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4巻
4-3
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「リール、バターレイに行くの?」
「ええ。タイターリスが妃候補である姉さんを手放すとは思えないので、この国の守護精霊から逃れる方法をフィンに探させていたんです。あまり期待はしていませんでしたが……解決の糸口は掴んだと思います」
「糸口?」
「妖精です。フィンが交渉して、会わせてくれることになったんですよ。妖精は噂好きで物知りですし、人間の三倍は長生きしますからね。色々知っているそうですよ、精霊についても――この国の守護精霊についても」
それを聞いて、エリーゼは顔を輝かせた。
「ありがとうリール! 妖精万歳!」
「姉さんが嬉しそうで何よりですが、目的は忘れないでくださいよ」
エリーゼは大きく頷いて馬車に乗った。向かいに座ったディータが嘆息する。
「正貨にリバーシ、ソマリオラ商会の次は、妖精ですか。何がどうなっているのかわかりませんが。……あなた方がすごいということだけはわかりますよ」
「すごいかなあ?」
「さあ? 単にディータがこれまで生きていた世界が狭かっただけではありませんか?」
「確かに。返す言葉もありません」
息を吐くディータを見て、エリーゼはくすくすと笑う。
そうしているうちに、エリーゼたちを乗せた馬車は貧民街のバターレイへと入っていった。銅版が打ちつけられているので窓の外は見えないが、整備されていないガタガタの石畳に乗り上げた衝撃で、バターレイに着いたことがわかる。
エリーゼが馬車から降りると、すぐに迎えが来た。
「エリーゼさん、こっち!」
「はーい」
「……あの少女には見覚えがあります。まあ信用してもいいでしょう」
迎えに来た少女――リリを見て、リールはそう言う。リリは顔を顰めて溜息を吐くと、小走りで駆けていく。エリーゼたちも後に続いて走った。
リリは寂れた教会の地下室へとエリーゼたちを案内した。そこにお目当ての生き物を見つけて、エリーゼは飛びつきたくなるのをぐっと堪える。
綺麗な緑の髪をした七歳くらいの女の子がソファに座っていた。燭台に火を灯しただけの薄暗い地下室の中、その白い肌が淡く発光している。灰色のローブを身につけているので、その背中にあるはずの羽根は見えなかった。
「来たか、エリーゼ」
けらけらと笑うフィンは、慣れた様子で妖精の前に座っている。
「フィン……! 妖精……!」
「嬉しそうだなあ、オイ」
エリーゼは逸る気持ちを抑えつつ、まずはフィンに近づいた。そしてフィンの肩越しに、興味津々な眼差しを妖精に向ける。すると妖精の女の子は、少し居心地が悪そうに俯いた。
「……あまり見ないで」
エリーゼは声にならない歓声をあげた。妖精の女の子は声も可愛らしかった。古代語を話しているのは、それが普段使っている言葉だからだろう。
二つの意味を同時に伝える古代語。それをリール以外の誰かが正確に使うのを聞いたのは初めてで、エリーゼは嬉しくなった。
「ごめんね」
「言葉が話せるの?」
「うん!初めまして!」
「よろしく……。人間には珍しい」
妖精の女の子はエリーゼも古代語を話せることがわかると、途端に友好的になった。エリーゼは照れながら自己紹介する。
「エリーゼ……私の名前!」
「私は風の妖精」
「ああ……妖精は自分の名前を他人には教えないんだっけ」
エリーゼは思わず普通語で呟いたが、妖精の女の子は頷いた。どうやら普通語もわかるらしい。けれど、普段使っている言葉の方が話しやすいだろうと思い、エリーゼは古代語で尋ねた。
「名前を呼ばれると、魂が縛られちゃうんだよね?」
「名は体を示す。捕まったら逃げられない」
「大変だねえ」
「人間ほどじゃない。その代わりに寿命が長い。魔法も得意」
「なるほどね……」
エリーゼは本で読んだことがある。妖精の中でも薄い羽根を持ち、見た目より軽い身体を持つフェアリーという種族は、精霊に近い生き物なのだという。逆に人間に近いのは、エルフやドワーフ、羽根を持たない小人といった種族だとか。
フェアリーは精霊と違って目撃例がそれなりにあるものの、滅多にお目にかかれない種族だ。名前を呼ばれただけで逃げられなくなってしまうほど弱いから、普段は隠れて暮らしている。
今度は妖精がエリーゼに問いかけてくる。
「あなたも縛られてる? そう聞いた。この国の古い精霊から逃げたいの?」
「うん。今すぐ逃げたい。自由になりたい」
「気持ちはわかる」
妖精は人間に捕獲されては、売買されていると聞く。それを思うと、妖精がバターレイのような危険な街にいるのは正気の沙汰とは思えなかった。
「ここにいたらあなたも危ないよ」
「子供にしか会わないから大丈夫」
「……フィンも私も子供じゃないけど?」
そこでフィンが口を挟む。
「成人してるとかしてないとか、そういう意味じゃないってコトだろ? ……って、なんでそんな目で見んだよ!?」
風の妖精が身を竦めて、フィンをねめつけた。
「大人……なの?」
「オレは永遠に子供だよ!」
「それはそれで……ねえ」
「うるっせぇなあババア……」
「ババアじゃない!」
「泣き真似すんなよ。百歳越えてんだから、人間からしてみりゃ老婆だっつの」
