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一品目 板わさ/接吻 -kiss-(前)
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年が明けて急に冷え込んできた。会社用にと買ったチェスターコートでは首や胸から寒さが染み込んでくる。
駅に降りてすぐ吹き抜けた風に、反町はぶるりと身体を震わせた。
金曜の夜ということもあって、小規模ながら飲み屋街のあるこの駅で降りる人も多い。駅前のチェーン店で飲むであろう若者の横をすり抜けて、反町は華やかな明かりが煌々としている通りから外れて歩き出す。
この駅は自宅の最寄りでもあるが、金曜日だけは真っ直ぐに帰らない。
腹も健康診断の数値も気になる反町の週に一度のお楽しみが、この街灯がポツポツとしか立っていない道にあった。
『こう冷える日はやっぱり熱燗か。でも焼酎も捨てがたい』
今の気分を慎重に吟味しながらこぢんまりとした店ののれんをくぐる。赤提灯がなければ民家と見間違えそうな店構えが、寒さに寄せた肩の緊張を早くもほぐしてくれるようだった。
ガラガラっと音を立てて扉を開ければ、暖かい空気とともに「っらっしゃい」と無愛想な声が冷え切った反町に届く。
「居酒屋 ちろり」
店名に似合わぬ気難しそうな大将がやっているこの店が反町の憩いの場だ。
四十も半ばになり、あと数年すればアラフィフと呼ばれるような年頃。
独り身の寂しさと、こじらせた自意識を抱える男を癒やすのが、この店の料理とかすかに響く懐かしいヒット曲たちだ。
「いやあ、冷えるね」
「ここ数日は特に、な」
カウンターが主で、四人がけのテーブルが三席。この規模のおかげか、いつ来ても一人飲み客にとって非常に居心地がいい。
お世辞にも愛想がいいと言えない大将も、このノスタルジー溢れる店のアジだと思える。
「今日は熱燗かな。それと板わさ」
おつまみははじめから決めていた。まずは板わさだと。やれ正月だ新年会だと連れ回されて疲れた胃に優しいものが反町は食べたかった。
「板わさか。雄町の純米酒もあるが……。こう寒いんじゃ、ひやは野暮だな。なら、こいつをぬる燗でどうだ。人肌より少し熱いくらいの」
そう言って大将が一本の四合瓶を取り出す。
黒っぽいつるりとした瓶には、洒落た筆文字のラベルが貼られている。
『特別純米か。これなら冷酒でグイッ、キリーッといきてえな』と眉をひそめる反町に大将が「こいつはな」と語りかける。
「特別純米だから米の旨味も強い。冷酒も熱燗も悪くないが、ぬる燗で飲むと香りが優しく開く。板わさも楽しめると思う」
そんな風に言われてしまっては反町の呑兵衛根性がくすぐられる。思わずゴクリと喉を鳴らすと「じゃあそれ一合ちょうだい」とうなずいた。
大将はすぐに準備に取り掛かってくれた。四合瓶の栓が外れるポンッという音に混じって、店内のBGMが新しいものに切り替わる。
ハイトーンなのにどこか深い声。ドラマでも使われていたあの曲だ、と反町は息を吐く。
初めて聞いたのは中学生の頃だ。自分もこんな渋くて情熱的な恋をして結婚をするのだと、あの頃は何の根拠もなく思っていた。
しかし、歌やドラマのような恋は反町の友人たちに聞いても起こってはいなかった。
若かったのだ。身体が求めるままキスをすれば心がついてくると信じていたことが。
「あれ、反町さん。いらっしゃい。やっと来たあ」
「こんばんは。早希ちゃん」
思い出に浸る反町に声をかけたのは、バイトの早希。
反町よりも二十歳ほど下。大人の仲間入りを果たして数年の彼女は、どうやら奥で洗い物をしていたようだ。
「早希ちゃん、いいかい」
「はーい」
元気な返事を聞かせてくれた早希はカウンターの中に戻っていく。
彼氏との結婚資金を貯めているらしい彼女の活発な姿は反町の目に微笑ましく映る。元気をもらえるのはオジサンになった証拠かと、思って苦笑する反町のもとに戻ってきた早希が小鉢とお湯に漬かったちろりを持ってきた。
「はい。お通しとぬる燗。」
ここではお燗をお湯を張った枡に錫のちろりを乗せて出すのがこだわりだ。
大将から、このほうが雑味が抑えられると以前聞いた。
プラシーボ効果というのか、不思議とこの店の燗は味が丸いように反町も感じている。
そーっとちろりから白いお猪口に酒を注いでいく。
白地のお猪口の底には青い円が描かれていて、それだけのことが反町の心を盛り上がらせた。
カレーをスパイスから作る男と同じくらい、酒器にうるさい男は面倒だという自覚は反町にもある。
だが、酒によって微妙に違う色合いを感じられるこのお猪口は、反町にとってシンプル・イズ・ザ・ベストとも言える代物なのだ。
蛇の目の青と白の境界線はどこまで澄んでいるのか。この一献の冴えをじっくり見つめてから、ほおっと息を吐き出す。
「それにしても、エッチだね。この曲」
「そうか?」
妄想たくましい中学生男子ならまだしも、酸いも甘いも味わい出した女の子が言うのが意外で、反町は聞き返してしまった。
確かにまだ女を知らなかった頃には、歌詞にもドラマにもずいぶんドキドキさせられたが。
「うん。だって、ぶっちゅーーってしようってことでしょ?」
「あはは。まあ、有り体に言えば、かな」
当時、背伸びをし始めた男たちには、相手の全てを奪うような、相手に全てを捧げるようなキスは憧れだったが、イマドキの子は違うのだろうか。
「でもさあ、ドキドキとかそういうの、もう良いかな」
「彼氏にドキドキしないの?」
「するけど、一緒にいてまったりできるのが良いんだよね」
なるほどそういうものか、と思いながら反町はぬる燗を煽る。
熱燗のようなピリリとしたキレはないが、この包み込むような優しさもいい。刺激的な恋も、温かな恋も捨てがたいのと同じ。どちらもいいと、満足な恋をしている早希に反町は言わないでおいた。
この酒はお通しの里芋の煮っ転がしとも相性が良さそうだ。ほかほかと湯気を立てる様子が田舎のようで反町をホッとさせる。
「早希ちゃん、あがりだよ」
「はーい」
「じゃあ、早希ちゃん。またね」
「うん、今度はもう少し早く来てね」
そう言って早希は下がっていった。早希にとって反町の顔はなかなか好みらしく、会うのを楽しみにしてくれていた。
「おまたせ、板わさだよ」
いよいよメインディッシュの到着に反町の胸が一気に高鳴る。
これはただの肴じゃない。反町にとって、シンプルに完成された飲みを約束する、新年初飲みにふさわしい一品なのだ。
駅に降りてすぐ吹き抜けた風に、反町はぶるりと身体を震わせた。
金曜の夜ということもあって、小規模ながら飲み屋街のあるこの駅で降りる人も多い。駅前のチェーン店で飲むであろう若者の横をすり抜けて、反町は華やかな明かりが煌々としている通りから外れて歩き出す。
この駅は自宅の最寄りでもあるが、金曜日だけは真っ直ぐに帰らない。
腹も健康診断の数値も気になる反町の週に一度のお楽しみが、この街灯がポツポツとしか立っていない道にあった。
『こう冷える日はやっぱり熱燗か。でも焼酎も捨てがたい』
今の気分を慎重に吟味しながらこぢんまりとした店ののれんをくぐる。赤提灯がなければ民家と見間違えそうな店構えが、寒さに寄せた肩の緊張を早くもほぐしてくれるようだった。
ガラガラっと音を立てて扉を開ければ、暖かい空気とともに「っらっしゃい」と無愛想な声が冷え切った反町に届く。
「居酒屋 ちろり」
店名に似合わぬ気難しそうな大将がやっているこの店が反町の憩いの場だ。
四十も半ばになり、あと数年すればアラフィフと呼ばれるような年頃。
独り身の寂しさと、こじらせた自意識を抱える男を癒やすのが、この店の料理とかすかに響く懐かしいヒット曲たちだ。
「いやあ、冷えるね」
「ここ数日は特に、な」
カウンターが主で、四人がけのテーブルが三席。この規模のおかげか、いつ来ても一人飲み客にとって非常に居心地がいい。
お世辞にも愛想がいいと言えない大将も、このノスタルジー溢れる店のアジだと思える。
「今日は熱燗かな。それと板わさ」
おつまみははじめから決めていた。まずは板わさだと。やれ正月だ新年会だと連れ回されて疲れた胃に優しいものが反町は食べたかった。
「板わさか。雄町の純米酒もあるが……。こう寒いんじゃ、ひやは野暮だな。なら、こいつをぬる燗でどうだ。人肌より少し熱いくらいの」
そう言って大将が一本の四合瓶を取り出す。
黒っぽいつるりとした瓶には、洒落た筆文字のラベルが貼られている。
『特別純米か。これなら冷酒でグイッ、キリーッといきてえな』と眉をひそめる反町に大将が「こいつはな」と語りかける。
「特別純米だから米の旨味も強い。冷酒も熱燗も悪くないが、ぬる燗で飲むと香りが優しく開く。板わさも楽しめると思う」
そんな風に言われてしまっては反町の呑兵衛根性がくすぐられる。思わずゴクリと喉を鳴らすと「じゃあそれ一合ちょうだい」とうなずいた。
大将はすぐに準備に取り掛かってくれた。四合瓶の栓が外れるポンッという音に混じって、店内のBGMが新しいものに切り替わる。
ハイトーンなのにどこか深い声。ドラマでも使われていたあの曲だ、と反町は息を吐く。
初めて聞いたのは中学生の頃だ。自分もこんな渋くて情熱的な恋をして結婚をするのだと、あの頃は何の根拠もなく思っていた。
しかし、歌やドラマのような恋は反町の友人たちに聞いても起こってはいなかった。
若かったのだ。身体が求めるままキスをすれば心がついてくると信じていたことが。
「あれ、反町さん。いらっしゃい。やっと来たあ」
「こんばんは。早希ちゃん」
思い出に浸る反町に声をかけたのは、バイトの早希。
反町よりも二十歳ほど下。大人の仲間入りを果たして数年の彼女は、どうやら奥で洗い物をしていたようだ。
「早希ちゃん、いいかい」
「はーい」
元気な返事を聞かせてくれた早希はカウンターの中に戻っていく。
彼氏との結婚資金を貯めているらしい彼女の活発な姿は反町の目に微笑ましく映る。元気をもらえるのはオジサンになった証拠かと、思って苦笑する反町のもとに戻ってきた早希が小鉢とお湯に漬かったちろりを持ってきた。
「はい。お通しとぬる燗。」
ここではお燗をお湯を張った枡に錫のちろりを乗せて出すのがこだわりだ。
大将から、このほうが雑味が抑えられると以前聞いた。
プラシーボ効果というのか、不思議とこの店の燗は味が丸いように反町も感じている。
そーっとちろりから白いお猪口に酒を注いでいく。
白地のお猪口の底には青い円が描かれていて、それだけのことが反町の心を盛り上がらせた。
カレーをスパイスから作る男と同じくらい、酒器にうるさい男は面倒だという自覚は反町にもある。
だが、酒によって微妙に違う色合いを感じられるこのお猪口は、反町にとってシンプル・イズ・ザ・ベストとも言える代物なのだ。
蛇の目の青と白の境界線はどこまで澄んでいるのか。この一献の冴えをじっくり見つめてから、ほおっと息を吐き出す。
「それにしても、エッチだね。この曲」
「そうか?」
妄想たくましい中学生男子ならまだしも、酸いも甘いも味わい出した女の子が言うのが意外で、反町は聞き返してしまった。
確かにまだ女を知らなかった頃には、歌詞にもドラマにもずいぶんドキドキさせられたが。
「うん。だって、ぶっちゅーーってしようってことでしょ?」
「あはは。まあ、有り体に言えば、かな」
当時、背伸びをし始めた男たちには、相手の全てを奪うような、相手に全てを捧げるようなキスは憧れだったが、イマドキの子は違うのだろうか。
「でもさあ、ドキドキとかそういうの、もう良いかな」
「彼氏にドキドキしないの?」
「するけど、一緒にいてまったりできるのが良いんだよね」
なるほどそういうものか、と思いながら反町はぬる燗を煽る。
熱燗のようなピリリとしたキレはないが、この包み込むような優しさもいい。刺激的な恋も、温かな恋も捨てがたいのと同じ。どちらもいいと、満足な恋をしている早希に反町は言わないでおいた。
この酒はお通しの里芋の煮っ転がしとも相性が良さそうだ。ほかほかと湯気を立てる様子が田舎のようで反町をホッとさせる。
「早希ちゃん、あがりだよ」
「はーい」
「じゃあ、早希ちゃん。またね」
「うん、今度はもう少し早く来てね」
そう言って早希は下がっていった。早希にとって反町の顔はなかなか好みらしく、会うのを楽しみにしてくれていた。
「おまたせ、板わさだよ」
いよいよメインディッシュの到着に反町の胸が一気に高鳴る。
これはただの肴じゃない。反町にとって、シンプルに完成された飲みを約束する、新年初飲みにふさわしい一品なのだ。
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