、聞いとけば良かったな。もう終わりだけど」
終わり。高校でのサッカーは、今日で最後だ。中等部から数えれば六年。それが長いのか短いのか、俺には今も良く分からない。
あっと言う間だと言うことは簡単だけれど、当事者にとってはそうではない。
「非常階段」
「え?」
「あそこは結構、穴場だった」
俺が、と言うよりかは、折原が、そう言う場所を見つけるのが抜群に巧かったのだけれど。
――あいつ、愛想良かったからな。
俺が知らないような話をいくつも知っていたのは、上級生からの受け売りだったのだろうが、その恩恵を受けていたのは、聞いてきた本人よりも俺の方だったような気もする。
「そういや、作倉が前に煙草吸ってたな」
「聞き流しづらいことを言うな、頼むから」
「時効ってことにして下さい。最近は吸ってなかったから」
「言いたかないけど、下手しなくても謹慎だからな。と言うか、大会出れなくなるからな」
「なんで学校の部活って連帯責任が好きなんだろうね。他の奴は真面目にやってても、馬鹿みたいなことで割を食う」
その割を一番食っていただろうキャプテンが、苦い顔で笑う。
「それでも、そのみんなが居ないと出来ないんだから、チームスポーツって嫌だね」
「……そうだな」
「ねぇ、先生。先生は忘れるのにどのくらいかかった?」
「時枝は大学もサッカーするんだろ?」
「するけど。そう言うことじゃなくて。分かってるでしょ」
「人によるだろ、それは」
高校ですべてに区切りをつけるやつもいるだろうし、しばらく競技に触れたくないと思うやつもいるだろう。
二度と触れたくないと思っていたはずが、いつかまた手を伸ばすやつもいる。
「それは、そうだろうけど。酷いなぁ、先生。もうちょっと傷心の主将を慰めてくれても良いじゃないですか」
「十年」
我ながら、執念深い年数だと思う。辞めた直後の俺は、自分で言うのもなんだが、相当病んでいた気がする。
「十年経って、やっと、おまえらのユニフォーム姿を素直に可愛いなと思って見れるようになったよ」
「……長い」
「だから人によるって言っただろ。まぁ、時枝が落ち込むのも悩むのも、それだけ頑張って来たってことなんだから、好きなだけ落ち込んだら良いと思うけど」
どちらにせよ、離れない道を選んだのだ。環境が変わったら、徐々に徐々に薄らいで、新しい刺激でそれどころじゃなくなっていく。
「こういう言い方をするのはなんだけど、またすぐに新しいチームが始動するだろ」
「まぁ、そうですけど」
そうじゃないことくらい当たり前に分かっているだろう、と言わんばかりの調子を聞き流して肩を竦める。
薄れていくだろういつかは、本人次第だし、周囲の人間とのかかわり方次第でもあるように思う。とは言え、無理をして急に変わろうとする必要もない。
「時間薬だろ、結局。大学に入ったら忙しいぞ、多分」
「多分なんだ」
「俺は大学ではやってないからな。同期では何人かやってたけど、――あぁ、富原もか」
「富原選手? あぁ、そうか。大学出てからプロなんだっけ」
高校を卒業するときにプロの誘いが来ていたのかどうかは知らないけれど、大学在学中に、J1のチームから声がかかってプロの道に入ったのは事実だ。
「大学出てからプロに入ってる選手も多いから」
目指したいのなら、と言う話ではあるけれど。
「なんか、全然、考えられないな」
「まだ先の話だからな」
大人と違って無数に将来への道が広がっていることは、子どもの特権だ。
「いろんなことを経験して、ゆっくり考えたら良いよ」
ずっと昔。折原と再会してしばらくしてから、この学園に連れてこられたことがあった。そのときに、監督がかつての教え子であった俺に言ってくれたのと同じような台詞を、今、こうして自分が口にしていると思うと、何とも言えない感慨があった。
あのころは、その中からたった一つを選び取ることが、どうしようもなく怖かった。
「ゆっくりか」
「今は考えられなくても当たり前だってだけだ。続けたかったら続けたら良いし、辞めたかったらそれはそれで、一つの道だとは思うけど」
言ってしまってから、さすがに辞めても良いは推薦で入学の決まっている人間にはまずかったかと思ったが、どうせ辞めれないのだ。
