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好きになれない1
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「日和くん、自転車じゃなかったっけ」
「はい。ここにも押してきてますけど」
「俺、歩きだよ」
一瞬、考えたが、日和は「押して歩きます」と応じた。そうか、歩きか。
「真木さんって、いつも歩きなんですか?」
「まぁ、うん。歩くの好きなんだよね、わりと」
いかに疲れないように移動するかをモットーとしている自分とは、相容れない価値観だ。
――まぁ、でも、たまにはいいか。
風は湿度を孕んでいるが、我慢できないような暑さじゃない。駐輪していた自転車を取って戻ってくると、羽山が真木に話しかけているところだった。なんとなく距離を置いたまま見ているあいだにも、どんどんと話が進んでいる。仲が良いというのは本当なのだろうなぁ、と思う距離感。
「基生。今日、おまえの家に泊まっていい?」
「あー……、駄目」
「なんでだよ。俺のとこまで遠いの、知ってんだろ。飲みに付き合わないんだったら、それくらい付き合えよ」
「おまえと違って俺は朝も早いんだよ。邪魔すんな」
「じゃあ、起こしてやるから。それでいいだろ?」
「おまえ、そんなこと言って、一回でも俺より早く起きたことあったか?」
呆れたように口にして顔を上げた真木と目が合う。微かな逡巡のあと、真木がなにかを羽山に投げた。
「まぁ、もういいけど。全部、おまえが勝手にしろよ」
「おお、任せろ!」
嬉々とした声で応じて、羽山が先に歩き出していた一団の方へと向かって行く。その背を見送って、彼が受け取ったなにかは鍵だと気が付いた。
「ごめん。お待たせ。帰ろうか」
再び開きそうになっていたもやもやの蓋が、ゆっくりと閉じていくのを感じながら、日和は頷いた。背後から響いていた賑やかな声も次第に遠くなっていく。車通りの少ない道を行く横顔は静かで、けれど、居心地の悪い沈黙ではなかった。けれど、黙って歩くのはもったいないような気もして。
からからと回る車輪の音を聞きながら、日和は疑問を吐き出した。
「真木さんって、いつも、その、こんな感じなんですか」
「こんなって飲み会? あー、どうだろ。まぁ、久しぶりだから、和が騒ぎたかっただけじゃないかな。あいつがいなかったら、そこまでひどくは」
「いや、そこじゃなくて」
「ん?」
「あの、その、合鍵」
「あぁ」
あんなふうに簡単に渡してしまうんですか、との言外を今度は読み取ってくれたらしい。なんだ、そんなことかと言わんばかりの声だ。
「まぁ、昔から知ってるから。日和くんは苦手なタイプかもしれないけど、煩いだけで悪いやつじゃないよ」
「昔から?」
「あー……、うん。地元が一緒で」
ほんの少し迷ったように聞こえたのは気の所為かもしれない。いつもの声で真木が続ける。前を向いている彼と目は合わなかった。
「誰も知り合いがいないだろうと思って選んだのに、大学の同じ学部にあいつもいてね。初日のオリエンテーションで声かけられて。なんの偶然だとは思ったよね」
この人のことをなにも知らないと明確に思ったのは、恐らくこの瞬間だった。安定している人というイメージがかすかに揺らぐ。
――でも、それも、そうか。
なにかがあったのか、なかったのかは知らないが、学生時代に学校に対して思うことがなければ、フリースクールに関わろうと思わないのではないだろうか。みんなそれぞれに、つぼみを選んだ意思があるのだろう。そうではない日和が少数派だ。
「日和くんさぁ、モテるでしょ」
話題を変えられたと思ったが、日和はそれに乗った。苦笑気味に答えを引っ張り出す。
「はぁ、まぁ。モテないと言っても信じてもらえないと思うんですけど」
