52 / 52
好きになれない3
53
しおりを挟む
夕方の日差しとともに緑の葉っぱが一枚ひらりと窓から入り込んできて、日和は廊下で足を止めた。足元に落ちてきたそれを拾い上げる。
――凛音ちゃん、ちゃんと高校に通えてるかな。
なんとなく思い浮かんだのは、この四月から私立の高校に進学を決めた少女の笑顔だった。三月の末。お互い、新しい場所でスタートだねと寂しそうな顔に笑ったのが最後だ。真木が言うには、たまにラインが来るが、それなりに楽しそうにやっているとのことだったけれど。
窓辺に寄ると、手のひらから葉が風に乗って外へ飛んでいく。ひらりひらりと舞い上がるそれから視線を廊下に戻す。と、ちょうどこちらに向かってきていた女生徒と眼があった。幼い顏に笑顔が浮かぶ。
「あ、ぴよちゃん先生。さよーならー」
「日和先生」
市立の中学校に着任して、早二月。これで何度目だろうと思いながらも日和は訂正する。その律義さが面白いのか、生徒は笑うだけだ。その姿が昇降口に消えていくのを見送って、日和も当初からの目的地であった職員室へと足を進める。
というか、ないじゃん、威厳。誰だよ、教師になったら自然と一線が引けるとか言ったの。
真木が言うことはすべてが正しいような気がしていたが、そうでもないことを日和は最近になって知った。間違っているというわけではないのだが、なんというか。真面目な顔をして適当なことを言っていることが間々あるとようやく気が付いたのだった。冗談なら、もうちょっとわかりやすく言ってほしい。
――まぁ、羽山さんには、今頃気付いたのかって爆笑されたけど。あいつ、結構ひどいよ。適当だし、おまけに天然も入ってるよって。だから、なんで、いちいち俺は知ってます感を出すんだっての、あの人は。
なんだか最終的に羽山への愚痴で脳内が締めくくられてしまった。夜の七時を過ぎてもまだ半数以上の教師が職員室には残っている。
「日和先生」
それでも久しぶりに予定外の電話も鳴らず、授業に関する雑務だけをやることができた。ついでに、明日に回す予定だった小テストの採点もしてしまおうかなと伸ばし掛けた手が、かけられた声で止まる。
「たまには早く帰りなさいよ。帰れるときは」
学年主任の穏やかな声に、すみませんと頭を下げる。
「その調子じゃ、恋人もできんでしょう」
「あら、佐久間先生。日和先生、お付き合いしてる方はちゃんといるみたいですよ。てこでも写真は見せてくれないんですけど」
「へぇ、どんな人なの」
面白がる色に辟易しつつも、日和は愛想笑いを浮かべた。対人関係を巧く回すコツも少しわかるようになってきた気がしている。面倒臭いと逃げてばかりでは、成長も発展もない。周囲の優しさと気遣いに甘えていることと同義だ。今まで受けていた分も返していけるよう、誠実に向き合っていきたいと思っている。出来ているかどうかは定かではないけれど。
「優しい人です」
優しくて、頼りになって、けれど、ちょっと駄目な人。
見本のようなお返事ね、なんて笑う先輩教師に頭を下げて、日和は久々に少し早く校舎を出た。
半年という時間の中で、なし崩しに真木の家に日和の私物が増えた。さすがに平日にこの家で寝泊まりすることはなくなったけれど、少し時間があれば自宅に帰るよりも先にこちらに足が向いてしまう。
いっそのこと、一緒に暮らしたいと言いたい気持ちはあるけれど、せめて一年は社会人生活を頑張ってからにしようと決めている。それは日和自身としてのせめてもの区切りのつもりだし、渋い顔をするだろう真木への切り札のつもりでもある。
「おまえ、今の学校でぴよちゃん先生って呼ばれてるんだって?」
日和がつぼみを認知してから三度目の春が過ぎたが、相変わらずこの人は忙しそうだ。むしろ帰宅してからこうしてパソコン仕事をするのが日常になっているのが、問題な気もするが。スーツを脱いで腰を下ろした途端に笑われて、日和は小さく口を尖らした。
「なんで知ってるんですか」
聞いたものの、誰から聞いたかなんてわかり切っている。
「というか、そもそも! そもそも、羽山さんの所為なんですけど。あの人が着任早々、俺を見るなり『お、ぴよちゃんじゃん』なんて言うから。それを聞いていた子たちが真似し出して」
「だって、あいつ、おまえと一緒で市に採用されてるスクールカウンセラーだから」
なにを当たり前のことをと言わんばかりの声に、日和は閉口した。違う、そうじゃない。