「確かに。次は大学でレギュラー取らないと、だしなぁ。そんなことも言ってられなくなるかも、春になったら」
「適度に頑張れよ」
「適度にって、普通に頑張れよって言ってよ、そこは」
「上手く抜きどころ、見つけれるようにしろよ」
熱心なのは良いことだが、それで故障でもしたら眼も当てられない。当人が一番分かってはいるのだろうけれど。
「先生」
「ん? なに?」
「大学、楽しかった?」
「あー……、まぁ、俺は部活はしてなかったしなぁ。所謂、普通の大学生活だったけど」
「普通って?」
「サークルで遊んだり、バイトしたり、合間に講義受けたりって、そう言う」
今思えば、それもすべて楽しかったのだろうけれど。その生活の内の半分以上にあの後輩が絡んでいるのだと思うと、やはり不思議だ。
住む世界が変わったつもりで、すべての縁を断ち切ったつもりで、けれど、そうではなかった。
「まぁ、でも、楽しかったかな。今も普通に連絡取ってるし」
「へぇ」
「世界が広がるのも、事実だな」
終わりのない説教のようなことを言っているなぁと我ながら思うが、締めどころが今一つ分からない。
自分のことすら覚束ないのだから、ある意味では当然なのかもしれないけれど。
「家の親も似たようなこと言ってた」
俺も言われたな、そう言えば、と思ったが、口にする代わりに、「早く寝ろよ」と言い聞かせる。
寮監も今日くらいは大目に見てくれるかもしれないが、限度はあるだろう。
「先生は、世界が広がったから、『先生』になった?」
「……どうかな」
最後に、と訊かれたそれに少し言い淀む。この道を選んだ大層な理由は俺にはない。後悔はしていないけれど。
「世界が広がって、いろんな選択肢が見えたところで、サッカーが好きなんだとは思い知ったかな。だから、ここに戻ってきたのかもしれない。今になって思えば、だけど」
大学に進学した当初から、今のこの道を選ぶつもりだったわけではない。いろんなことがあって、悩むことがあって、その度に、誰かしらが手を差し伸べてくれることもあって。
そうして、戻ってきていた。
「離れられないものなのかな、そうやって」
「人に寄るとは思うけどな、本当に。でも、俺の同期も仕事で関わってる奴はそんなにいないけど、社会人サークルでボール蹴ってたりはしてるから。そう思うと、趣味にしろ、仕事にしろ、何かしらで関わり続けてるのかもな」
「そうなのかも」
苦笑して時枝が立ち上がる。答えを出すのは自分自身で、そしてそれが一朝一夕に出るものでもないと考えているところが、なんとも「らしい」。
「結果が出ようが出まいが、嫌いになれないって厄介だね」
「それだけ夢中になれるものがあるのも、良いことだと思うよ。その分、苦しいこともあるだろうけど」
「それって、経験談?」
「……そうかもな」
「そっか。だったら信用しようかな。なんだかんだで先生にも三年間面倒見てもらったし」
「見てないだろ。むしろ、いろいろと押し付けて悪かったな」
そう言うことはしない方が良いと分かってはいるが、時間の制約があるとつい楽な生徒に頼ってしまう。部長だと言うことを差し置いても、面倒事をついつい頼んでいた記憶が今更ながらに蘇ってきた。
「悪かったな、三年間。俺としては助かったけど」
「助かったんだったら良いよ、べつに。慣れてるから」
「おまえ、大学行っても胃に穴開けないようにしろよ」
かつての同室者の顔が浮かんで、つい言ってしまった。あの男はあれでいて図太かったけれど。
「大丈夫ですって。それに、きつくなったら、こっちに顔出しても良いんでしょ」
「まぁ、……そうならないのが一番だけどな」
「でも、いざと言うときに思い浮かぶ逃げ場があるのは良いことじゃないですか」
「それはそうだな」
逃げる先があると言うことは生きていく上で重要なことだ。自分にもそれがあると理解できていることも。
「寝ろよ、いい加減」
「そうします」
先生も、と続けたその背が寮の中へと消えていくのを見送って、来た道を戻る。すっかり遅くなってしまったが、明日は日曜だ。朝も早くないのだから、べつに構わない。
――そう言えば、連絡しとかないとな、折原に。
少し前に話したときも、県予選のことを気にかけてくれていた。大会に出場しようがしまいが、帰国してくることに変わりはないだろうが、予定は変わるだろう。