「なに、なんなの。結局、モテるの、モテてないの」
「第一印象でモテますが、長い時間を過ごすにつれ、こいつは顔だけだって離れていかれます」
「マジか」
「だから、そのなんというか、見ず知らずの人にはモテるんですが、近しい人にはモテません」
「見る目ねぇなぁ。日和くん、かわいいのに」
「嬉しくないですよ。というか、真木さんは、身近な人にモテるタイプでしょう。彼女さんとかいないんですか」
言ってしまってから、はっとする。そういや、この人、ゲイなんだっけ。そう思うと「かわいい」発言も、なんだか違う方向に思えてくるような。
日和の空気が止まったのが伝わったのか、真木の声のトーンが落ちる。
「あのね、日和くん。誰かからか聞いたかもしれないけど」
「……はい」
「俺はたしかにいわゆるゲイだけど、スタッフに手は出さないから」
「いや、あの、そういう意味で心配はしてないですけど。というか、真木さんはそんなことしないでしょ」
「俺がノンケだったところで、スタッフの女の子に手を出したら大問題だからね。それと一緒」
「で、ですよね」
としか言えない上に、正論すぎる。こくこくと頷いた日和をちらりと見て、真木が「もしかして」と若干、嫌そうに語尾を上げた。
「さっきの合鍵云々もそっち方面の話だった?」
「え? いや」
突かれたくなかった核心に触れられた気分で日和はまごつく。それをどう取ったのか、真木がかすかに笑った。仕方がないなとでもいうように。
「安心してって言ったらいいのかどうかわからないけど。ノンケの男に手ぇ出すほど、若い恋愛をする気はないから。だから、ない」
ノンケの男。この人にとっての恋愛対象なのは、やはり男なのだと改めて意識した。とは言え、自分のような異性愛者とは違う、仲間内での恋愛。仲間内、つまるところ、ゲイ。
――そういう人とどうやって知り合うんだろ。やっぱり新宿二丁目的な? それとも、ネットとか?
あやふやな知識を総動員して想像しようとして、――日和は首をぷるぷると振った。駄目だ。しないほうがいい。
「まぁ、どっちにしても、俺も今は付き合ってる人間はいないな。日和くんはいないの? 彼女」
黙り込んだ日和に気を使ったのか、話しかけられる声の調子が心持ち上がった。ちらつく妄想の欠片を排除して、日和はぎこちなく笑みを浮かべる。
「いません。というか、いたら、ちゃんと断れるんで、楽なんですけど」
「日和くんは本当に真面目だよな。そんなナリなのに、女の子のあしらい方もよくわかってねぇとか」
他意のないふうに笑って、真木が言う。
「恵麻たちも言ってたよ。教え方がうまいって」
「え……?」
「丁寧だし、それになにより、自分たちの目線で教えてくれるから嬉しいって」
そんなふうに、自分を評してくれていたのか。子どもたちの顔が次々と過る。出会って、二ヵ月と半月。たったそれだけの期間なのに、嬉しい気持ちとかわいいと思う気持ちがこみ上げて来た。人と人とのつながりは時間だけがつくるものではないらしい。
「ありがとうね、すごく助かる」
温かい声に、日和はやっとの思いで頷いた。
――先生みたい、というわけじゃないと思うんだけど。でも、なんか。
この人の声は、落ち着く。そして同時に、もぞもぞとした落ち着かなさも湧いて出るようで、自分では制御できなくなりそうな、そんな予兆。それのすべてに気が付かなかったふりで、日和は問いかけた。
「勉強が嫌いなわけじゃないんです、よね。恵麻ちゃんたちは」
「そうだな。というか、長い間、学校に行ってない子ってさ、勉強に対するコンプレックスや不安を抱えていることが多いってよく言われるんだけど」
「あぁ」
そういえば、なにかの授業で聞いたような気もする。けれど、あくまで知識だ。つぼみに来なければ、不登校の子どもが、意欲を持って自主的に勉強に取り組んでいることを日和は知らないままだっただろう。