泣き真似をする風の妖精と、それを呆れた目で見るフィン。二人はある種の信頼関係にあるらしい。エリーゼは少し驚きながら妖精に質問する。
「私はどうしたらいい?」
「……確かこの国の精霊は、千年くらい前からここを守ってる」
「千年前っていうと、ちょうど母上が勇者をしていた頃ですね――」
「勇者の子!? わからなかった! 握手して!」
風の妖精はリールの手を取り、無理やり握手した。するとリールの手に光の粉がつく。嫌そうな顔をしてローブで拭おうとするリールを見て、エリーゼは首を横にぶんぶん振った。
羨ましさのあまり、リールの姉だと自己申告したエリーゼの手も、風の妖精はぎゅっと握った。エリーゼはきらきらの粉を零さないよう、こっそり鞄に入れておく。
「私は勇者の子の味方だよ!なんでも聞いて!守護精霊のことが知りたいの? 精霊は人と共にいるとどんどん薄くなる」
「ボケる?」
「人間で言うなら。精霊は老いない。でもだんだん薄くなって、やがて消える」
風の妖精曰く、それが精霊の死を意味するという。ジスという名の守護精霊は、人間と共に生きてきたから、普通より早く薄くなっているそうだ。そして薄くなると、人間でいう「ボケた」状態になるらしい。
「もうすぐその精霊が死んで、私は解放される?」
「それは流石にない。あなたよりは長生き。でもかなり薄い。誰を守っているのかもわからなくなってる」
風の妖精が、ジスを憐れむように眉を顰めた。
「ジスに誤解させればいい。あなたが守るべき立場の人間だと。多分王家にその方法が伝わってる」
「それが何かは……」
「わからない」
「だよねー」
エリーゼは溜息を吐きかけたが、ふとあることに気付いてそれを呑み込んだ。精霊の死などという概念は、そもそも聞いたことがない。これはすごい情報だろう。
精霊神教会の前の聖女シルフローネが、そのことを知ったら――
(きっと大変なことになる……。うわあ……すごいこと聞いちゃった……)
くいと腕を引かれて、エリーゼは顔を上げる。いつの間にか風の妖精が、考え込むエリーゼの傍に寄ってきていた。妖精は緑色の目で、上目遣いに見つめてくる。
「役に立った?」
「多分ね」
エリーゼの言葉に、風の妖精はにっこりした。
「お礼をちょうだい!」
「え? 髪の毛?」
きょとんとするエリーゼに、風の妖精がさらに近づく。それをリールが手で制した。
「何に使うつもりですか? 怪しい魔法薬か何かを作るとか?」
「ううん! 里のみんなに教えるの! あなたもくれる?」
無邪気な子供のように振る舞う妖精を見て、リールは鼻に皺を寄せた。
「嫌ですよ……って、姉さん!?」
エリーゼは自分の髪を一房、短剣で切り取った。それを笑顔で風の妖精に差し出す。
妖精はエリーゼの髪をローブの中にそっとしまい、嬉しそうにはしゃいだ。とても百歳を越えるご老体には見えない。
「里に帰って自慢する! もう帰っていい?」
風の妖精が鞄を持ち上げると、光る鱗粉がさらさらと落ちてソファに溜まった。それをエリーゼがわくわくした目で見つめていたら、風の妖精の方もわくわくした顔をして、ふっと消えた。
目をぱちくりさせるエリーゼの横で、リールが冷静な声で分析する。
「空間魔法を使ったようですが、呪文を言わなかったところを見ると、妖精特有の魔法でしょうか?」
「それより、妖精の粉がいっぱい!」
「……その粉を身体にかけても、空を飛べたりはしませんよ」
「えっ、なんで知ってるの!? リールにピーターパンの話したっけ?」
「ええ。大昔に」
リールに掌を拭われて、エリーゼはふくれ面をした。
エリーゼたちはこの国を脱出するための作戦を立てるべく、一つの机を取り囲んだ。
「とはいえ、フィンたちにしてもらえることなんて、もう何にもない気がするけどね……」
「そんなコトねーよ。例えば、後宮から逃げ出した女がどうなったか聞きたくねーか?」
「実際にそんなことした人がいるの?」
エリーゼは目を丸くした。妃候補が後宮から逃げ出したということは、つまりアールジス王国に逆らったということだ。さらに言えば、この国の守護精霊に逆らったということでもある。
「つい一週間くらい前の話だけどな。精霊と交わった女の末裔が暮らしてるって言われてる村から、王子の指示で後宮に連れてこられた女がいたんだ。その女は、村に恋人がいたらしくてさ。その恋人に説得されて、後宮から逃げるコトを決意したらしい」
「よく決意したね……恐くなかったのかな?」
「国に逆らうんだから、そりゃ恐かっただろうが、妃候補が国から出られないようになってるコトは知らなかったみたいだな。国を出る手引きをしてくれっていうから、オレらは引き受けた。この国から出れば守護精霊の支配から逃れて、好きな男とも触れ合えると思い込んでたから、女のお目目はキラキラ輝いてたよ。だけど、女は王都から離れるにつれ――衰弱していった」
恐らく、フィンが彼らを誑かして実験したのだろうとエリーゼは予想した。だから話の雲行きが怪しくなってきたのを感じて、思わず眉を寄せる。
フィンはそんなエリーゼの反応を気にすることなく続けた。
「そんでもって、国境に近づくと、足がさらにおかしくなってきた。よく観察してみるとだな、脛の半ばから下が、勝手に痣だらけになっていくんだよ」
背中がぞわりとして、エリーゼはソファの上に足を乗せた。足を摩ってそのぞわぞわを消そうとしたが、いくら摩っても悪寒はなくならない。