――帰ってきたら帰ってきたで、顔出すところだらけだから大変だよな。
それも滅多に帰国しないのだから、当たり前のことではあるのかもしれないけれど。その中で、俺に逢う時間を優先してつくってくれているのだろうから、有り難い話だとは思ってはいる。
「おまえにかけられる迷惑なんて、可愛いものだ」
だから気にするな、とおおらかに告げて寄越す声。それが、面倒をかけて悪かったなと謝ったことへの旧友の第一声だった。
面倒見が良くて、お人好し。その性格が災いして、昔から貧乏くじを引いてばかりだった。そんなことまで連想してしまって、うっかり笑いそうになる。堪えたつもりだったのだが、電話越しに伝わったらしい。富原が呆れた調子で嘆く。
「気にはしなくて良いが、心配してたのは事実だからな。そこのところは覚えておいてくれてもいいと思うぞ。おまえたちは二人そろって昔から俺にばかり面倒事を押し付けるだろう」
「いや、あいつはしないだろ」
それこそ昔から折原は富原を慕ってはいたけれど、後輩としての節度はしっかりと守っていた。面倒事を引き受けるならともかく逆はないだろう。
俺は押し付けていたかもしれないが。
あっさりと否定した俺に、富原が深々と溜息を吐いたのが分かった。
「おまえ、俺がどれだけあいつに面倒を……、いや、まぁ良い。おまえに余計なことを言うと、また煩くやられる」
気になる言い方をされた気もするが、まぁ良いかと思うことにする。富原と折原は付き合いも長いから、俺には分からないところもあるのだろう。
「そう言えば、監督はもう大丈夫なのか?」
「問題ないって本人は言ってるけど。俺らが現役だったころに比べると悪いみたいだな」
「まぁ、あの人も年だしな」
本人には言うなよ、と当たり前のことを釘指してきた富原に、分かってると応じて、次の言葉に、少し悩む。
――富原に相談したこともあまりなかったな。
どうでも良いようなことは学生だった当時も話していただろうけれど、重要なことは口にはしていなかった。
そう言う意味では、折原とのことを話すことができたのも変化だったのかもしれない、と、今になって思い至った。
「なぁ」
「なんだ?」
「俺って、指導するの、向いてると思う?」
「なんだ、いきなり」
唐突さを笑った後で、揺るぎない声があっさりと判じる。「向いてるとは思うけどな」
「佐野は基本的に公平だから。向いてると思ってなかったら、中学の時も副部長を任せたりしなかった」
「……同室で連絡相談が楽だからってだけだろ」
「そこは相変わらずなんだな」
「なにが?」
「自己肯定感の低さ」
むしろ自分のことを客観的に見ているからこそ出た台詞だったのだが、そう主張しても富原は笑うだけで。
「あの折原にあれだけ好かれてるんだ。そこを理解できたと言うなら、もう少し自分も信じてみたらどうだ?」
「……」
「良い男だろう、あいつは」
そんなこと、念押しされなくても、俺が一番よく分かっている。
「まぁな」
向いているとは思うが、ともう一度笑って繰り返してから、富原が続ける。
「勿論、俺に相談してくれるのも嬉しいがな、あいつにもちゃんと持ち掛けてやれ」
「……そうだな」
「二人で決めていくべきことが山積みだろう。苦手から逃げられなくなったな」
ちゃんと話し合って、決めていくこと。向き合っていくこと。何かあったとしても、立ち向かっていくこと。
それらを総括して「苦手」だと評されれば、苦笑しか出来ない。
「でも、結局、あれだな」
「なんだよ」
「おまえは一生、サッカーからも折原からも離れられないわけだ」
笑いながら告げられた台詞に、鮮やかな白が思い浮かんだ。退寮する日。折原を突き放した日。あの日、俺はサッカーからも折原からも逃げたいと確かに願っていた。
どうにもできないから、と。
そう思うと、あの日の延長線上にいるはずなのに、ひどく遠いところに来てしまったような気がする。
望んではいけないと思っていた、けれど、心の奥底で願い続けていたのだろうところへ。
「受け取り方に悩むな」
「素直に受け取れ。おまえらしいと言っているんだ」
俺らしいと言うことがどう言うことなのか、自分でも良く分からないが、富原が言うなら、悪いことではないのだろう。
「ついでに、多少は安心もした。まぁ、なんだ。どうせおまえはまた悩むんだろうが」