「勉強というか、……ひいて言えば、進路というか、将来か。俺ら大人があれこれ口出ししなくても、あの子たちが一番悩んでんだよ。このままでいいのか。この先はどうなるのか。でも、どう動けばいいのか」
淡々とした調子で真木が言う。大人だって、なにが正解かなんてわからないのに、あの小さな身体でよく踏ん張ってるなと思うよ、と。
「俺も、そう思います」
自然と口を吐いたそれに、真木がぱっと顔を向けた。目が合う。その顔に、はにかむような笑みが浮かぶ。
――あ。
男にはにかむって表現、どうなんだ。それも年上の、なんて。頭のどこかでは思いながら、日和は先ほどの羽山の台詞を思い出していた。笑えば、案外、童顔なのに。
――たしかに、ちょっと、かわいい、かも。
って、おかしいだろ、俺。今日だけで何度目になるのかわからない突っ込みを入れて、日和は不自然にならないように意識しつつ、足元に視線を落とした。ゆっくりと回る車輪。もっとゆっくりでもいいのに、と不意に思った。
「自分が普通のレールから外れていることに対する恐ろしさは、どうやっても根本的には打ち払えないと思うんだよ。日常に戻るまでは。といっても、その日常がどういうものなのか、戻りたいものなのかっていうのも曖昧で、漠然としていて。そうなったときに、一番身近な普通って、『学校に通っていただろう自分』なんじゃないかな」
「不登校になる前の?」
「うん。でも、そこには、集団に馴染めない苦しさとか、対人関係の難しさとか。いろんなものがあって、すぐに治せないものも打ち勝てないものもいっぱいで。そのなかで、一番わかりやすく自信につながるものが勉強なんだと俺は思う」
学校に通っている子たちと変わらない学力。いざとなったときにすぐに戻ることができる準備。進路を選ぶときに幅を広げるため。努力をしているという実感。
学力というものは、一つの武器だ。つぼみにはじめて参加した日。この人はそうも言っていた。
「それに、いざ学校に戻ろうってなったときに、勉強に着いて行けないからって、登校を尻込む子は一定数以上いる。そうならないための、……逃げない理由の一つにもなるのかもしれないな」
もちろん、逃げてもいいんだけどね。ただ、と真木がひとり言のように呟いた。
「いつまで逃げ続けられるかは、人それぞれだから」
逃げる。逃げる、か。
「あの、真木さん」
おもむろに切り出した日和に、真木がわずかに首を傾げた。身長差の所為で見上げられているようになって、だから、それだって、と、また思った。だから、それ、なんかかわいく見えるんだってば。なぜなのかは知らないし、わかりたくもないけれど。
「俺、よかったら、夜も教えましょうか、勉強」
「……それは嬉しいけど。なんの賃金も出ないよ?」
「いや、あの」
困惑した声に、日和は焦って理由をつくりだした。
「その、みんなが頑張ってるのは見ていて嬉しいし、俺にできることなら応援もしたいし。というか、家に帰っても特にすることもないですし、あの、だから」
ちょっとでも手伝いができれば嬉しいと思ったのだ。この自分が。省エネ第一主義で、面倒なことなんて絶対にしないと決めている、この俺が。
子どもたちへの援助のつもりなのか、真木に対するものなのかどうかさえも、わかっていなかったけれど。
毎週火曜日。一人だけ先につぼみを出る。その背で子どもたちと真木が囲む勉強会のテーブルに、後ろ髪を引かれたことがあったのも事実だ。
あの輪に入りたい、と思うのは、身内になりたいと願っている状態に近かったのかもしれない。
日和をじっと見つめていた真木の瞳がふっと笑む。嬉しそうに。それだけで十分な対価だと、これもまた何故かわからないけれど、思ってしまった。
「ありがとう」
「はい」