「あの人は、もうちょっとくらい、俺のことを尊重してくれてもいいと思う。ただでさえ、新卒の教師なんて舐められるのに」
「生徒に舐められるのを和の所為にしてやんなよ。スクールカウンセラーって、あれだ。生徒と教師と保護者との関係を取り持って、学校を良い風に循環させるのが仕事だからな」
「……」
だから、そうじゃない。言わないけど。そんな子どもじみたこと、言わないけど。
天然ってこれなの。今までずっとわかった上ではぐらかされているのだと信じて疑ってもいなかったけど。もしかして、本気で斜め上のことを考えてるの。沸いた疑問を日和は黙殺した。べつに、そこはどうでもいい。ただ、伝わっているだろうと過信しすぎるのはお互いの為にもよくないなとは思ったけれど。
「というか、おまえ、和に対して当たりがきついよな。妬いてんの」
「……ないです、よ」
だって、いまさらだ。けれど、声音が拗ねただろうことは否定できない。案の定、真木が声を立てずに笑った。
「へぇ。でも、俺は、仕事とは言え、おまえと一緒でいいなぁ、と、思ってはいるけど」
なんだかまったく敵わない。そう思う瞬間はいくつもあるが、今もまさにそうだ。
――俺一人、意地張ったのが馬鹿みたいだ。
「ねぇ、真木さん」
呼びかけに、視線が合う。優しい色の瞳に自分だけが特別に映っていることは、今でも奇跡のような幸せだと思っている。
「好き」
またそれか、と言わんばかりに「知ってる」と笑う。不満を示して、その手を引けば、掠めるようなキスが頬に触れる。そして、一言。愛おしさと優しさしかないような声が囁く。
やっとつかんだ好きは、柔らかできれいな音をしていた。
――凛音ちゃん、ちゃんと高校に通えてるかな。
なんとなく思い浮かんだのは、この四月から私立の高校に進学を決めた少女の笑顔だった。三月の末。お互い、新しい場所でスタートだねと寂しそうな顔に笑ったのが最後だ。真木が言うには、たまにラインが来るが、それなりに楽しそうにやっているとのことだったけれど。
窓辺に寄ると、手のひらから葉が風に乗って外へ飛んでいく。ひらりひらりと舞い上がるそれから視線を廊下に戻す。と、ちょうどこちらに向かってきていた女生徒と眼があった。幼い顏に笑顔が浮かぶ。
「あ、ぴよちゃん先生。さよーならー」
「日和先生」
市立の中学校に着任して、早二月。これで何度目だろうと思いながらも日和は訂正する。その律義さが面白いのか、生徒は笑うだけだ。その姿が昇降口に消えていくのを見送って、日和も当初からの目的地であった職員室へと足を進める。
というか、ないじゃん、威厳。誰だよ、教師になったら自然と一線が引けるとか言ったの。
真木が言うことはすべてが正しいような気がしていたが、そうでもないことを日和は最近になって知った。間違っているというわけではないのだが、なんというか。真面目な顔をして適当なことを言っていることが間々あるとようやく気が付いたのだった。冗談なら、もうちょっとわかりやすく言ってほしい。
――まぁ、羽山さんには、今頃気付いたのかって爆笑されたけど。あいつ、結構ひどいよ。適当だし、おまけに天然も入ってるよって。だから、なんで、いちいち俺は知ってます感を出すんだっての、あの人は。
なんだか最終的に羽山への愚痴で脳内が締めくくられてしまった。夜の七時を過ぎてもまだ半数以上の教師が職員室には残っている。
「日和先生」
それでも久しぶりに予定外の電話も鳴らず、授業に関する雑務だけをやることができた。ついでに、明日に回す予定だった小テストの採点もしてしまおうかなと伸ばし掛けた手が、かけられた声で止まる。
「たまには早く帰りなさいよ。帰れるときは」
学年主任の穏やかな声に、すみませんと頭を下げる。
「その調子じゃ、恋人もできんでしょう」
「あら、佐久間先生。日和先生、お付き合いしてる方はちゃんといるみたいですよ。てこでも写真は見せてくれないんですけど」
「へぇ、どんな人なの」
面白がる色に辟易しつつも、日和は愛想笑いを浮かべた。対人関係を巧く回すコツも少しわかるようになってきた気がしている。面倒臭いと逃げてばかりでは、成長も発展もない。周囲の優しさと気遣いに甘えていることと同義だ。今まで受けていた分も返していけるよう、誠実に向き合っていきたいと思っている。出来ているかどうかは定かではないけれど。
「優しい人です」
優しくて、頼りになって、けれど、ちょっと駄目な人。