「恋人の男はな、この国を出さえすれば治ると思ったらしい。か細い声で足の痛みを訴える女を抱き上げて、強行突破しようとしたんだ。――この国から出た途端、女の足はなくなった。だが、命まで取られたワケじゃない。国と精霊に逆らった罰がこの程度なら、まだマシなんじゃねえ? 今頃はどっかの国で幸せに暮らしてるだろ。……まあそいつらはラッキーだっただけで、必ずしも命が助かるワケじゃねーから、オススメはできねーケド」
どうやらフィンは、二組以上の男女を使って実験したようだ。
「助かる人と、助からない人がいる……?」
「ああ。オレはエリーゼなら少なくとも命は助かると思うけどな」
「どうして?」
「――精霊に愛されてるから」
エリーゼは思いきり顔を顰め、フィンを睨みつける。
「愛されてなんかない。纏わりつかれて、迷惑なだけ」
「だけど、お前が精霊に意識されているのは間違いない。多分守護精霊の一存でお前の命を奪うコトはできない。だから助かるって、そうオレは考えてる」
「そもそも精霊は、人間の命を直接奪うことはしないって聞いた」
「奪えるケド、敢えて奪わないだけなんじゃねーのかな? オレは風の妖精の話を聞いてそう思った」
「どういうこと?」
エリーゼは精霊を邪魔だと思っているが、それ以上に、精霊の方がエリーゼを邪魔だと思っている節がある。それでもエリーゼが少しは安心していられたのは、精霊が人間に直接危害を加えることはないと聞いたからだ。
それを覆すような言葉を聞いて、エリーゼはフィンを注視する。するとフィンは笑った。
「風の妖精が言ってただろ? 精霊は人と共にいると薄くなるって。多分、人間を殺すとそれがさらに早くなるんじゃねーか?」
「つまり、精霊が人間を殺すと死期が早まる……? なんでそう思うの?」
「――妖精の粉ってさ、妖精の里にいる時にはあんなにボロボロ落ちないみたいなんだよ」
「さっきのきらきらのことだよね?」
「そうだ。人間の街に来るとああしてボロボロ落ちる。風の妖精が言うには、自分より存在値が低い種族と関わるとそうなるんだってさ。相手の存在値が低い時、その相手の存在値に合わせて自分の存在値を削ってるらしい。その存在値ってのは――オレもよくわからねーんだケドな」
「……とにかく私が他の精霊に気にかけてもらっていれば、守護精霊の一存で殺されることはないんだよね?」
「あくまで、オレらの推測だけどな」
「レベルを上げる方法を調べて」
「は?」
いきなりの話題転換に、フィンが目を瞬かせる。エリーゼの視界の端に、ぽかんと口を開けるディータが映った。冒険者ギルドでギルドマスターが言ったことを思い出したのだろう。
エリーゼはギルドカードを取り出し、情報を展開する。
【勇者の妹】勇者の妹 Lv.1
それを見た途端、フィンが目をぎらつかせて身を乗り出した。リールは息を呑み、ディータは相変わらずアホ面を晒している。
「私は人間を超越して、勇者の妹という存在にレベルアップした。そして精霊から、レベルを上げろって言われてる。その精霊の期待に応えなきゃ」
「レベルアップって……ほんっとに……お前ってヤツはさァ……!」
フィンはレベルアップという概念を知っているらしく、興奮のあまり震えている。切羽詰まっているエリーゼとは違って、この状況を心底楽しんでいる様子なので、エリーゼは唇を尖らせた。
「何を喜んでるのか知らないけど、手伝ってくれるよね?」
「もちろんだって! 守護精霊への反逆に、精霊神教会潰しに、レベルアップに……お前といたら一生退屈しねーだろうぜ!」
何やら感動に打ち震えるフィンをほうっておき、エリーゼはディータを一瞥した。すると、ディータはびくりとした。
「このことを口外したら、許さない」
そのエリーゼの言葉にディータは姿勢を正し、大きく頷いてみせる。
そんな緊張感漂う空気を払拭したのはフィンだった。彼はソファから立ち上がると、エリーゼの傍までやってきて、その姿をまじまじと眺める。エリーゼは居心地が悪くなって身を引いた。
「レベルアップについてはこれから調べるとして――エリーゼの行動が相変わらず不自由なのも問題だよな。守護精霊のせいで、確か下種の男には触れられないようになってんだろ?」
「手を触るぐらいなら大丈夫だと思うけど。馬に乗る時にも触ったじゃん」
「そういやそうか。なら、どこまで触ると弾かれるんだ?」
「ディータが私の手の甲に唇をつけようとして、できなかったのだけは確かだけど……」
首を傾げるエリーゼに、フィンがにやりと笑った。
「じゃあ、実験してみてもイイか?」
エリーゼは頷いた。恐らくフィンはこの国から出ていった後宮の女たちを相手に実験したのだろうが、彼女たちと正妃候補であるエリーゼでは何か違うかもしれない。
フィンはまず、エリーゼの手首を掴んだ。そして掴む箇所を肘、二の腕と変えていったと思ったら――エリーゼを思いきり引き寄せ、一気に腕の中に収めた。
だが、どういうわけか弾かれる様子はない。
「あれ?」
エリーゼは抱きしめられたままフィンの顔を見上げた。するとその顔が思ったより近い場所にあったので、目を丸くする。
フィンもギョッとした顔をしたが、エリーゼを放すことはない。その腕は子供のように体温が高かった。
「触り方が甘いってコト……だと思うか?」
「そうなんじゃない?」
エリーゼは頷いた。腕や胸が触れることより、唇が触れる方が問題だと、守護精霊は判断したのだろう。フィンはソファから立ち上がりかけているリールと、特に何も思わない様子のディータをちらりと見てから、エリーゼを抱きしめる腕に力を込める。
「……どうだ?」
「苦しい」
エリーゼはフィンの肩に顎を乗せ、端的に感想を述べた。フィンはエリーゼを抱く力を少し緩めると、その背中に回している手を徐々に下げていく。その手を、リールが顔色を変えて掴んだ。
「な、に、を、しているんですか?」
「引っ込んでろよ弟クン。エリーゼと血の繋がってるお前は、今回の実験の役には立たねーから」
「……そうですね。それに貴方がヘンな真似をすれば、守護精霊がぶち殺してくれるでしょう。もうこの時点で殺してくれてもいいと思いますが……」
「おっかねーな」
けらけら笑うと、フィンはエリーゼから身体を離した。
そしてエリーゼの頬や耳に手で触れながら、フィンは眉を顰める。
「どうもサフィリディア様ともなると、ただの妾候補たちとは待遇が違うみたいだな。エディリンスたちはこの時点でアウトだったぜ? サフィリディアが触れさせてもイイと思う相手になら、ソコソコ触れさせても構わないってコトなんじゃねーか?」
フィンの言葉に、リールが眉根を寄せる。
「そんな本末転倒なことがあり得るでしょうか? サフィリディアは王子の正妃候補ですよ? 位の低いエディリンスには触れられない男が、サフィリディアには触れることができるなんて」
「ねぇ、くすぐったいから早く終わらせて……」
フィンに身体を撫で回されて、エリーゼがうんざりしてきた時、ディータが口を開いた。
「エリーゼ様がその男を受け入れているから、触れられても平気なんですよね? それってつまり、エリーゼ様はその男のことが――」
「フィンとはそういう関係じゃないから」
エリーゼはぴしゃりと否定する。ディータはむすりとした。
「でもぼくの時は、唇がちょっと触れそうになっただけでバチッとなったのに……」
「人徳の差じゃないの?」
「その男とぼくの人徳を比べて、ぼくの方が負けるって言うんですか!?」
愕然としているディータを一瞥し、フィンは頷いた。
「オレも一度、だめなパターンを体験しとくか。エディリンスが相手の時は、痛いだけで死にはしなかったケド……サフィリディア相手だと死ぬとかいうオチはねーよな?」
フィンは躊躇っていたが、やがて意を決したのかエリーゼの首に口を近付ける。
一体何をするのだろうと思いながら、その灰色の後頭部を眺めていたエリーゼだが――直後、フィンを突き飛ばして叫んだ。
「いったーい!」
エリーゼは首を手で押さえて悲鳴をあげ、フィンから距離を取る。
「噛んだ!? なんで!?」
「アレ? 今のはあくまでエリーゼに突き飛ばされただけで、弾かれたわけじゃねーよな?」
「首なんて急所でしょ! ふざけないでよ! 人が優しくしてたらつけ上がって!」
エリーゼはフィンをじろりと睨みつける。すると、フィンは笑みを浮かべて謝った。
「悪かったって。もう痛いコトはしねーから」
フィンはそう言ってエリーゼの手を取り、その指先に乾いた唇を付けた。油断なくフィンを睨みつけるエリーゼの視線の先で、フィンの唇が指先から指の腹へと移動する。
だが、やはり彼が守護精霊によって弾かれることはない。
「……なんで弾かれないの?」
「姉さん、もしかして、守護精霊の呪いがもう解けているんじゃありませんか? 姉さんが精霊クエストを遂行する気になったから、そのクエストを出した精霊が自分のクエストを進めさせるために、姉さんを自由の身にしたとか……」
そのリールの言葉を聞き、エリーゼは空を見上げて古代語で呼びかけた。
「エシュテスリーカ」
『ぼくじゃない』
くすくすとおかしそうに笑いながら、エシュテスリーカは答えた。
『キミ、守護精霊の寵愛の印を持ってるじゃない』
エシュテスリーカ曰く、それを持っていれば、守護精霊が持ち主を王族だと誤解し、味方してくれるのだという。この国から出られるし、王族でない異性と触れ合うこともできるそうだ。
だが、そんなものを手に入れた覚えはない。エリーゼは首を傾げ、自分の持ち物を一つ一つ机の上に出していった。
ギルドカードを机に置いたところで、もう一枚のカードが懐に入っていることを思い出す。
「あ」
エリーゼは懐の奥にしまい込んでいた、白銀色のカードを取り出した。真珠のような色をしたカードの両面に、虹色の輪を貫く剣――この国の紋章が描かれている。
「……姉さん、それはなんですか?」
「多分、守護精霊の寵愛の印ってやつ?」
「なんでそんなものを持っているんです?」
「タイターリスがくれた」
その言葉に、リールが首を捻る。フィンも首を傾げ、エリーゼの顔を窺いながら言う。
「オレの考え違いでなけりゃ、確かエリーゼをこの国に引き留めたがってるのは、タイターリス・ヘデン――第一王子殿下だったはずだ。そうだよな?」
タイターリスはエリーゼが操る古代魔語が、自分の精霊の呪いを解くための重要な鍵の一つだと考えているのだ。
「その王子様が、お前がこの国を出るために必要なモンをくれたってのか? もしかして王子様――わかってないんじゃねえ?」
「タイターリスならありえますね。時おり愚かなほど楽天的ですから。自分の精霊の呪いを解こうと必死な様子から察するに、そのカードが持つ力を把握していながら姉さんに渡したという可能性は低いです」
「バカだなー、タイターリス」
「……リール様たちが今けなしているのは、この国の次期国王様ですよね?」
頭痛を堪えるように言うディータを、誰も気にしない。