「すげぇ、助かる。あと、嬉しい」
それならよかった、と心の底から日和は思った。
「はい。ここにも押してきてますけど」
「俺、歩きだよ」
一瞬、考えたが、日和は「押して歩きます」と応じた。そうか、歩きか。
「真木さんって、いつも歩きなんですか?」
「まぁ、うん。歩くの好きなんだよね、わりと」
いかに疲れないように移動するかをモットーとしている自分とは、相容れない価値観だ。
――まぁ、でも、たまにはいいか。
風は湿度を孕んでいるが、我慢できないような暑さじゃない。駐輪していた自転車を取って戻ってくると、羽山が真木に話しかけているところだった。なんとなく距離を置いたまま見ているあいだにも、どんどんと話が進んでいる。仲が良いというのは本当なのだろうなぁ、と思う距離感。
「基生。今日、おまえの家に泊まっていい?」
「あー……、駄目」
「なんでだよ。俺のとこまで遠いの、知ってんだろ。飲みに付き合わないんだったら、それくらい付き合えよ」
「おまえと違って俺は朝も早いんだよ。邪魔すんな」
「じゃあ、起こしてやるから。それでいいだろ?」
「おまえ、そんなこと言って、一回でも俺より早く起きたことあったか?」
呆れたように口にして顔を上げた真木と目が合う。微かな逡巡のあと、真木がなにかを羽山に投げた。
「まぁ、もういいけど。全部、おまえが勝手にしろよ」
「おお、任せろ!」
嬉々とした声で応じて、羽山が先に歩き出していた一団の方へと向かって行く。その背を見送って、彼が受け取ったなにかは鍵だと気が付いた。
「ごめん。お待たせ。帰ろうか」
再び開きそうになっていたもやもやの蓋が、ゆっくりと閉じていくのを感じながら、日和は頷いた。背後から響いていた賑やかな声も次第に遠くなっていく。車通りの少ない道を行く横顔は静かで、けれど、居心地の悪い沈黙ではなかった。けれど、黙って歩くのはもったいないような気もして。
からからと回る車輪の音を聞きながら、日和は疑問を吐き出した。
「真木さんって、いつも、その、こんな感じなんですか」
「こんなって飲み会? あー、どうだろ。まぁ、久しぶりだから、和が騒ぎたかっただけじゃないかな。あいつがいなかったら、そこまでひどくは」
「いや、そこじゃなくて」
「ん?」
「あの、その、合鍵」
「あぁ」
あんなふうに簡単に渡してしまうんですか、との言外を今度は読み取ってくれたらしい。なんだ、そんなことかと言わんばかりの声だ。
「まぁ、昔から知ってるから。日和くんは苦手なタイプかもしれないけど、煩いだけで悪いやつじゃないよ」
「昔から?」
「あー……、うん。地元が一緒で」
ほんの少し迷ったように聞こえたのは気の所為かもしれない。いつもの声で真木が続ける。前を向いている彼と目は合わなかった。
「誰も知り合いがいないだろうと思って選んだのに、大学の同じ学部にあいつもいてね。初日のオリエンテーションで声かけられて。なんの偶然だとは思ったよね」
この人のことをなにも知らないと明確に思ったのは、恐らくこの瞬間だった。安定している人というイメージがかすかに揺らぐ。
――でも、それも、そうか。
なにかがあったのか、なかったのかは知らないが、学生時代に学校に対して思うことがなければ、フリースクールに関わろうと思わないのではないだろうか。みんなそれぞれに、つぼみを選んだ意思があるのだろう。そうではない日和が少数派だ。
「日和くんさぁ、モテるでしょ」
話題を変えられたと思ったが、日和はそれに乗った。苦笑気味に答えを引っ張り出す。
「はぁ、まぁ。モテないと言っても信じてもらえないと思うんですけど」
「なに、なんなの。結局、モテるの、モテてないの」
「第一印象でモテますが、長い時間を過ごすにつれ、こいつは顔だけだって離れていかれます」
「マジか」
「だから、そのなんというか、見ず知らずの人にはモテるんですが、近しい人にはモテません」
「見る目ねぇなぁ。日和くん、かわいいのに」
「嬉しくないですよ。というか、真木さんは、身近な人にモテるタイプでしょう。彼女さんとかいないんですか」
言ってしまってから、はっとする。そういや、この人、ゲイなんだっけ。そう思うと「かわいい」発言も、なんだか違う方向に思えてくるような。
日和の空気が止まったのが伝わったのか、真木の声のトーンが落ちる。
「あのね、日和くん。誰かからか聞いたかもしれないけど」
「……はい」
「俺はたしかにいわゆるゲイだけど、スタッフに手は出さないから」
「いや、あの、そういう意味で心配はしてないですけど。というか、真木さんはそんなことしないでしょ」
「俺がノンケだったところで、スタッフの女の子に手を出したら大問題だからね。それと一緒」
「で、ですよね」
としか言えない上に、正論すぎる。こくこくと頷いた日和をちらりと見て、真木が「もしかして」と若干、嫌そうに語尾を上げた。
「さっきの合鍵云々もそっち方面の話だった?」
「え? いや」
突かれたくなかった核心に触れられた気分で日和はまごつく。それをどう取ったのか、真木がかすかに笑った。仕方がないなとでもいうように。
「安心してって言ったらいいのかどうかわからないけど。ノンケの男に手ぇ出すほど、若い恋愛をする気はないから。だから、ない」
ノンケの男。この人にとっての恋愛対象なのは、やはり男なのだと改めて意識した。とは言え、自分のような異性愛者とは違う、仲間内での恋愛。仲間内、つまるところ、ゲイ。
――そういう人とどうやって知り合うんだろ。やっぱり新宿二丁目的な? それとも、ネットとか?
あやふやな知識を総動員して想像しようとして、――日和は首をぷるぷると振った。駄目だ。しないほうがいい。
「まぁ、どっちにしても、俺も今は付き合ってる人間はいないな。日和くんはいないの? 彼女」
黙り込んだ日和に気を使ったのか、話しかけられる声の調子が心持ち上がった。ちらつく妄想の欠片を排除して、日和はぎこちなく笑みを浮かべる。
「いません。というか、いたら、ちゃんと断れるんで、楽なんですけど」
「日和くんは本当に真面目だよな。そんなナリなのに、女の子のあしらい方もよくわかってねぇとか」
他意のないふうに笑って、真木が言う。
「恵麻たちも言ってたよ。教え方がうまいって」
「え……?」
「丁寧だし、それになにより、自分たちの目線で教えてくれるから嬉しいって」
そんなふうに、自分を評してくれていたのか。子どもたちの顔が次々と過る。出会って、二ヵ月と半月。たったそれだけの期間なのに、嬉しい気持ちとかわいいと思う気持ちがこみ上げて来た。人と人とのつながりは時間だけがつくるものではないらしい。
「ありがとうね、すごく助かる」
温かい声に、日和はやっとの思いで頷いた。
――先生みたい、というわけじゃないと思うんだけど。でも、なんか。
この人の声は、落ち着く。そして同時に、もぞもぞとした落ち着かなさも湧いて出るようで、自分では制御できなくなりそうな、そんな予兆。それのすべてに気が付かなかったふりで、日和は問いかけた。
「勉強が嫌いなわけじゃないんです、よね。恵麻ちゃんたちは」
「そうだな。というか、長い間、学校に行ってない子ってさ、勉強に対するコンプレックスや不安を抱えていることが多いってよく言われるんだけど」
「あぁ」
そういえば、なにかの授業で聞いたような気もする。けれど、あくまで知識だ。つぼみに来なければ、不登校の子どもが、意欲を持って自主的に勉強に取り組んでいることを日和は知らないままだっただろう。
「勉強というか、……ひいて言えば、進路というか、将来か。俺ら大人があれこれ口出ししなくても、あの子たちが一番悩んでんだよ。このままでいいのか。この先はどうなるのか。でも、どう動けばいいのか」