見本のようなお返事ね、なんて笑う先輩教師に頭を下げて、日和は久々に少し早く校舎を出た。
半年という時間の中で、なし崩しに真木の家に日和の私物が増えた。さすがに平日にこの家で寝泊まりすることはなくなったけれど、少し時間があれば自宅に帰るよりも先にこちらに足が向いてしまう。
いっそのこと、一緒に暮らしたいと言いたい気持ちはあるけれど、せめて一年は社会人生活を頑張ってからにしようと決めている。それは日和自身としてのせめてもの区切りのつもりだし、渋い顔をするだろう真木への切り札のつもりでもある。
「おまえ、今の学校でぴよちゃん先生って呼ばれてるんだって?」
日和がつぼみを認知してから三度目の春が過ぎたが、相変わらずこの人は忙しそうだ。むしろ帰宅してからこうしてパソコン仕事をするのが日常になっているのが、問題な気もするが。スーツを脱いで腰を下ろした途端に笑われて、日和は小さく口を尖らした。
「なんで知ってるんですか」
聞いたものの、誰から聞いたかなんてわかり切っている。
「というか、そもそも! そもそも、羽山さんの所為なんですけど。あの人が着任早々、俺を見るなり『お、ぴよちゃんじゃん』なんて言うから。それを聞いていた子たちが真似し出して」
「だって、あいつ、おまえと一緒で市に採用されてるスクールカウンセラーだから」
なにを当たり前のことをと言わんばかりの声に、日和は閉口した。違う、そうじゃない。
「あの人は、もうちょっとくらい、俺のことを尊重してくれてもいいと思う。ただでさえ、新卒の教師なんて舐められるのに」
「生徒に舐められるのを和の所為にしてやんなよ。スクールカウンセラーって、あれだ。生徒と教師と保護者との関係を取り持って、学校を良い風に循環させるのが仕事だからな」
「……」
だから、そうじゃない。言わないけど。そんな子どもじみたこと、言わないけど。
天然ってこれなの。今までずっとわかった上ではぐらかされているのだと信じて疑ってもいなかったけど。もしかして、本気で斜め上のことを考えてるの。沸いた疑問を日和は黙殺した。べつに、そこはどうでもいい。ただ、伝わっているだろうと過信しすぎるのはお互いの為にもよくないなとは思ったけれど。
「というか、おまえ、和に対して当たりがきついよな。妬いてんの」
「……ないです、よ」
だって、いまさらだ。けれど、声音が拗ねただろうことは否定できない。案の定、真木が声を立てずに笑った。
「へぇ。でも、俺は、仕事とは言え、おまえと一緒でいいなぁ、と、思ってはいるけど」
なんだかまったく敵わない。そう思う瞬間はいくつもあるが、今もまさにそうだ。
――俺一人、意地張ったのが馬鹿みたいだ。
「ねぇ、真木さん」
呼びかけに、視線が合う。優しい色の瞳に自分だけが特別に映っていることは、今でも奇跡のような幸せだと思っている。
「好き」
またそれか、と言わんばかりに「知ってる」と笑う。不満を示して、その手を引けば、掠めるようなキスが頬に触れる。そして、一言。愛おしさと優しさしかないような声が囁く。
やっとつかんだ好きは、柔らかできれいな音をしていた。
30
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
完結|好きから一番遠いはずだった
七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。
しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。
なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。
…はずだった。
【完結】取り柄は顔が良い事だけです
pino
BL
昔から顔だけは良い夏川伊吹は、高級デートクラブでバイトをするフリーター。25歳で美しい顔だけを頼りに様々な女性と仕事でデートを繰り返して何とか生計を立てている伊吹はたまに同性からもデートを申し込まれていた。お小遣い欲しさにいつも年上だけを相手にしていたけど、たまには若い子と触れ合って、ターゲット層を広げようと20歳の大学生とデートをする事に。
そこで出会った男に気に入られ、高額なプレゼントをされていい気になる伊吹だったが、相手は年下だしまだ学生だしと罪悪感を抱く。
そんな中もう一人の20歳の大学生の男からもデートを申し込まれ、更に同業でただの同僚だと思っていた23歳の男からも言い寄られて?