きらきらと輝くカードの表面を、エリーゼはなぞった。
「ええ。タイターリスが妃候補である姉さんを手放すとは思えないので、この国の守護精霊から逃れる方法をフィンに探させていたんです。あまり期待はしていませんでしたが……解決の糸口は掴んだと思います」
「糸口?」
「妖精です。フィンが交渉して、会わせてくれることになったんですよ。妖精は噂好きで物知りですし、人間の三倍は長生きしますからね。色々知っているそうですよ、精霊についても――この国の守護精霊についても」
それを聞いて、エリーゼは顔を輝かせた。
「ありがとうリール! 妖精万歳!」
「姉さんが嬉しそうで何よりですが、目的は忘れないでくださいよ」
エリーゼは大きく頷いて馬車に乗った。向かいに座ったディータが嘆息する。
「正貨にリバーシ、ソマリオラ商会の次は、妖精ですか。何がどうなっているのかわかりませんが。……あなた方がすごいということだけはわかりますよ」
「すごいかなあ?」
「さあ? 単にディータがこれまで生きていた世界が狭かっただけではありませんか?」
「確かに。返す言葉もありません」
息を吐くディータを見て、エリーゼはくすくすと笑う。
そうしているうちに、エリーゼたちを乗せた馬車は貧民街のバターレイへと入っていった。銅版が打ちつけられているので窓の外は見えないが、整備されていないガタガタの石畳に乗り上げた衝撃で、バターレイに着いたことがわかる。
エリーゼが馬車から降りると、すぐに迎えが来た。
「エリーゼさん、こっち!」
「はーい」
「……あの少女には見覚えがあります。まあ信用してもいいでしょう」
迎えに来た少女――リリを見て、リールはそう言う。リリは顔を顰めて溜息を吐くと、小走りで駆けていく。エリーゼたちも後に続いて走った。
リリは寂れた教会の地下室へとエリーゼたちを案内した。そこにお目当ての生き物を見つけて、エリーゼは飛びつきたくなるのをぐっと堪える。
綺麗な緑の髪をした七歳くらいの女の子がソファに座っていた。燭台に火を灯しただけの薄暗い地下室の中、その白い肌が淡く発光している。灰色のローブを身につけているので、その背中にあるはずの羽根は見えなかった。
「来たか、エリーゼ」
けらけらと笑うフィンは、慣れた様子で妖精の前に座っている。
「フィン……! 妖精……!」
「嬉しそうだなあ、オイ」
エリーゼは逸る気持ちを抑えつつ、まずはフィンに近づいた。そしてフィンの肩越しに、興味津々な眼差しを妖精に向ける。すると妖精の女の子は、少し居心地が悪そうに俯いた。
「……あまり見ないで」
エリーゼは声にならない歓声をあげた。妖精の女の子は声も可愛らしかった。古代語を話しているのは、それが普段使っている言葉だからだろう。
二つの意味を同時に伝える古代語。それをリール以外の誰かが正確に使うのを聞いたのは初めてで、エリーゼは嬉しくなった。
「ごめんね」
「言葉が話せるの?」
「うん!初めまして!」
「よろしく……。人間には珍しい」
妖精の女の子はエリーゼも古代語を話せることがわかると、途端に友好的になった。エリーゼは照れながら自己紹介する。
「エリーゼ……私の名前!」
「私は風の妖精」
「ああ……妖精は自分の名前を他人には教えないんだっけ」
エリーゼは思わず普通語で呟いたが、妖精の女の子は頷いた。どうやら普通語もわかるらしい。けれど、普段使っている言葉の方が話しやすいだろうと思い、エリーゼは古代語で尋ねた。
「名前を呼ばれると、魂が縛られちゃうんだよね?」
「名は体を示す。捕まったら逃げられない」
「大変だねえ」
「人間ほどじゃない。その代わりに寿命が長い。魔法も得意」
「なるほどね……」
エリーゼは本で読んだことがある。妖精の中でも薄い羽根を持ち、見た目より軽い身体を持つフェアリーという種族は、精霊に近い生き物なのだという。逆に人間に近いのは、エルフやドワーフ、羽根を持たない小人といった種族だとか。
フェアリーは精霊と違って目撃例がそれなりにあるものの、滅多にお目にかかれない種族だ。名前を呼ばれただけで逃げられなくなってしまうほど弱いから、普段は隠れて暮らしている。
今度は妖精がエリーゼに問いかけてくる。
「あなたも縛られてる? そう聞いた。この国の古い精霊から逃げたいの?」
「うん。今すぐ逃げたい。自由になりたい」
「気持ちはわかる」
妖精は人間に捕獲されては、売買されていると聞く。それを思うと、妖精がバターレイのような危険な街にいるのは正気の沙汰とは思えなかった。
「ここにいたらあなたも危ないよ」
「子供にしか会わないから大丈夫」
「……フィンも私も子供じゃないけど?」
そこでフィンが口を挟む。
「成人してるとかしてないとか、そういう意味じゃないってコトだろ? ……って、なんでそんな目で見んだよ!?」
風の妖精が身を竦めて、フィンをねめつけた。
「大人……なの?」
「オレは永遠に子供だよ!」
「それはそれで……ねえ」
「うるっせぇなあババア……」
「ババアじゃない!」
「泣き真似すんなよ。百歳越えてんだから、人間からしてみりゃ老婆だっつの」
泣き真似をする風の妖精と、それを呆れた目で見るフィン。二人はある種の信頼関係にあるらしい。エリーゼは少し驚きながら妖精に質問する。
「私はどうしたらいい?」
「……確かこの国の精霊は、千年くらい前からここを守ってる」