淡々とした調子で真木が言う。大人だって、なにが正解かなんてわからないのに、あの小さな身体でよく踏ん張ってるなと思うよ、と。
「俺も、そう思います」
自然と口を吐いたそれに、真木がぱっと顔を向けた。目が合う。その顔に、はにかむような笑みが浮かぶ。
――あ。
男にはにかむって表現、どうなんだ。それも年上の、なんて。頭のどこかでは思いながら、日和は先ほどの羽山の台詞を思い出していた。笑えば、案外、童顔なのに。
――たしかに、ちょっと、かわいい、かも。
って、おかしいだろ、俺。今日だけで何度目になるのかわからない突っ込みを入れて、日和は不自然にならないように意識しつつ、足元に視線を落とした。ゆっくりと回る車輪。もっとゆっくりでもいいのに、と不意に思った。
「自分が普通のレールから外れていることに対する恐ろしさは、どうやっても根本的には打ち払えないと思うんだよ。日常に戻るまでは。といっても、その日常がどういうものなのか、戻りたいものなのかっていうのも曖昧で、漠然としていて。そうなったときに、一番身近な普通って、『学校に通っていただろう自分』なんじゃないかな」
「不登校になる前の?」
「うん。でも、そこには、集団に馴染めない苦しさとか、対人関係の難しさとか。いろんなものがあって、すぐに治せないものも打ち勝てないものもいっぱいで。そのなかで、一番わかりやすく自信につながるものが勉強なんだと俺は思う」
学校に通っている子たちと変わらない学力。いざとなったときにすぐに戻ることができる準備。進路を選ぶときに幅を広げるため。努力をしているという実感。
学力というものは、一つの武器だ。つぼみにはじめて参加した日。この人はそうも言っていた。
「それに、いざ学校に戻ろうってなったときに、勉強に着いて行けないからって、登校を尻込む子は一定数以上いる。そうならないための、……逃げない理由の一つにもなるのかもしれないな」
もちろん、逃げてもいいんだけどね。ただ、と真木がひとり言のように呟いた。
「いつまで逃げ続けられるかは、人それぞれだから」
逃げる。逃げる、か。
「あの、真木さん」
おもむろに切り出した日和に、真木がわずかに首を傾げた。身長差の所為で見上げられているようになって、だから、それだって、と、また思った。だから、それ、なんかかわいく見えるんだってば。なぜなのかは知らないし、わかりたくもないけれど。
「俺、よかったら、夜も教えましょうか、勉強」
「……それは嬉しいけど。なんの賃金も出ないよ?」
「いや、あの」
困惑した声に、日和は焦って理由をつくりだした。
「その、みんなが頑張ってるのは見ていて嬉しいし、俺にできることなら応援もしたいし。というか、家に帰っても特にすることもないですし、あの、だから」
ちょっとでも手伝いができれば嬉しいと思ったのだ。この自分が。省エネ第一主義で、面倒なことなんて絶対にしないと決めている、この俺が。
子どもたちへの援助のつもりなのか、真木に対するものなのかどうかさえも、わかっていなかったけれど。
毎週火曜日。一人だけ先につぼみを出る。その背で子どもたちと真木が囲む勉強会のテーブルに、後ろ髪を引かれたことがあったのも事実だ。
あの輪に入りたい、と思うのは、身内になりたいと願っている状態に近かったのかもしれない。
日和をじっと見つめていた真木の瞳がふっと笑む。嬉しそうに。それだけで十分な対価だと、これもまた何故かわからないけれど、思ってしまった。
「ありがとう」
「はい」
「すげぇ、助かる。あと、嬉しい」
それならよかった、と心の底から日和は思った。
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