ノンケの伊吹と伊吹を落とそうと奮闘する三人の若者が巻き起こすラブコメディ!
BLです。
性的表現有り。
伊吹視点のお話になります。
題名に※が付いてるお話は他の登場人物の視点になります。
表紙は伊吹です。
【完結】※セーブポイントに入って一汁三菜の夕飯を頂いた勇者くんは体力が全回復します。
きのこいもむし
BL
ある日突然セーブポイントになってしまった自宅のクローゼットからダンジョン攻略中の勇者くんが出てきたので、一汁三菜の夕飯を作って一緒に食べようねみたいなお料理BLです。
自炊に目覚めた独身フリーターのアラサー男子(27)が、セーブポイントの中に入ると体力が全回復するタイプの勇者くん(19)を餌付けしてそれを肴に旨い酒を飲むだけの逆異世界転移もの。
食いしん坊わんこのローグライク系勇者×料理好きのセーブポイント系平凡受けの超ほんわかした感じの話です。
兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?
perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。
その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。
彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。
……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。
口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。
――「光希、俺はお前が好きだ。」
次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。
【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
「普通を探した彼の二年間の物語」
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
僕の恋人は、超イケメン!!
刃
BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?
【完結】君を上手に振る方法
社菘
BL
「んー、じゃあ俺と付き合う?」
「………はいっ?」
ひょんなことから、入学して早々距離感バグな見知らぬ先輩にそう言われた。
スクールカーストの上位というより、もはや王座にいるような学園のアイドルは『告白を断る理由が面倒だから、付き合っている人がほしい』のだそう。
お互いに利害が一致していたので、付き合ってみたのだが――
「……だめだ。僕、先輩のことを本気で……」
偽物の恋人から始まった不思議な関係。
デートはしたことないのに、キスだけが上手くなる。
この関係って、一体なに?
「……宇佐美くん。俺のこと、上手に振ってね」
年下うさぎ顔純粋男子(高1)×精神的優位美人男子(高3)の甘酸っぱくじれったい、少しだけ切ない恋の話。
✧毎日2回更新中!ボーナスタイムに更新予定✧
✧お気に入り登録・各話♡・エール📣作者大歓喜します✧
すみっこぼっちとお日さま後輩のベタ褒め愛
虎ノ威きよひ
BL
「満点とっても、どうせ誰も褒めてくれない」
高校2年生の杉菜幸哉《すぎなゆきや》は、いつも一人で黙々と勉強している。
友だちゼロのすみっこぼっちだ。
どうせ自分なんて、と諦めて、鬱々とした日々を送っていた。
そんなある日、イケメンの後輩・椿海斗《つばきかいと》がいきなり声をかけてくる。
「幸哉先輩、いつも満点ですごいです!」
「努力してる幸哉先輩、かっこいいです!」
「俺、頑張りました! 褒めてください!」
笑顔で名前を呼ばれ、思いっきり抱きつかれ、褒められ、褒めさせられ。
最初は「何だこいつ……」としか思ってなかった幸哉だったが。
「頑張ってるね」「えらいね」と真正面から言われるたびに、心の奥がじんわり熱くなっていく。
――椿は、太陽みたいなやつだ。
お日さま後輩×すみっこぼっち先輩
褒め合いながら、恋をしていくお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる