好きになれない

木原あざみ

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好きになれない3

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 夕方の日差しとともに緑の葉っぱが一枚ひらりと窓から入り込んできて、日和は廊下で足を止めた。足元に落ちてきたそれを拾い上げる。

 ――凛音ちゃん、ちゃんと高校に通えてるかな。

 なんとなく思い浮かんだのは、この四月から私立の高校に進学を決めた少女の笑顔だった。三月の末。お互い、新しい場所でスタートだねと寂しそうな顔に笑ったのが最後だ。真木が言うには、たまにラインが来るが、それなりに楽しそうにやっているとのことだったけれど。
 窓辺に寄ると、手のひらから葉が風に乗って外へ飛んでいく。ひらりひらりと舞い上がるそれから視線を廊下に戻す。と、ちょうどこちらに向かってきていた女生徒と眼があった。幼い顏に笑顔が浮かぶ。

「あ、ぴよちゃん先生。さよーならー」
「日和先生」

 市立の中学校に着任して、早二月。これで何度目だろうと思いながらも日和は訂正する。その律義さが面白いのか、生徒は笑うだけだ。その姿が昇降口に消えていくのを見送って、日和も当初からの目的地であった職員室へと足を進める。
 というか、ないじゃん、威厳。誰だよ、教師になったら自然と一線が引けるとか言ったの。
 真木が言うことはすべてが正しいような気がしていたが、そうでもないことを日和は最近になって知った。間違っているというわけではないのだが、なんというか。真面目な顔をして適当なことを言っていることが間々あるとようやく気が付いたのだった。冗談なら、もうちょっとわかりやすく言ってほしい。

 ――まぁ、羽山さんには、今頃気付いたのかって爆笑されたけど。あいつ、結構ひどいよ。適当だし、おまけに天然も入ってるよって。だから、なんで、いちいち俺は知ってます感を出すんだっての、あの人は。

 なんだか最終的に羽山への愚痴で脳内が締めくくられてしまった。夜の七時を過ぎてもまだ半数以上の教師が職員室には残っている。

「日和先生」

 それでも久しぶりに予定外の電話も鳴らず、授業に関する雑務だけをやることができた。ついでに、明日に回す予定だった小テストの採点もしてしまおうかなと伸ばし掛けた手が、かけられた声で止まる。

「たまには早く帰りなさいよ。帰れるときは」

 学年主任の穏やかな声に、すみませんと頭を下げる。

「その調子じゃ、恋人もできんでしょう」
「あら、佐久間先生。日和先生、お付き合いしてる方はちゃんといるみたいですよ。てこでも写真は見せてくれないんですけど」

「へぇ、どんな人なの」

 面白がる色に辟易しつつも、日和は愛想笑いを浮かべた。対人関係を巧く回すコツも少しわかるようになってきた気がしている。面倒臭いと逃げてばかりでは、成長も発展もない。周囲の優しさと気遣いに甘えていることと同義だ。今まで受けていた分も返していけるよう、誠実に向き合っていきたいと思っている。出来ているかどうかは定かではないけれど。

「優しい人です」

 優しくて、頼りになって、けれど、ちょっと駄目な人。
 見本のようなお返事ね、なんて笑う先輩教師に頭を下げて、日和は久々に少し早く校舎を出た。



 半年という時間の中で、なし崩しに真木の家に日和の私物が増えた。さすがに平日にこの家で寝泊まりすることはなくなったけれど、少し時間があれば自宅に帰るよりも先にこちらに足が向いてしまう。
 いっそのこと、一緒に暮らしたいと言いたい気持ちはあるけれど、せめて一年は社会人生活を頑張ってからにしようと決めている。それは日和自身としてのせめてもの区切りのつもりだし、渋い顔をするだろう真木への切り札のつもりでもある。

「おまえ、今の学校でぴよちゃん先生って呼ばれてるんだって?」

 日和がつぼみを認知してから三度目の春が過ぎたが、相変わらずこの人は忙しそうだ。むしろ帰宅してからこうしてパソコン仕事をするのが日常になっているのが、問題な気もするが。スーツを脱いで腰を下ろした途端に笑われて、日和は小さく口を尖らした。

「なんで知ってるんですか」

 聞いたものの、誰から聞いたかなんてわかり切っている。

「というか、そもそも! そもそも、羽山さんの所為なんですけど。あの人が着任早々、俺を見るなり『お、ぴよちゃんじゃん』なんて言うから。それを聞いていた子たちが真似し出して」
「だって、あいつ、おまえと一緒で市に採用されてるスクールカウンセラーだから」

 なにを当たり前のことをと言わんばかりの声に、日和は閉口した。違う、そうじゃない。

「あの人は、もうちょっとくらい、俺のことを尊重してくれてもいいと思う。ただでさえ、新卒の教師なんて舐められるのに」
「生徒に舐められるのを和の所為にしてやんなよ。スクールカウンセラーって、あれだ。生徒と教師と保護者との関係を取り持って、学校を良い風に循環させるのが仕事だからな」
「……」

 だから、そうじゃない。言わないけど。そんな子どもじみたこと、言わないけど。
 天然ってこれなの。今までずっとわかった上ではぐらかされているのだと信じて疑ってもいなかったけど。もしかして、本気で斜め上のことを考えてるの。沸いた疑問を日和は黙殺した。べつに、そこはどうでもいい。ただ、伝わっているだろうと過信しすぎるのはお互いの為にもよくないなとは思ったけれど。

「というか、おまえ、和に対して当たりがきついよな。妬いてんの」
「……ないです、よ」

 だって、いまさらだ。けれど、声音が拗ねただろうことは否定できない。案の定、真木が声を立てずに笑った。

「へぇ。でも、俺は、仕事とは言え、おまえと一緒でいいなぁ、と、思ってはいるけど」

 なんだかまったく敵わない。そう思う瞬間はいくつもあるが、今もまさにそうだ。

 ――俺一人、意地張ったのが馬鹿みたいだ。

「ねぇ、真木さん」

 呼びかけに、視線が合う。優しい色の瞳に自分だけが特別に映っていることは、今でも奇跡のような幸せだと思っている。

「好き」

 またそれか、と言わんばかりに「知ってる」と笑う。不満を示して、その手を引けば、掠めるようなキスが頬に触れる。そして、一言。愛おしさと優しさしかないような声が囁く。
 やっとつかんだ好きは、柔らかできれいな音をしていた。

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