「千年前っていうと、ちょうど母上が勇者をしていた頃ですね――」
「勇者の子!? わからなかった! 握手して!」
風の妖精はリールの手を取り、無理やり握手した。するとリールの手に光の粉がつく。嫌そうな顔をしてローブで拭おうとするリールを見て、エリーゼは首を横にぶんぶん振った。
羨ましさのあまり、リールの姉だと自己申告したエリーゼの手も、風の妖精はぎゅっと握った。エリーゼはきらきらの粉を零さないよう、こっそり鞄に入れておく。
「私は勇者の子の味方だよ!なんでも聞いて!守護精霊のことが知りたいの? 精霊は人と共にいるとどんどん薄くなる」
「ボケる?」
「人間で言うなら。精霊は老いない。でもだんだん薄くなって、やがて消える」
風の妖精曰く、それが精霊の死を意味するという。ジスという名の守護精霊は、人間と共に生きてきたから、普通より早く薄くなっているそうだ。そして薄くなると、人間でいう「ボケた」状態になるらしい。
「もうすぐその精霊が死んで、私は解放される?」
「それは流石にない。あなたよりは長生き。でもかなり薄い。誰を守っているのかもわからなくなってる」
風の妖精が、ジスを憐れむように眉を顰めた。
「ジスに誤解させればいい。あなたが守るべき立場の人間だと。多分王家にその方法が伝わってる」
「それが何かは……」
「わからない」
「だよねー」
エリーゼは溜息を吐きかけたが、ふとあることに気付いてそれを呑み込んだ。精霊の死などという概念は、そもそも聞いたことがない。これはすごい情報だろう。
精霊神教会の前の聖女シルフローネが、そのことを知ったら――
(きっと大変なことになる……。うわあ……すごいこと聞いちゃった……)
くいと腕を引かれて、エリーゼは顔を上げる。いつの間にか風の妖精が、考え込むエリーゼの傍に寄ってきていた。妖精は緑色の目で、上目遣いに見つめてくる。
「役に立った?」
「多分ね」
エリーゼの言葉に、風の妖精はにっこりした。
「お礼をちょうだい!」
「え? 髪の毛?」
きょとんとするエリーゼに、風の妖精がさらに近づく。それをリールが手で制した。
「何に使うつもりですか? 怪しい魔法薬か何かを作るとか?」
「ううん! 里のみんなに教えるの! あなたもくれる?」
無邪気な子供のように振る舞う妖精を見て、リールは鼻に皺を寄せた。
「嫌ですよ……って、姉さん!?」
エリーゼは自分の髪を一房、短剣で切り取った。それを笑顔で風の妖精に差し出す。
妖精はエリーゼの髪をローブの中にそっとしまい、嬉しそうにはしゃいだ。とても百歳を越えるご老体には見えない。
「里に帰って自慢する! もう帰っていい?」
風の妖精が鞄を持ち上げると、光る鱗粉がさらさらと落ちてソファに溜まった。それをエリーゼがわくわくした目で見つめていたら、風の妖精の方もわくわくした顔をして、ふっと消えた。
目をぱちくりさせるエリーゼの横で、リールが冷静な声で分析する。
「空間魔法を使ったようですが、呪文を言わなかったところを見ると、妖精特有の魔法でしょうか?」
「それより、妖精の粉がいっぱい!」
「……その粉を身体にかけても、空を飛べたりはしませんよ」
「えっ、なんで知ってるの!? リールにピーターパンの話したっけ?」
「ええ。大昔に」
リールに掌を拭われて、エリーゼはふくれ面をした。
エリーゼたちはこの国を脱出するための作戦を立てるべく、一つの机を取り囲んだ。
「とはいえ、フィンたちにしてもらえることなんて、もう何にもない気がするけどね……」
「そんなコトねーよ。例えば、後宮から逃げ出した女がどうなったか聞きたくねーか?」
「実際にそんなことした人がいるの?」
エリーゼは目を丸くした。妃候補が後宮から逃げ出したということは、つまりアールジス王国に逆らったということだ。さらに言えば、この国の守護精霊に逆らったということでもある。
「つい一週間くらい前の話だけどな。精霊と交わった女の末裔が暮らしてるって言われてる村から、王子の指示で後宮に連れてこられた女がいたんだ。その女は、村に恋人がいたらしくてさ。その恋人に説得されて、後宮から逃げるコトを決意したらしい」
「よく決意したね……恐くなかったのかな?」
「国に逆らうんだから、そりゃ恐かっただろうが、妃候補が国から出られないようになってるコトは知らなかったみたいだな。国を出る手引きをしてくれっていうから、オレらは引き受けた。この国から出れば守護精霊の支配から逃れて、好きな男とも触れ合えると思い込んでたから、女のお目目はキラキラ輝いてたよ。だけど、女は王都から離れるにつれ――衰弱していった」
恐らく、フィンが彼らを誑かして実験したのだろうとエリーゼは予想した。だから話の雲行きが怪しくなってきたのを感じて、思わず眉を寄せる。
フィンはそんなエリーゼの反応を気にすることなく続けた。
「そんでもって、国境に近づくと、足がさらにおかしくなってきた。よく観察してみるとだな、脛の半ばから下が、勝手に痣だらけになっていくんだよ」
背中がぞわりとして、エリーゼはソファの上に足を乗せた。足を摩ってそのぞわぞわを消そうとしたが、いくら摩っても悪寒はなくならない。
「恋人の男はな、この国を出さえすれば治ると思ったらしい。か細い声で足の痛みを訴える女を抱き上げて、強行突破しようとしたんだ。――この国から出た途端、女の足はなくなった。だが、命まで取られたワケじゃない。国と精霊に逆らった罰がこの程度なら、まだマシなんじゃねえ? 今頃はどっかの国で幸せに暮らしてるだろ。……まあそいつらはラッキーだっただけで、必ずしも命が助かるワケじゃねーから、オススメはできねーケド」
どうやらフィンは、二組以上の男女を使って実験したようだ。
「助かる人と、助からない人がいる……?」
「ああ。オレはエリーゼなら少なくとも命は助かると思うけどな」
「どうして?」
「――精霊に愛されてるから」
エリーゼは思いきり顔を顰め、フィンを睨みつける。
「愛されてなんかない。纏わりつかれて、迷惑なだけ」
「だけど、お前が精霊に意識されているのは間違いない。多分守護精霊の一存でお前の命を奪うコトはできない。だから助かるって、そうオレは考えてる」
「そもそも精霊は、人間の命を直接奪うことはしないって聞いた」
「奪えるケド、敢えて奪わないだけなんじゃねーのかな? オレは風の妖精の話を聞いてそう思った」
「どういうこと?」
エリーゼは精霊を邪魔だと思っているが、それ以上に、精霊の方がエリーゼを邪魔だと思っている節がある。それでもエリーゼが少しは安心していられたのは、精霊が人間に直接危害を加えることはないと聞いたからだ。
それを覆すような言葉を聞いて、エリーゼはフィンを注視する。するとフィンは笑った。
「風の妖精が言ってただろ? 精霊は人と共にいると薄くなるって。多分、人間を殺すとそれがさらに早くなるんじゃねーか?」
「つまり、精霊が人間を殺すと死期が早まる……? なんでそう思うの?」
「――妖精の粉ってさ、妖精の里にいる時にはあんなにボロボロ落ちないみたいなんだよ」
「さっきのきらきらのことだよね?」
「そうだ。人間の街に来るとああしてボロボロ落ちる。風の妖精が言うには、自分より存在値が低い種族と関わるとそうなるんだってさ。相手の存在値が低い時、その相手の存在値に合わせて自分の存在値を削ってるらしい。その存在値ってのは――オレもよくわからねーんだケドな」
「……とにかく私が他の精霊に気にかけてもらっていれば、守護精霊の一存で殺されることはないんだよね?」
「あくまで、オレらの推測だけどな」
「レベルを上げる方法を調べて」
「は?」
いきなりの話題転換に、フィンが目を瞬かせる。エリーゼの視界の端に、ぽかんと口を開けるディータが映った。冒険者ギルドでギルドマスターが言ったことを思い出したのだろう。
エリーゼはギルドカードを取り出し、情報を展開する。
【勇者の妹】勇者の妹 Lv.1
それを見た途端、フィンが目をぎらつかせて身を乗り出した。リールは息を呑み、ディータは相変わらずアホ面を晒している。
「私は人間を超越して、勇者の妹という存在にレベルアップした。そして精霊から、レベルを上げろって言われてる。その精霊の期待に応えなきゃ」
「レベルアップって……ほんっとに……お前ってヤツはさァ……!」
フィンはレベルアップという概念を知っているらしく、興奮のあまり震えている。切羽詰まっているエリーゼとは違って、この状況を心底楽しんでいる様子なので、エリーゼは唇を尖らせた。
「何を喜んでるのか知らないけど、手伝ってくれるよね?」
「もちろんだって! 守護精霊への反逆に、精霊神教会潰しに、レベルアップに……お前といたら一生退屈しねーだろうぜ!」
何やら感動に打ち震えるフィンをほうっておき、エリーゼはディータを一瞥した。すると、ディータはびくりとした。
「このことを口外したら、許さない」
そのエリーゼの言葉にディータは姿勢を正し、大きく頷いてみせる。
そんな緊張感漂う空気を払拭したのはフィンだった。彼はソファから立ち上がると、エリーゼの傍までやってきて、その姿をまじまじと眺める。エリーゼは居心地が悪くなって身を引いた。
「レベルアップについてはこれから調べるとして――エリーゼの行動が相変わらず不自由なのも問題だよな。守護精霊のせいで、確か下種の男には触れられないようになってんだろ?」
「手を触るぐらいなら大丈夫だと思うけど。馬に乗る時にも触ったじゃん」
「そういやそうか。なら、どこまで触ると弾かれるんだ?」
「ディータが私の手の甲に唇をつけようとして、できなかったのだけは確かだけど……」
首を傾げるエリーゼに、フィンがにやりと笑った。
「じゃあ、実験してみてもイイか?」
エリーゼは頷いた。恐らくフィンはこの国から出ていった後宮の女たちを相手に実験したのだろうが、彼女たちと正妃候補であるエリーゼでは何か違うかもしれない。
フィンはまず、エリーゼの手首を掴んだ。そして掴む箇所を肘、二の腕と変えていったと思ったら――エリーゼを思いきり引き寄せ、一気に腕の中に収めた。
だが、どういうわけか弾かれる様子はない。
「あれ?」
エリーゼは抱きしめられたままフィンの顔を見上げた。するとその顔が思ったより近い場所にあったので、目を丸くする。
フィンもギョッとした顔をしたが、エリーゼを放すことはない。その腕は子供のように体温が高かった。
「触り方が甘いってコト……だと思うか?」
「そうなんじゃない?」
エリーゼは頷いた。腕や胸が触れることより、唇が触れる方が問題だと、守護精霊は判断したのだろう。フィンはソファから立ち上がりかけているリールと、特に何も思わない様子のディータをちらりと見てから、エリーゼを抱きしめる腕に力を込める。
「……どうだ?」
「苦しい」
エリーゼはフィンの肩に顎を乗せ、端的に感想を述べた。フィンはエリーゼを抱く力を少し緩めると、その背中に回している手を徐々に下げていく。その手を、リールが顔色を変えて掴んだ。
「な、に、を、しているんですか?」
「引っ込んでろよ弟クン。エリーゼと血の繋がってるお前は、今回の実験の役には立たねーから」
「……そうですね。それに貴方がヘンな真似をすれば、守護精霊がぶち殺してくれるでしょう。もうこの時点で殺してくれてもいいと思いますが……」
「おっかねーな」
けらけら笑うと、フィンはエリーゼから身体を離した。
そしてエリーゼの頬や耳に手で触れながら、フィンは眉を顰める。
「どうもサフィリディア様ともなると、ただの妾候補たちとは待遇が違うみたいだな。エディリンスたちはこの時点でアウトだったぜ? サフィリディアが触れさせてもイイと思う相手になら、ソコソコ触れさせても構わないってコトなんじゃねーか?」
フィンの言葉に、リールが眉根を寄せる。
「そんな本末転倒なことがあり得るでしょうか? サフィリディアは王子の正妃候補ですよ? 位の低いエディリンスには触れられない男が、サフィリディアには触れることができるなんて」
「ねぇ、くすぐったいから早く終わらせて……」
フィンに身体を撫で回されて、エリーゼがうんざりしてきた時、ディータが口を開いた。
「エリーゼ様がその男を受け入れているから、触れられても平気なんですよね? それってつまり、エリーゼ様はその男のことが――」
「フィンとはそういう関係じゃないから」
エリーゼはぴしゃりと否定する。ディータはむすりとした。
「でもぼくの時は、唇がちょっと触れそうになっただけでバチッとなったのに……」
「人徳の差じゃないの?」
「その男とぼくの人徳を比べて、ぼくの方が負けるって言うんですか!?」
愕然としているディータを一瞥し、フィンは頷いた。
「オレも一度、だめなパターンを体験しとくか。エディリンスが相手の時は、痛いだけで死にはしなかったケド……サフィリディア相手だと死ぬとかいうオチはねーよな?」
フィンは躊躇っていたが、やがて意を決したのかエリーゼの首に口を近付ける。
一体何をするのだろうと思いながら、その灰色の後頭部を眺めていたエリーゼだが――直後、フィンを突き飛ばして叫んだ。
「いったーい!」
エリーゼは首を手で押さえて悲鳴をあげ、フィンから距離を取る。
「噛んだ!? なんで!?」
「アレ? 今のはあくまでエリーゼに突き飛ばされただけで、弾かれたわけじゃねーよな?」
「首なんて急所でしょ! ふざけないでよ! 人が優しくしてたらつけ上がって!」
エリーゼはフィンをじろりと睨みつける。すると、フィンは笑みを浮かべて謝った。
「悪かったって。もう痛いコトはしねーから」
フィンはそう言ってエリーゼの手を取り、その指先に乾いた唇を付けた。油断なくフィンを睨みつけるエリーゼの視線の先で、フィンの唇が指先から指の腹へと移動する。
だが、やはり彼が守護精霊によって弾かれることはない。
「……なんで弾かれないの?」
「姉さん、もしかして、守護精霊の呪いがもう解けているんじゃありませんか? 姉さんが精霊クエストを遂行する気になったから、そのクエストを出した精霊が自分のクエストを進めさせるために、姉さんを自由の身にしたとか……」
そのリールの言葉を聞き、エリーゼは空を見上げて古代語で呼びかけた。
「エシュテスリーカ」
『ぼくじゃない』
くすくすとおかしそうに笑いながら、エシュテスリーカは答えた。
『キミ、守護精霊の寵愛の印を持ってるじゃない』
エシュテスリーカ曰く、それを持っていれば、守護精霊が持ち主を王族だと誤解し、味方してくれるのだという。この国から出られるし、王族でない異性と触れ合うこともできるそうだ。
だが、そんなものを手に入れた覚えはない。エリーゼは首を傾げ、自分の持ち物を一つ一つ机の上に出していった。
ギルドカードを机に置いたところで、もう一枚のカードが懐に入っていることを思い出す。
「あ」
エリーゼは懐の奥にしまい込んでいた、白銀色のカードを取り出した。真珠のような色をしたカードの両面に、虹色の輪を貫く剣――この国の紋章が描かれている。
「……姉さん、それはなんですか?」
「多分、守護精霊の寵愛の印ってやつ?」
「なんでそんなものを持っているんです?」
「タイターリスがくれた」
その言葉に、リールが首を捻る。フィンも首を傾げ、エリーゼの顔を窺いながら言う。
「オレの考え違いでなけりゃ、確かエリーゼをこの国に引き留めたがってるのは、タイターリス・ヘデン――第一王子殿下だったはずだ。そうだよな?」
タイターリスはエリーゼが操る古代魔語が、自分の精霊の呪いを解くための重要な鍵の一つだと考えているのだ。
「その王子様が、お前がこの国を出るために必要なモンをくれたってのか? もしかして王子様――わかってないんじゃねえ?」
「タイターリスならありえますね。時おり愚かなほど楽天的ですから。自分の精霊の呪いを解こうと必死な様子から察するに、そのカードが持つ力を把握していながら姉さんに渡したという可能性は低いです」
「バカだなー、タイターリス」
「……リール様たちが今けなしているのは、この国の次期国王様ですよね?」
頭痛を堪えるように言うディータを、誰も気にしない。
きらきらと輝くカードの表面を、エリーゼはなぞった。
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