「……どうだろうな」
「そうに決まってる。おまえの面倒臭い人間性がそう簡単に変わってたまるか」
言い切られてしまうと反論してしまいたくなるが、それもきっと事実には違いなくて。
「とは言え、それと向き合えたなら、今後もそうしていけば良いだけだしな。おまえがどれだけ面倒臭かろうと放り出さない折原に感謝して、精々、一緒に悩め」
「そうだな」
「それでももしどうにもならなくなったら、背中くらい押してやる」
それはまた、幸せで有り難い話だなと心から思えた。昔は、その声に背を押されることが、本音を突き付けられるようで恐ろしかったのだけれど。
それも、きっと良い風に変わったと言うことなのだろう。あの頃から、時間は馬鹿みたいにかかったけれど。
電話を切って、ふと思い立って、クローゼットに入りっぱなしになっていた小さな段ボールを取り出した。
大学を出て深山で教鞭をとるとなったときに、母親が実家から送り付けてきたものだった。
全部、捨てたままにしておかないで、少しくらい手元に置いておきなさい、と。
あなたの大事な頑張った想い出でしょうと押し付けられたそれは、深山のサッカー部に在籍していたころの写真や賞状が入っているらしかった。
らしい、と言うのは今まで開けようと思えず、確認していないからだ。けれど、捨てようとも思いきれず、何年もそのままに眠っていた。
箱を開けることに対する躊躇は、不思議なほどなかった。きちんと飲み下せている事実にも安堵しながら、手を伸ばす。記憶と一緒にずっと眠らせていたものだ。
一番上にあった写真立てを手に取る。中等部を卒業するときに記念品として貰ったものだった。入っているのは全国大会に出場したときの集合写真だった。
一気に懐かしさが増して、指先でなぞる。ここに映っている全員が高等部に進学したわけでもないし、今も選手としてサッカーに関わっている人間は、本当に一握りだ。
それでも、このころを楽しかったと思える。辛いことも、あったけれど。
幼い顏の自分の隣で、同じくらいあどけない顔の折原が笑っている。その顔をなぞって、こんな顔だったなと思い出した。
勝つのが当たり前で、一緒に居るのが当たり前で、毎日が楽しいと言う顔をしていて。人の中心にいるのが人一倍似合うくせに、なぜかいつも近くにいた。
俺が中等部を卒業するときは、他の同級生が拍子抜けするくらい折原はあっけらかんとしていた。
高等部で待っていて下さいね、と笑って見送って、それで終わりだった。
「――待ってたんだろうな、ずっと」
たぶん、ずっと待っていたのだと思う。自分からは動けないくせに、来るのが当然だとどこか傲慢にも思いながら。
だから、今は俺の番で良いのかもしれない。
――ドイツにも、行きたいけどな。いつかは。
折原が戦っている場所を、生活している場所を、知りたいとは思うけれど。まずは、自分の基盤を固めないといけない。
明日は、県大会の準決勝だ。
なんとかベスト4には残れたと監督も多少はほっとしていたようだったけれど、よくあの夏の状態からここまで持ち直したものだと俺も驚いた。
技術だけではなく、心理的な面が結果に影響を大きく及ぼすのは、部活だからこそではあるのだろうけれど。
だからこそ、魅力が尽きないのだろうなとも思う。プロ選手になる生徒ばかりではない。大学進学後に大学リーグでプレイをする生徒ばかりでもない。
負けた瞬間が、サッカーに関わる最後になる生徒もいる。
サッカーと本気で向き合っていたと言う、記憶は残るのだろうけれど。誰の中にも、きっと。
「生徒にとっては次はないが、指導者からすると、全部を次に活かしていかなければならん」
部員たちのいなくなった監督室で、独り言ちるように監督が言った。
「有り難い話だが、身の締まる話でもあるな」
「……そうですね」
「すぐにまた春が始まる」
結局、準決勝の一戦が、今年のチームの最後の試合になった。
三年生は卒業して、主軸が変わる。チームの空気も良くも悪くも変わるだろう。新入生も入って来る。
今になってだからかもしれないが、あっと言う間だったなと思った。折原とこの学園で再会したのは、春だったのだ。
「そう言えば」
思い出して、告げる。
「折原が見に来たがってましたよ、国立」
「だったら、来季の国立の為に、また学園の方にでも来てもらうか」
「監督から誘えば喜んでくるんじゃないですか。冬休みも部活はありますしね」
「いや、……まぁ、そういうことにしておくか」
含みのある言い方が、まるで富原みたいで、首を捻りたくなった。なんでみんな揃って似たような濁し方をするのだろう。
「それはさておいても、今年はおまえには面倒をかけたな」
「あぁ、いえ」
それが何を指しているのかは分かったけれど、本当に俺は何もしていない。全部、生徒たちが解決したことだ。
「俺は何も。部長を筆頭に頑張った結果でしょう」
大人が出来ることなんて、きっとたかが知れている。あの時期には、あの時期の子どもにしか見えない世界がある。導いてやるなんて大層なことは口が裂けても言えないし、実際、本当に何もしていないので、労わられても据わりが悪い。
「……そういうことにしておくか」
「実際、そうなんです。卒寮までもあと少しですしね、三年生は」
最後に寮は騒がしくなることだろう。高等部の下級生たちも卒寮のパーティーの準備を進めているころだ。
そして、それが終われば、新しい寮生が入って来る。
高等部の寮で入れ替わりを経験したのは、俺は一度だけだ。その一度、折原が入ってきたときに、来ると知っていたはずなのに嬉しかったことを覚えている。
一番最初に声をかけてきた姿に、ほっとしたことも。
「来年は来年で面倒をかけるとは思うが、よろしく頼む」
「……こちらこそ」
公立高校とは違って、私立の深山は自分から辞めない限り移動はない。自分を育ててくれたサッカーと言う競技と、これからも関わっていけることは、俺にとっても幸せなことなのかもしれない。
学ばなければならないことは沢山あるけれど、それがここの為になるのなら、さほどの苦でもない。
俺は、なんだかんだと言っても、この学園が好きなのだと思う。
この学園で過ごした、あの頃の記憶も、今、ここで教師として関わっている生徒たちのことも、大事に考えているのだと、思えるようになった。
「未熟者ですが、よろしくお願いします」
できることを少しずつ増やしていく。それはここで学んでいたころから変わらない、成長の在り方だ。そんな風に前向きに仕事を捉えられるようになるとも、最初は思っていなかったような気もする。
外は、もう真っ暗だった。
高校生だった頃は毎日のように歩いていた道だ。練習を終えて、部室に、そして寮に。大きな改修の入っていない学園は、あの当時とさほど大きく変わっていない。
駐車場へと向かう手前、サッカー部寮の前で足が止まる。見つけてしまった人影は、玄関の石段に腰かけている。
――十時、か。
誰だかは知らないが、今日のことを思えば、放っておいてやりたい気もするけれど、少々、遅い。
仕方ないか、と、寮へと進む方向を変える。思えば、ここに来るのも久しぶりだ。近づくと、外灯の明かりで誰だか分かった。向こうも足音で気が付いたらしく、ぱっと顔が上がる。
「先生」
「……何やってんだ、こんな時間に」
まだ子どものくせに、すぐに表情を取り繕おうとするところは、あの頃の富原に通じるものがある。いつもどっしりと構えてみせることで、周りを安心させることに長けていた。
それも性格なのだろうが、無理をしているときもあるのだろう。当たり前の話ではあるけれど。
今日も立派なキャプテンだったからこそ、余計に。
「一人になれる場所がないから、中は」
すぐに戻るから見逃して、とよく見る顔で笑う。確かになと、寮の内部が蘇る。俺たちがいた頃よりは手が入って綺麗にはなっていたけれど、広さまでは変わっていない。
「今も相部屋のままなんだな」
「そう。まぁ、同室も良いヤツだし、楽だけど、一人になりたいときもあると言うか。先生もあったでしょ?」
「まぁ、なかったとは言わないけど」
「良い逃げ場所とかあるんなら、聞いとけば良かったな。もう終わりだけど」
終わり。高校でのサッカーは、今日で最後だ。中等部から数えれば六年。それが長いのか短いのか、俺には今も良く分からない。
あっと言う間だと言うことは簡単だけれど、当事者にとってはそうではない。
「非常階段」
「え?」
「あそこは結構、穴場だった」
俺が、と言うよりかは、折原が、そう言う場所を見つけるのが抜群に巧かったのだけれど。
――あいつ、愛想良かったからな。
俺が知らないような話をいくつも知っていたのは、上級生からの受け売りだったのだろうが、その恩恵を受けていたのは、聞いてきた本人よりも俺の方だったような気もする。
「そういや、作倉が前に煙草吸ってたな」
「聞き流しづらいことを言うな、頼むから」
「時効ってことにして下さい。最近は吸ってなかったから」
「言いたかないけど、下手しなくても謹慎だからな。と言うか、大会出れなくなるからな」
「なんで学校の部活って連帯責任が好きなんだろうね。他の奴は真面目にやってても、馬鹿みたいなことで割を食う」
その割を一番食っていただろうキャプテンが、苦い顔で笑う。
「それでも、そのみんなが居ないと出来ないんだから、チームスポーツって嫌だね」
「……そうだな」
「ねぇ、先生。先生は忘れるのにどのくらいかかった?」
「時枝は大学もサッカーするんだろ?」
「するけど。そう言うことじゃなくて。分かってるでしょ」
「人によるだろ、それは」
高校ですべてに区切りをつけるやつもいるだろうし、しばらく競技に触れたくないと思うやつもいるだろう。
二度と触れたくないと思っていたはずが、いつかまた手を伸ばすやつもいる。
「それは、そうだろうけど。酷いなぁ、先生。もうちょっと傷心の主将を慰めてくれても良いじゃないですか」
「十年」
我ながら、執念深い年数だと思う。辞めた直後の俺は、自分で言うのもなんだが、相当病んでいた気がする。
「十年経って、やっと、おまえらのユニフォーム姿を素直に可愛いなと思って見れるようになったよ」
「……長い」
「だから人によるって言っただろ。まぁ、時枝が落ち込むのも悩むのも、それだけ頑張って来たってことなんだから、好きなだけ落ち込んだら良いと思うけど」
どちらにせよ、離れない道を選んだのだ。環境が変わったら、徐々に徐々に薄らいで、新しい刺激でそれどころじゃなくなっていく。
「こういう言い方をするのはなんだけど、またすぐに新しいチームが始動するだろ」
「まぁ、そうですけど」
そうじゃないことくらい当たり前に分かっているだろう、と言わんばかりの調子を聞き流して肩を竦める。
薄れていくだろういつかは、本人次第だし、周囲の人間とのかかわり方次第でもあるように思う。とは言え、無理をして急に変わろうとする必要もない。
「時間薬だろ、結局。大学に入ったら忙しいぞ、多分」
「多分なんだ」
「俺は大学ではやってないからな。同期では何人かやってたけど、――あぁ、富原もか」
「富原選手? あぁ、そうか。大学出てからプロなんだっけ」
高校を卒業するときにプロの誘いが来ていたのかどうかは知らないけれど、大学在学中に、J1のチームから声がかかってプロの道に入ったのは事実だ。
「大学出てからプロに入ってる選手も多いから」
目指したいのなら、と言う話ではあるけれど。
「なんか、全然、考えられないな」
「まだ先の話だからな」
大人と違って無数に将来への道が広がっていることは、子どもの特権だ。
「いろんなことを経験して、ゆっくり考えたら良いよ」
ずっと昔。折原と再会してしばらくしてから、この学園に連れてこられたことがあった。そのときに、監督がかつての教え子であった俺に言ってくれたのと同じような台詞を、今、こうして自分が口にしていると思うと、何とも言えない感慨があった。
あのころは、その中からたった一つを選び取ることが、どうしようもなく怖かった。
「ゆっくりか」
「今は考えられなくても当たり前だってだけだ。続けたかったら続けたら良いし、辞めたかったらそれはそれで、一つの道だとは思うけど」
言ってしまってから、さすがに辞めても良いは推薦で入学の決まっている人間にはまずかったかと思ったが、どうせ辞めれないのだ。
「確かに。次は大学でレギュラー取らないと、だしなぁ。そんなことも言ってられなくなるかも、春になったら」
「適度に頑張れよ」
「適度にって、普通に頑張れよって言ってよ、そこは」
「上手く抜きどころ、見つけれるようにしろよ」
熱心なのは良いことだが、それで故障でもしたら眼も当てられない。当人が一番分かってはいるのだろうけれど。
「先生」
「ん? なに?」
「大学、楽しかった?」
「あー……、まぁ、俺は部活はしてなかったしなぁ。所謂、普通の大学生活だったけど」
「普通って?」
「サークルで遊んだり、バイトしたり、合間に講義受けたりって、そう言う」
今思えば、それもすべて楽しかったのだろうけれど。その生活の内の半分以上にあの後輩が絡んでいるのだと思うと、やはり不思議だ。
住む世界が変わったつもりで、すべての縁を断ち切ったつもりで、けれど、そうではなかった。
「まぁ、でも、楽しかったかな。今も普通に連絡取ってるし」
「へぇ」
「世界が広がるのも、事実だな」
終わりのない説教のようなことを言っているなぁと我ながら思うが、締めどころが今一つ分からない。
自分のことすら覚束ないのだから、ある意味では当然なのかもしれないけれど。
「家の親も似たようなこと言ってた」
俺も言われたな、そう言えば、と思ったが、口にする代わりに、「早く寝ろよ」と言い聞かせる。
寮監も今日くらいは大目に見てくれるかもしれないが、限度はあるだろう。
「先生は、世界が広がったから、『先生』になった?」
「……どうかな」
最後に、と訊かれたそれに少し言い淀む。この道を選んだ大層な理由は俺にはない。後悔はしていないけれど。
「世界が広がって、いろんな選択肢が見えたところで、サッカーが好きなんだとは思い知ったかな。だから、ここに戻ってきたのかもしれない。今になって思えば、だけど」
大学に進学した当初から、今のこの道を選ぶつもりだったわけではない。いろんなことがあって、悩むことがあって、その度に、誰かしらが手を差し伸べてくれることもあって。
そうして、戻ってきていた。
「離れられないものなのかな、そうやって」
「人に寄るとは思うけどな、本当に。でも、俺の同期も仕事で関わってる奴はそんなにいないけど、社会人サークルでボール蹴ってたりはしてるから。そう思うと、趣味にしろ、仕事にしろ、何かしらで関わり続けてるのかもな」
「そうなのかも」
苦笑して時枝が立ち上がる。答えを出すのは自分自身で、そしてそれが一朝一夕に出るものでもないと考えているところが、なんとも「らしい」。
「結果が出ようが出まいが、嫌いになれないって厄介だね」
「それだけ夢中になれるものがあるのも、良いことだと思うよ。その分、苦しいこともあるだろうけど」
「それって、経験談?」
「……そうかもな」
「そっか。だったら信用しようかな。なんだかんだで先生にも三年間面倒見てもらったし」
「見てないだろ。むしろ、いろいろと押し付けて悪かったな」
そう言うことはしない方が良いと分かってはいるが、時間の制約があるとつい楽な生徒に頼ってしまう。部長だと言うことを差し置いても、面倒事をついつい頼んでいた記憶が今更ながらに蘇ってきた。
「悪かったな、三年間。俺としては助かったけど」
「助かったんだったら良いよ、べつに。慣れてるから」
「おまえ、大学行っても胃に穴開けないようにしろよ」
かつての同室者の顔が浮かんで、つい言ってしまった。あの男はあれでいて図太かったけれど。
「大丈夫ですって。それに、きつくなったら、こっちに顔出しても良いんでしょ」
「まぁ、……そうならないのが一番だけどな」
「でも、いざと言うときに思い浮かぶ逃げ場があるのは良いことじゃないですか」
「それはそうだな」
逃げる先があると言うことは生きていく上で重要なことだ。自分にもそれがあると理解できていることも。
「寝ろよ、いい加減」
「そうします」
先生も、と続けたその背が寮の中へと消えていくのを見送って、来た道を戻る。すっかり遅くなってしまったが、明日は日曜だ。朝も早くないのだから、べつに構わない。
――そう言えば、連絡しとかないとな、折原に。
少し前に話したときも、県予選のことを気にかけてくれていた。大会に出場しようがしまいが、帰国してくることに変わりはないだろうが、予定は変わるだろう。
――帰ってきたら帰ってきたで、顔出すところだらけだから大変だよな。
それも滅多に帰国しないのだから、当たり前のことではあるのかもしれないけれど。その中で、俺に逢う時間を優先してつくってくれているのだろうから、有り難い話だとは思ってはいる。
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